栗ヶ沢バプテスト教会

2021-08-22 主日礼拝説教

 

「屋根をはがす信仰」

マルコ 2:1-11

木村一充牧師

 

 本日お読み頂いたマルコによる福音書2章に描かれる中風の人の癒しは、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書のすべてに書き記されている、たいへんよく知られた物語であります。この物語は、マルコによる福音書が書かれた当時の教会において多くの人々によって語り継がれ、また、この話を聞くたびに初代の信徒たちの心を躍らせた物語だったのではないかと考えられております。1節を読むと「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると家におられることが知れ渡り、」とあります。イエスはガリラヤ中の町々、村々を巡回しながら、各地の会堂で神の国の福音を宣べ伝えるという巡回伝道の働きをしておられました。その旅を終えて、再びカファルナウムに帰って来られたのです。すると、たちまち「主イエスが家におられる」という噂が広がり、それが村中の人に知れ渡ったというのです。以前の勤め先であった大泉バプテスト教会で、2015年の秋に久米小百合さんを招いてコンサートを開いたことがありました。久米小百合さんというとピンとこない人がいるかもしれませんが、久保田早紀さんと言えば分かる人がいると思います。確か、わたしが大学2年生の頃に「異邦人」というデビュー曲を大ヒットさせて、いきなり歌謡番組の第1位に躍り出るという、まさにすい星のように現れた新人歌手でした。その後、彼女は芸能界を退き、結婚をして自分が一番好きだという歌、讃美歌をうたう歌手になりました。その日のコンサートには、近所の方がたくさん見えて、会堂はいっぱいになり、集会は大成功の(うち)に終わったのですが、そのとき驚いたのは、久米さんが大泉教会でコンサートをするということを知って、遠く北海道からその日のコンサートのために駆け付けたというかたが何人もいらしたということでした。すごいですね。まさしくファンとはこのような人のことをいうのだなと思い知らされたのですが、この日のカファルナウムの集会も「イエスさまが来られる」という噂を聞いた人びとが大勢集まり、家の戸口のあたりまで人で一杯になったというのです。私たちの栗ヶ沢教会も、あの教会にはイエス様がおられるという噂が立つような教会になりたいと思うのであります。

 ところが、この盛況な集会の中にあってひとつ困ったことが起きました。主イエスの話を聞こうと集まってきた人、あるいは病を癒して頂こうと思って集まった人が余りにも多過ぎたために、イエスのおそばに近づくことが出来ない人が出てくるという事態になったのです。本日の箇所のすぐ前のページの134節を見てください。ここで、主イエスはシモン・ペテロのしゅうとめが発熱で寝込んでいたところを手を取って起こされ、その熱を下げるというわざをなさっています。すると、その噂を聞いて、町中の人が病人や悪霊に取りつかれた人を連れてきて、戸口に集まった。イエスはいろいろな病気にかかっている大勢の人たちを癒したと書かれています。このことは、まだ人々の記憶に新しい出来事でした。それゆえ、この日も大勢の人がやってきて、主イエスのまわりは人だかりでいっぱいになったのです。

 そのような中で、本日の事件が起こります。4人の男が中風の人を運んできました。しかし、群衆に阻まれてイエスのもとに連れてゆくことが出来なかったために、イエスのおられる辺りの天井の屋根をはがし、そこから床をつり下ろしたというのです。そのときの光景を想像してみてください。イエスはみ言葉をかたっておられました。そこに、突然物音が起こる。平行記事であるルカ福音書の5章の記事110ページを読むと、4人は「屋根に上って瓦をはがした」とあります。天井に、人ひとりがベッドで吊り下げられるほどの大きな穴が開く工事が始まったのです。昨日、わたしは説教の準備をしながら、この教会の講壇の天井部分をしげしげと見つめました。ここに穴を開けるとなると大変なことになると思いました。当時のパレスチナの民家の屋根は、1メートルほどの短い横木をならべて梁を作り、雨や直射日光ををさえぎるために、梁と梁のあいだには灌木を敷き詰め、そこに粘土を塗り付けた造りであったと言います。結果的に、屋根の大部分は土で作られるという事になります。ルカでは、瓦をはがしたとありますが、現代建築に見られるようなかまどで焼いた固い瓦が敷き詰められていたとは思えません。おそらく、粘土で塗り固められた屋根だったと思われます。その証拠に、当時の民家の屋根には雑草が豊かに茂るということがあったと言います。

 すると、どういう事になるか。主イエスが説教している途中で、屋上で人の声がして工事が始まり、物音と同時に天井の土がぼろぼろと床に落ちてくるわけですから、礼拝は一時中断ということになったに違いありません。いっぽう、穴を開ける側も大変ですよ。主イエスが立っておられる場所は、たぶんこの辺りではないか。ちょっと下を見てくるという人も現れたかもしれない。いや、多少の誤差はあっても、そのときは穴をもっと広げればいいんだ、というような言い草のもとで工事が強行される。これはもう常軌を逸した行為です。ある意味で非常識な、乱暴極まりない素人の解体工事の始まりという事になる。もし、現代の教会でこういう話になったら、役員たちが「馬鹿なことはやめて、礼拝が終わるまで、もう少し待ってください」といって、4人の行動を押しとどめることになるでしょう。けれども、イエスはそうはなさらなかった。聖書によると、イエスは、この状況のなかで「その人たちの信仰を見た」と記すのです。「その人たち」とは誰のことでしょうか。病気を患っていた当人だけではありません。中風で体に不自由を覚え、癒してほしいと願っていた本人の信仰もさることながら、むしろその病人を運んでくる4人の人たちの熱心をイエスは認めておられます。彼らは、自分たちの救いなど後回しにしています。この病人が癒されることが、何よりも大事だと考えているのです。彼ら4人は、中風の人の救われたいという願いを、この人とともに、いやもっと言えば、この人の代わりに背負った人たちでありました。イエスはそのような彼らの並外れた行動の中に信仰を見たというのです。わたしは思うのです。信仰や愛は目に見えないと言われるけれども、本当にそうだろうか。いや、信仰も愛もはっきりと見えるものではないか。逆に見えないような信仰、見えないような愛は本物とは言えないのではないかと。

 確かに、この家の主人にしてみれば、自分の家の天井に穴が開くというような事態は、穏やかな話ではありません。むしろ迷惑な話です。しかし、いいじゃないですか。代わりに一人の魂が救われるのであれば・・・。この状況を見て、イエスは言われました(5節です)。「子よ、あなたの罪は赦される」――不思議な言葉だと思いませんか。なぜなら、この中風の人が一番に喉から手が出るほどイエスにして欲しかったことは、ただ一点、病気を治してもらうことだったからです。だとすれば、イエスはこの時「子よ、あなたの病は癒される」と言えばよかったのです。しかし、イエスは「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。なぜでしょうか。それは、イエスが、当時のユダヤ人の多くが考えたように、この人の病や苦しみは、彼が犯した罪の結果だと考えていたからではありません。そのような考え方を、イエスは、ヨハネ福音書の9章ではっきりと打ち消しておられます。そうではなくて、主イエスはここで、この人の救いを問題にされたのです。

 救いとは何でしょうか。それは、確かに病気が治ること、不自由な体が自由になることを含んでいます。しかし、それだけには留まりません。貧困や差別、暴力やいじめなど人間が人間らしく生きてゆくことを妨げるこの世的な力、一切の罪の力からの解放、それこそが真の救いではないか。逆に、たとえ病気が治っても、不自由な体が元通りになっても、彼がなお罪の力に支配されたままであるならば、彼は本当の意味で救われたことにはならない。人は、神との関係において罪が赦され、霊的に満たされ、神の愛に中に入れられたとき、はじめて救われるのではないか。あの詩編23篇で、詩人は歌います。「たとえ、われ死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れじ。汝、私と共にいませばなり」と。それゆえ、私たちは次のように言うことができます。救いは癒しに勝る。救いは死の力や病の力を超えて、わたしたちに主にある平安を与えてくれると。ゆえに、病にもかかわらずわたしたちは救われている。御国に召されるその時でさえ、主にある平安がわたしたちを支配しているのです。それが救いではないか。

 本日の中風の人の癒しの物語で大切なことは、彼の病が癒される前に、「あなたの罪は赦される」と主イエスがおっしゃっていることです。現代の病院は、この罪の赦しの問題を棚上げにして肉体の癒しだけを行っています。けれども、それは聖書がいう救いではありません。本当の救いは神から来るのです。イエス・キリストの十字架の死と復活を通して与えられる救い、単なる肉体の癒しを超え、病や死の恐怖を超えて、わたしたちをそこから引き離すことはないとパウロが言うそのような神の愛による救いの中へと、勇気をもって飛び込んでゆきたいと思うのであります。

 

お祈りいたします。