栗ヶ沢バプテスト教会

2021-09-12 主日礼拝説教

 

「カナの婚礼」

ヨハネ 2:1-11

木村一充牧師

 

 本日お読み頂いたヨハネによる福音書2章では、主イエスが、最初にご自分の弟子となった幾人かの弟子たちと一緒に、ガリラヤのカナで行われた婚礼の式に参列されたときの出来事が書き記されています。カナという村は、主イエスの郷里であるナザレから、北に15キロほど行ったところにあります。このカナで、イエスは最初のしるし(奇跡の業)を行い、ご自身の栄光を現わされました。ヨハネ福音書では、本日の第2章から主イエスの公生涯、すなわち公の宣教活動がスタートする形になっています。このことは、わたし自身は、大変注目すべき事柄であると考えています。つまり、ヨハネ福音書では、主イエスの公生涯が、ほかの3つの福音書(マタイ、マルコ、ルカの共観福音書)にあるように、荒れ野での40日間の断食とサタンの誘惑を経験したあとではなく、カナの婚礼に参列することから始まっている。これは、驚くべき事です。それはなぜか。その理由を考えてみましょう。

 この日、主イエスと一緒に婚礼に参加した弟子たちは5人でした。実は、その中にバプテスマのヨハネの弟子だった人が2人おりました。すぐ前のページ、1章の35節以下を見ますと、こう書かれています。「その翌日、ヨハネは2人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ神の小羊だ』と言った。2人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った」この2人は、この時点でイエスの弟子入りをしたわけですね。そのうちの一人はアンデレであった、と40節にあります。もう一人の弟子の名前は明らかにされていませんが、ヨハネだったのではないかと言われます。すると、弟子5人とは、シモン・ペトロ、アンデレ、ヨハネ、フィリポ、ナタナエルになります。そのうち、アンデレとヨハネの2人は、かつてバプテスマのヨハネの弟子として訓練をうけていました。ここで、バプテスマのヨハネがどういう人であったか思い起こして頂きたいのです。荒野という厳しい生活環境の中で、全身にラクダの毛皮をまとい、腰に皮の帯を締め、イナゴと野蜜を食べながら禁欲的な生活をしていた預言者、それがバプテスマのヨハネです。その宣教活動では、差し迫った神の怒りと裁きを説き、それを免れるために禁欲と節制と悔い改めのバプテスマを人々に呼びかけた人物、それが先駆者と呼ばれたバプテスマのヨハネでありました。恐らく、ヨハネの弟子であったアンデレとヨハネの2人も、そのような禁欲的な生活を送ることが、神の国の到来を迎える、すなわち御国に入るために、ふさわしい生き方だと教えられてきたに違いないのです。

 ところが、その彼らがイエスの弟子となり、最初に連れて行かれたところが、なんと婚礼の場所だった。あのヨルダン川での洗礼を何度も横目で見ながら、悔い改めと節制の日々を暮らしていたかつての生活とは180度の違いです。と申しますのは、当時のユダヤ人は、ぶどう酒を飲む機会、ごちそうを口にするような機会はめったになかった。1年に一度あるかないかだったと言います。ヨハネの弟子だった2人は、さぞかし驚いたことであろうと思う。ここで、わたしたちは主イエスが伝えようとした神の国の福音がどのようなものであったかを悟ることができます。それは、一言でいえば大らかさです。人々に、「○○をしてはいけない」と厳しく禁じるのではなく、すべての人を招き、共に食べ、共に飲む、そのような自由な豊かさに満ちたものでした。ちなみに、このあとの8章で、主イエスが語られた言葉に「真理は自由をもたらす」というみ言葉があります。私たちの教会もそのようでありたいと思う。神の国に入るとは、わたしたちの心を本当の意味で解放する、豊かな神の国の祝宴に参加することであります。わたしは、主イエスの公生涯が、ヨハネ福音書で、カナの婚礼から始まっていることを喜ばしく思います。わたしたちが日曜礼拝に出席することも、じつはこの喜びの祝宴に参加することなのです。

 ここで、主イエスの時代のユダヤの結婚式がどのように行われたかについて、短く触れます。婚礼の儀式は、水曜日の夕方遅くから始まりました。式が挙げられ、それが終わると、若い2人は自分たちの新居に家族の先導に従って導かれます。新居への道は、できる限り遠回りのルートで連れて行かれたと言います。たとえば、この教会で式が挙げられ、新居が北小金の駅だとすると、最短距離で行くのではなく、柏の光ヶ丘団地の方をまわり、流山の方を回り、最後に北小金に着く。それは、できるだけ多くの人に2人を紹介し、祝福を受けるためです。新婚の2人は新婚旅行には出かけませんでした。むしろ、新居に留まって、1週間の間、その家庭を開放したといいます。2人は、頭に冠を着け、婚礼の衣装をずっと身に着けたまま、あたかも王様とそのお妃のようにふるまいました。じっさい、王様、ないしはお妃様と呼ばれ、2人の言う事はすべて聞き入れられたといいます。貧しさと重労働の連続であるとも言える2人の人生の中で、祝福と喜びに満ちたこの新婚の1週間こそ、2人の人生における最高の期間、至福の期間でありました。私たちの教会もまた、結婚式を行います。その式辞では、その根拠となる聖書箇所として本日のヨハネ福音書2章が朗読されます。主イエスご自身がカナに出向いて婚礼に連なり、これを祝福された。だから、われわれも今、若き2人を迎えてこれを祝福するのだというのです。新たな人生の歩みを始める若き2人、また親戚となる二つの家族の上に、神さまの守りと祝福があるように祈るためです。主イエスが、その公生涯の最初に、弟子たちとカナの婚礼に参加されたことは、きわめて福音的なことであったと思わされるのであります。

 しかし、本日の物語をもう少し読み進めてゆくと、主イエスがこのカナの婚礼に参列なさった理由は、単に2人の結婚を祝うためだけではなかったことに、私たちは気付かされます。それが3節に示されています。「ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った。」ユダヤの婚礼において、ぶどう酒はなくてはならないもの、不可欠のものでした。さきほど、一般的なユダヤ人は1年に一度くらいしかぶどう酒を飲まなかったと申しましたが、そのような貧しい家計を支える父親も、自分の息子、娘の結婚式となれば、祝い酒が足りなくなるというような不名誉なことにならないように、一所懸命貯蓄をし、あるいは最悪の場合、ぶどう酒を水でうすめてでも、間に合わせたと言います。その比率は、ぶどう酒2に対して水が3だったという。(さすがに、それでは美味しくないと思いますが・・・)

しかし、そこまで気を遣っても、このカナの婚礼では残念ながらアクシデントが起こってしまいました。人生で最も光り輝く時、一番幸せなその時、裏方では思いがけない(ほころ)が生じていたのです。私どもは、このことが決して他人事(ひとごと)ではないことを知っています。だからこそ、ほとんどの結婚式において、お祝いの席を穢すことがないように、とくに結婚式の司式、披露宴の司会の役などを引き受けるときは、私どもはたいへん気を遣うのです。人生の慶事において汚点を残したり、両家の関係にヒビが入ったりしないように、服装はもちろん、持ち物や言葉遣いに至るまで私どもは気を配る。これもまた、人間の現実、実相ではないでしょうか。そこまで気を遣っても、なお吹き出してくる問題がある。私たちの人生もまたそのような困った事、予期せぬ事故に取り囲まれているのだということを、私たちは厳しく見つめなければならないと思うのです。私もまた、牧師として普通の人以上に多くの結婚式に参列し、多くのアクシデントを体験してまいりました。配慮を欠いた挨拶、肉親や家族間の軋轢、明らかな準備や手配の不足など、華やかな祝宴の舞台裏には、そんな人間の破れや弱さが露呈することがある。このカナの婚礼でもアクシデントが起きてしまいました。ぶどう酒が足りなくなったのです。華やかな宴席の舞台裏で発生していた大きな(ほころ)びと破れ――私たちは今や悟らずにはおれません。主イエスがこの婚礼に足を運ばれたのは、まさしくこの事のためだったのだと。婚礼における事故、これもまた人生の縮図です。しかし、その事故を通して私たちは学ばねばなりません。私たちは、自分の人生を決して思いのままに操ることなど出来ないということです。

 このピンチに際して、主イエスはどこにおられたでしょうか。華やかな客間でしょうか。いいえ、そうではありません。婦人や奴隷たちが、忙しく働く土間に立っておられたのです。主イエスは、私たちの弱さや破れをともに担われるお方です。そうして、このピンチのなかで、次の言葉を語られました。「水がめに水をいっぱい入れなさい」不思議な言葉です。今足りないのはぶどう酒なのです。だから、どこかからぶどう酒を買って来いという話なら分かります。しかし、水がめに水を一杯満たせというご命令は、ポイントが外れています。このイエスのお言葉に対しては、しもべたちから見れば、お言葉への信頼と服従が必要です。なぜでしょうか。わたしは、イスラエルを旅行して分かりましが、ガリラヤのカナというところは、乾燥した丘陵地です。ここでは、コップ一杯の水を調達することも大変な仕事だったのです。しかも、この水がめの容積はおよそ100リットル近くありました。それが6つもあったというのです。しかし、しもべたちはこのイエスのご命令に従いました。常識的には、意味不明であり、徒労としか思えないその作業を、彼らは、井戸までの道を何度も往復しながら、額に汗してやり遂げた。しかも、かめの縁までいっぱいにするかたちでやり遂げたのです。するとそのあと、その水が極上のぶどう酒に変わるという奇跡が起こったのです。

 信仰とはどういうものでしょうか。それは、神の言葉の中に、まだ見えていない出来事をみるということです。そのような心の目を持つことです。神の言葉に信頼するとは、神さまがおっしゃるのであれば、きっと良いことをされるに違いないと信じることです。そこに自分を賭けるのです。一見、理不尽に思えることでも、そこに、神さまの深いご計画がある信じて、素直に従うことです。本日のしもべたちもそのようにして従いました。神さまは、わたしたちの労苦と骨折りを、決して見落とすことはなさいません。本日のしもべたちのような従順さをもって、主イエスの言葉に従う者になりたいと思うのであります。

 

お祈りいたします。