栗ヶ沢バプテスト教会

2021-08-29 主日礼拝説教

 

「ヤコブ―神の顔を見た者」

創世記 32:23-33

木村一充牧師

 

 この朝お読み頂いた創世記32章には、ヤコブが母リベカの里であったパダン・アラムから生まれ故郷のカナンの地に久しぶりに帰ってくる、その日の夜の出来事が書き記されています。ヤコブには双子の兄弟であるエサウという兄がおりました。しかし、兄弟仲はそれほどよくありませんでした。父親であるイサクは兄の方を愛し、逆に、弟のヤコブは母リベカから愛されたと聖書にあります。そのようなことなら、どこにでもある話、よくある話だと言って済ませられるかも知れません。しかし、この兄弟のあいだには、やがて修復不可能ともいえるような大きな対立・分断が生じます。それは、本日の主人公であるヤコブが、本来は長男のエサウが受けるはずの祝福を、父親を欺いて奪い取るという事件を引き起こしたためです。

 この出来事が、本日の箇所よりも少し前の創世記27章に描かれています。内容をざっと振り返ってみましょう。父親のイサクは高齢になり、目も見えなくなってきたため、もう先は長くないと思い、長男のエサウを呼び、亡くなる前におまえに祝福を与えたいと伝えます。ただ、死ぬ前に、エサウが狩りで仕留めてきたおいしい獲物を食べ、そのときに祝福を与えたいと言うのです。(イサクは、狩人であったエサウが仕留めた獲物が好物だったのです。)ところが、その話を母親のリベカが陰で聞いていました。リベカは、そのことを弟ヤコブに伝え、「わたしがお父さんの好きな料理を作るから、肥えた山羊をここに持ってきなさい。そうして、料理を出すとき、兄になりすまして祝福をもらいなさい」と言いました。ただし一点、エサウの全身は毛でおおわれていました。一方、ヤコブの肌はなめらかでした。ヤコブは、それを口にします。すると、リベカは、エサウの晴着を取り出して着せ、ヤコブの腕や首に、ヤギの毛皮を巻き付けて扮装させて、イサクのまえに調理した料理をもって出させたのでした。父親のイサクは、まんまとこの計略に騙され、料理をもってきたのはエサウだと思い込んで、ヤコブのほうを祝福したのでした。このときの祝福の言葉が、創世記2727節以下にありますので、お読みします。「ヤコブが近寄って口づけすると、イサクはヤコブの着物の匂いをかいで、祝福していった。ああ、わたしの子の香りは主がさ祝福された野の香りのようだ。どうか神が天の露と地の生み出す豊かなもの、料理とぶどう酒をお前に与えてくださるように。多くの民がお前に仕え、多くの国民がお前にひれ伏す。お前は兄弟たちの主人となり、母の子らもお前にひれ伏す。お前を呪う者は呪われ、お前を祝福する者は祝福されるように

 ここを読むと、祝福とは単にお祝いの言葉を述べるというだけにとどまらず、人の将来や運命までも決めてしまう大きな出来事、人生に神の意志が介入してくる出来事であるということを思わされます。10月に当教会で結婚式が行われますが、その結婚式の式次第のなかに「宣言」という式順があります。「ゆえに、わたしは父と子と聖霊の御名によって、この二人が夫婦であることを宣言いたします。」と牧師が会衆の前で宣言するわけですが、それに続けて「神が合わせたものを、人が離してはならない」という言葉が語られます。わたしは、いつもその場面で、「この最後の言葉は強烈だな」と思いながら、口にしています。その意味するところは、結婚は人間の業ではないということです。人間の業であるというなら、結婚生活で何か問題が出てきたときには、簡単に別れてしまえばいいということになる。しかし、そもそも、人が人生の歩みを歩むなかで、問題がないことなどあるでしょうか。むしろ、私たちの人生は問題がおこるのが当たり前であり、患難や試練は、極端にいえば「茶飯事である」ともいえます。だからこそ、わたしたちには神の支えが必要です。わたしたちが選びとった人生の決断を神が祝福してくださるという約束を、心の支えにするのです。このような意味を持つ祝福を、ヤコブがだまし取ったということは、とんでもないことです。兄はこのヤコブのやったことに怒り、ヤコブを殺そうとします。殺すとは物騒な話ですが、それほど、ヤコブがしたことはよくないことだったのです。その結果、難を逃れるためにヤコブは母リベカの里であったパダン・アラムに退き、そこで伯父ラバンのもとで羊飼いとして働きます。兄との和解のときが備えられるためには、20年近くの長い期間が必要でした。

 わたしは思うのですが、もしも、ある人が人生のある時に、誰かを欺いて自分の利益になるような卑劣な行為をしてしまったとしたら、あとで一番苦しむのは、そのようなことをした本人ではないかと思うのです。ヤコブは兄からの復讐を恐れて、母リベカの実家に逃亡しました。しかし、そこで暮らした20年近くの間、兄に悪いことをしたという思いは、片時も彼の頭から離れることはなかったと思います。たしかに、出来事の背後には、母親の関与もありました。しかし、それをやったのは自分です。人のせいにしてはいけません。ヤコブは、兄から逃れ、母リベカの兄ラバンのもとで働きながら、カナンの地に帰ったあかつきには、エサウに必ず謝罪しようとずっと思い続けていたにちがいありません。

 そこで、本日の箇所に入ります。ここは、ヤコブがヤボク川の渡しで天使と格闘するところです。すぐ前のページ3210節、マハナイム、川の向こうはカナンの地というこの場所に着いて、ヤコブはエサウとの再会を目前にして祈っています。恥も外聞もかなぐり捨てて、心の底から絞り出すような祈りを祈っています。その祈りのあとで、兄への贈り物を選別します。雄と雌のヤギ、ヒツジ、らくだ、牛、ロバ全部で500頭を超える大変な数です。しかし、この時ヤコブに本当に必要だったことは、地上の財産で兄の怒りをなだめることではなく、兄エサウによって、自分のことを存在の根底から赦してもらうことでした。そのためには、ヤコブ自身が神の前に悔い改める必要があった。自分の持ちものではなく、外ならぬ自分自身を神に明け渡す必要があった。彼は、このとき祈りの戦いをしたのだと私は思います。それが、天使との組み打ちという恰好になって表れたのだと思うのです。ヤコブの祈りの言葉を、もう一度、聞いてみましょう。11節以下です。「わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りないものです。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。あなたは、かつてこう言われました。『わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする』と。

 これはヤコブの必死の祈りです。彼は、大きな恐れと不安の中で、しかもその恐れの原因が自分自身の罪であるということを知りながら、ただ、神の約束の言葉を頼りに祈り求めました。彼は、自分がその祝福を受けるに相応(ふさわ)しくない者であることが分かっています。そのことを告白しつつ、しかし、神からの祝福を必死で祈り求めているのです。「祝福してくださるまでは離しません」というヤコブの格闘は、自分が相応しくない者であることをはっきりと認めつつ、神の約束の言葉にすがりながら、それだけを頼んで祝福を求めていくという、祈りにおける格闘だったのです。

 この箇所をよむと、私自身も胸があつくなります。献身を決意した22歳のわたしにとって、伝道者となるという事は、不安と恐怖を振り払って、神が示される道、神が起こされる世界へ飛び込んでゆくことでした。なぜ不安と恐怖があったのか。自分は、とうていそのような器ではないという思い(確信)があったからです。テモテへの第一の手紙4章をよむと、いまでも胸が痛みます。「あなたは年が若いということで、だれからも軽んじられてはいけません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で信じる人々の模範となりなさい」愛において模範となれと聖書は言う。ところが、模範どころか、悪い見本、反面教師になっているのではないかという思いがいつも私にはあります。しかし、本日の箇所でヤコブは、祝福を求めて天使と格闘したのです。「わたしを祝福してくださるまで、わたしはあなたから離れません」そう言って、神にしがみついたのです。

 こうして、ヤコブは神の顔を見、神から新しい名前を与えられます。イスラエル、その意味は「神は争われる」人間の側から見ると「神と争う者」と言う意味になります。イスラエルの歴史は、まさに神に逆らい、神と争い続けた歴史でありました。しかし、そのイスラエルも、神に勝つことはできませんでした。天使はヤコブに「あなたは勝った」と言いましたが、完全な勝利はしていません。なぜなら、彼は股関節をはずされ、足を引きずりながら歩く羽目になったからです。しかし、彼は、神からの祝福は勝ちとることが出来ました。わたしたち信仰者の歩みも、このヤコブと同じではないでしょうか。神と格闘するようなかたちで、祈りの戦いをたたかい、最後には神様から祝福を頂きたいものあります。

お祈りいたします。