栗ヶ沢バプテスト教会

2021-09-05 主日礼拝説教

 

「執拗な祈り」

ルカ 11:5-9

木村一充牧師

 

 主イエス・キリストがある所で祈っておられた時、弟子の一人が、その祈りが終わるのを待ちかねていたかのように、こう求めました。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」ここの原文を読むと、「祈りを教えてください」という訳文の「祈り」は名詞ではなく、動詞の不定形が使われています。つまり、祈りの形式や祈りの文言ではなく、どうやって祈ればよいか、祈るという行為そのものを教えてくださいと聞いているのです。この弟子の願い求めは今も続いています。祈りに対する欲求、祈りをめぐる戦い、祈りについての悩み、そのような諸々(もろもろ)の問題を解決するために、神を信じようとする者の真剣で切実な問いが、提起されているのです。この弟子の願い求めは、じつはわたしたちの問題ではないでしょうか。わたしたちの中にも「何をどのように祈ったらよいか分からない」「祈れない」「祈りたくない」という、祈りに対して否定的な感情が、ぬぐいがたく場所を占めているのではないか。祈るのが、恥ずかしいとか、人に聞かれたくないという問題ではありません。祈りを通して、神の御心をたずねる姿勢ができていないのです。神を信じ、神に従おうとする私たちが備えておくべき「祈りの精神」を自分のものとするために、「主よ、わたしたちにも祈ることを教えてください」と求めることは、私たち自身の切実な課題であります。

 この祈りをめぐって、わたし自身が忘れることのできない苦い経験、失敗談があります。わたしは、20歳になった大学2年の5月に、板橋区の常盤台教会に通い始め、礼拝での松村秀一牧師の招きにこたえて前に出て、信仰の決心をあらわしました。その後、秀一先生とバプテスマの準備のための学びを時をもちました。数週間にわたる学びを終え、しばらくたってバプテスマを受けることとなり、事前に信仰告白の文章を書きあげて、松村先生に見てもらい、その文章でよいという事で、その週の水曜日の祈祷会の場で読み上げることになりました。9月下旬のことです。(その当時の常盤台教会は、バプテスマを受ける方がおこなう信仰告白の読み上げは、祈祷会の場でおこなうことになっていました)その日の夕べ、わたしは30名近い出席者の前で信仰告白を読み上げ、皆さまから賛同の挙手をいただきました。牧師のメッセージのあとで、56人のグループに分かれて祈る流れになったわけですが、順番にほかの人の祈りを聞きながら、わたしは胸がドキドキしました。それまで一度も声に出して祈ったことがなかったからです。すぐ隣は、高校生の女の子でした。彼女は、すらすらと祈りの言葉を口にしながら、他ならぬわたしの事も名前をあげて祈ってくれました。とうとう、わたしの番になり、祈り始めたのですが、うまく言葉が出てきません。顔を真っ赤にして、しどろもどろで思いを言葉にし、最後の()めの言葉「この祈りを、主イエス・キリストの御名によっておささげいたします」という言葉も口にすることができないまま、わたしの祈りは終わりました。あの日は、自分の信仰告白のことよりも、まともに祈ることができなかった自らの姿を思い知らされる忘れられない一日となりました。しかし、それから3か月たったクリスマスシーズンの頃です。ある日、同じ分級のクラスのメンバーだった一組のご夫妻に声を掛けられ、夕食に招待されたのです。常盤台教会は、教会学校成人科を地区ごとに分けて行っていたたため、分級クラスが、ある意味でミニ教会となっていたのです。テーブルに食事が並べられ、食前の祈りをささげる段になった時、わたしは思わず言いました。「わたしが、お祈りしてもいいですか。」3か月の間に祈れるようになっていたのです。それは本当に嬉しい体験でありました。

 祈ることを教えてほしいと求められて、主がここでお示しになった祈りの言葉、それはわたしたちが通常「主の祈り」と呼んでいるものです。これは、決して棒読みでただ唱えればよいというような祈りではありません。ところが、どうでしょうか。往々にして、主の祈りが形式的になっていはしませんか。ただ唱えるだけで、下手をすれば、主の祈りを祈る時ほどわたしたちが祈っていない時間はないということになる。そうならないためにも、本日の聖書から、主の祈りの冒頭部分をもう一度読み返してみましょう。112節です。「そこで、イエスは言われた。父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように」ここで、「崇められる」とは原語の意味は、聖別されること、つまり特別なものとして区別されるという意味です。他のものとは違った扱いをするということです。それは、ちょうどわたしたちが、日曜日の朝を他の曜日の朝と区別して、礼拝のために取り分けるのと同じです。その時間を、神さまのために使うわけです。神の御名を崇めるとは、神さまを中心とし、神さまのことを第一に考え、神の御名が大きくされること、逆に自分自身は小さく、低くされることを意味します。よく私たちが口にする、困ったときの神頼み、困ったときだけ神により頼むという態度とは正反対ですね。また、続いて「御国が来ますように」とあるのは、神の王国、つまり神が王となって支配する状態が行き渡りますようにという意味です。神を第一とし、神がわたしたちを支配するように、自分の生活と行動を整える、それが主の祈りの初めと二番目の祈りの意味するところなのです。

 この主の祈りに続いて、祈りの真理を教えるために、主イエスは、別にひとつのたとえ話を話されました。それが、真夜中にその人の家に友人が訪ねて来て、助けを求めてきたという人物のとった行動をえがく物語です。真夜中に友人の家を訪ねるなどとは、非常識だと思うかもしれません。しかし、日中の気温が40度近くになるパレスチナでは、人々はしばしば夜中に旅をしました。しかも長旅で、その友人は腹ペコという状況です。このような友人に対して、充分なもてなしをすることはユダヤの民にとっては神聖な義務だったのです。彼は、もう一人の友人のところへ行ってパンを借りようとします。パンを三つ、とは大人一人の一回分の量という意味です。ところが、その友人の家の戸口は締まっていました。パレスチナの民家では、戸を閉めるという事はめったにしませんでした。しかし、この友人はかんぬきか何かで戸を固く締めていた。それは、だれにも邪魔されたくないという強い意思の表れです。

 狭いパレスチナの民家で、家族が体を寄せ合って寝ている真夜中に、いくら友達とはいえ、いきなり戸口に立たれ、パンを貸してくれと呼び声がかかる。自分が起きるとなると、家族全員が起きることになります。この家の主人は、こういうわけでいったんは断ります。「面倒をかけないでくれ。もう戸は閉めたし、子どもたちもそばで寝ている。起きて何かしてあげるわけにはいかない」しかし、ここで主イエスは言われます。友人だからという理由では動かないその人も、「執拗に頼めば」必要なものを与えてくれるだろうと。そうして、良く知られた次の言葉が続きます。「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる

 このたとえ話を通して、主イエスは何を言おうとされているのでしょうか。ポイントは本日の文章中の「執拗に頼めば」という言葉です。原文のもとの意味は「恥知らずなほどの粘り」という意味をもつことばです。夜中に友達の家に押しかけて、戸をドンドンとたたくことは他の人から見たら失礼な話です。結局、この家の主人はその熱意に負けて床から起き上がり、門を開けてパンを貸してくれました。しかし、主イエスは言われる。天の父はこの友人に勝るかた、この友人がする以上のことをしてくださる方ではないかと。わたしたちは、神さまの前でもっと大胆に、もっと粘り強く、自分の願い求めを打ち明け、解決を求めて構わないのだと。皆さまのなかで、いま何かの大きな壁にぶつかり、問題の解決に苦しんでいる方はありませんか。自分の力では無理だとあきらめてしまっていませんか。そういうかたに申し上げたいのです。あきらめてはいけない。信仰者の祈りの戦いはそこから始まるのだと。

 栗ヶ沢教会に着任して1ケ月が過ぎました。わたしはこの教会に着任するにあたり、いくつかの祈りの課題をたずさえてこちらにやってまいりました。その課題は、どれもすぐには実現するような課題ではないと考えています。しかし、わたしが牧師のつとめを担わせて頂く以上、その祈りの課題は、どんなことがあっても取り下げるつもりはありません。皆さまの中で、今、何か人間関係で苦しんでいる方はいらっしゃいますか。私は申し上げたい。祈りの力はすごいですよ。祈りには人の心を開く力もあると私は信じます。

 かつて、神戸教会で、副牧師として働き始めた1年めの秋に、あるご婦人が病気で入院されたという知らせを聞き、女性の執事のかたとお見舞いに行きました。病室にはいって、慰めのことばを交わした後、手をおいてその人の前で祈ったのです。すると、そのとき、その方の涙が私の手の甲にポタポタと落ちて来たのです。わたしは、びっくりしました。それは、神さまがなさった御業だと思います。

 祈った結果与えられた答えが、わたしたちの望んだものと違う結果になると事もあるでしょう。しかし、そこにも神の計り知れないみ心、神の計画があると信じてください。わたしたちが神を信じるということは、わたしたちが祈る続けることが出来るということです。その祈りの力を信じて、ときには「恥知らずなほどの粘り」と熱意をもって祈り続けましょう。「求めよ、さらば与えられん。」この主イエスの言葉を信じて、「執拗な祈り」をささげてゆきたいと思うのであります。

お祈りいたします。