栗ヶ沢バプテスト教会

2022-12-25 クリスマス礼拝説教

 

救い主、生まれたもう

ルカ21- 7

木村一充牧師

 

 イエス・キリストは、今からおよそ2000年前のパレスチナ(現在のイスラエル)のエルサレム郊外、ベツレヘムでお生まれになりました。当時、地中海世界はローマ帝国の支配下に置かれ、時の皇帝はアウグストスでした(BC27年〜AD14年在位)。その皇帝アウグストスの人口調査の勅令に従って、ヨセフはマリアを伴って、先祖の地であったベツレヘムに登録をするために旅立ったと、福音書記者ルカは本日の箇所で書き記すのであります。もっとも、イエスの誕生時にこのような人口調査が実際に行われたかどうかについて、確かな公文書や記録は残っていません。この住民登録を報告するものは、本日の聖書本文だけという状況です。なぜ、ルカは皇帝アウグストスによる住民登録を、イエス誕生と同時期に起こった事柄として報告しているのでしょうか。ここに、本日の箇所を読み解くヒントがあるように思われます。

 人口調査とは、そこに住む人々の戸籍を作成する作業です。その目的は、これによって、支配者が住民からもれなく税金を取り立てるためであり、さらには徴兵や労役を課するためのものでした。現代の世界においても同じです。世界の国々の最大の関心事は、軍備と税金の問題です。つまり、軍事力と経済力です。わが国でも、いま政府与党によって、防衛力増強のための予算を対GD比で、2程度にまで引き上げる方針が示され、そのための増税が議論されています。経済力と軍事力、この二つは国家の力を象徴するものです。アウグストスは全世界の人口調査をせよと命じましたが、このようにして巨万の富を集めたローマ帝国もやがて滅び去ることになりました。ローマ皇帝がどれほど力を持っていたにせよ、未だ全世界を支配した権力者は現れたためしがありません。力で世界を支配しようとする人間の狙い、野望はいつか崩れ去ることになるのです。しかし、福音書記者ルカは、本日の2章で、この皇帝アウグストスが発した「全領土の住民に対する人口登録の勅令」に並んで立つ仕方でもう一つの「すべて」を書き記しています。それは羊飼いたちが登場する8節以下の段落中、10節の登場する天使の言葉です。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」この二つの「すべて」を並立することで、ルカは「全世界を力で支配しようとしたローマ皇帝」と、「すべての民に喜びの福音であるイエス・キリスト」とを対比しようとしているのです。一方は、王冠をかぶり、支配下にある人々に自分を神の子として礼拝することを求めた王であり、もう一方は、地上に迎えられる場所もなく、飼い葉桶に寝かされるようなかたちでお生まれになった王とを比較しているのです。

 ヨセフは,妻マリアをともなってベツレヘムまでの旅に出ました。ナザレからベツレヘムまでの距離は直線距離で120キロ、東京から東北自動車道で宇都宮を超えて矢板インターチェンジまで車で行くほどの距離です。しかも、身重のマリアを連れて徒歩での移動です。ヨセフの心労はいかほどだったことでしょうか。移動に数日、もしかすると1週間くらいかかったかも知れません。やっとのことで二人はベツレヘムに着きます。ところが、二人を受け入れてくれる宿泊先がありませんでした。クリスマスの降誕劇(ページェント)によると、どの宿屋も人口登録の旅行客で部屋は一杯であって、結果的にイエスは馬小屋で生まれたとされます。「あいにくだが、客間はどれもいっぱいで空きがないんだ。ただ、馬小屋でよければ空いているよ」そんな宿屋の主人のせりふを、何度も耳にしたものです。ところが、研究者によると、当時のベツレヘムは人口が900人くらいの小さな町で、今日で言う「旅館」のような建物はなかったのではないかというのです。むしろ、ヨセフとマリアが泊まった場所は普通の民家、農家の建物だったと彼らは言います。宿屋と訳される元の言葉(カタル―マ)は、「洞穴の上の部屋」を意味する言葉でした。つまり、洞穴の部分が土間になっていて、そこに家畜が繋がれて休むのです。そこから階段をいくつか上ったところに居間があり、屋根があって、そこに人が泊まるようになっているのです。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」と7節にありますが、それは階段を上った二階には、幼子イエスが生まれるための場所がなかった。そこで家畜が休む場所であった土間の上、洞穴でイエスはご誕生になり、そこにあった飼い葉桶の中に寝かされた、という意味です。人が横たわるところには幼子を寝かす場所がなかったため、幼子は家畜たちが休む洞穴で、飼い葉桶の中に寝かされたというわけです。しかし、全世界の王の誕生の舞台がこのようなわびしい場所であるとは、なんということでしょう。それは、一体どういうことでしょうか。

 飼い葉桶に眠る幼子…それは、イエスというお方が、この世の貧しい者と連帯していることを示しています。ただ貧しいだけではありません。客間からも締め出されるような、この世にあって自らの居場所を持たない孤独な人、見失われた者として人の世の悲しみや嘆きを知っている人、虐げられた人、そのような人々の救い主となるために、神の御子はこの世にお生まれになりました。しかし、このお方は拒絶されるだけではありませんでした。人間たちは幼子を客間から締め出しましたが、動物たちはイエスを飼い葉桶から取り除こうとはしませんでした。動物たちの温かい体温が、聖家族にとっては唯一の「ぬくもり」だったかもしれません。しかし、この「ぬくもり」こそ主イエスの生涯の原点となったと、私には思われるのであります。

 新生賛美歌194番に「まぶねのかたえに」という題名の曲があります。この賛美歌の作詞は、17世紀のドイツでルター派の教会の牧師として活動した人物です。ちなみに、マタイ受難曲で歌われる「ちしおしたたる」もこのゲルハルトの作詞による曲です。このゲルハルトの原詩を、J・Sバッハの作曲によって

歌にした賛美歌、それがこの「まぶねのかたえに」です。この曲の歌詞ですが、ドイツ語で次のように書かれています。1節を訳すと、次にようになります。

 

 『わたしは、ここ、あなたの飼い葉桶の傍らに立ちます。

 おおイエス、汝、わが命よ

 わたしは、ここに来て、あなたがわたしに下さったものを

 たずさえ、それをお返しいたします。

 それらは、わたしの精神、思い、心、魂、そして気持ちです。

 どうぞ、それらすべてをお受け取りください。

 そして、それを喜んでください。((よみ)してください)』

 

 『1.Ich steh an deiner Krippe hier,

 O Jesu du mein Leben;
 Ich komme, bring und schenke dir,
 Was du mir hast gegeben.
 Nimm hin, es ist mein Geist und Sinn,
 Herz, Seel und Mut, nimm alles hin
 Und laß dir's wohlgefallen.

 

 土の上に寝ることは、当時の農民たちでもしばしばあることでした。しかし、生まれる赤子のためのゆりかごは、どんな貧しい者でも用意できる品物です。ところが、イエスというお方はそのゆりかごに眠ることすらお出来にならなかった、すなわち、もっとも低い姿でお生まれになったお方です。

 そう考えると、この王は最も王らしくない生まれ方でこの世にお出でになり、とても「神の御子」と呼ぶことが出来ないよう姿でお生まれになりました。そこには、神にふさわしいものは何一つありません。この方を礼拝するなどとてもできません。そう考えても何の不思議もありません。しかし、私たちはパウル・ゲルハルトと同じように、この飼い葉桶に眠る主の前に立ち、そこで礼拝します。それだけでなくゲルハルトは言います。「主よ、どうぞこのわたしをあなたのゆりかごとしてください」(原詩9節)と。

 クリスマスの礼拝を捧げるこの日、幼子イエスを心の中の客間から締め出すのではなく、イエスよ、

どうぞ私の心のゆりかごの中にお眠りくださいと、告白する者でありたいと願うのであります。

 

お祈りいたします。