栗ヶ沢バプテスト教会

2023-1-1 元旦礼拝説教

主のなさる御業を見よ

イザヤ401- 8

木村一充牧師

 

 新しい年、2023年を迎えました。今年は元日が日曜日ですから、いつもの年の元旦礼拝をかねる形で本日の礼拝をささげます。新しい年を迎えることによって、私どももまた、一つ(よわい)を重ねることになります。私どもの人生を持ち運んでくださる神さまの恵みに感謝しつつ、今年もまた主の業に精一杯励む一年でありたい、そのような思いを新たにする次第であります。さて、今年の干支はウサギ、漢字で書くと「卯」となります。(私たちの教会でも、今年が年男、年女に該当する方が何人かおられます)この「卯」という漢字ですが、漢和辞典で調べてみますと、これはもともと象形文字で、閉ざされた門の扉が両開きのかたちで開かれる様子を表した漢字であるといいます。そこから、「飛び出る」とか「飛躍する」という意味を持つ漢字だと解されるようになりました。ちなみに、冷たく凍った大地を裂くようなかたちで、「ふきのとう」などの植物が芽生える旧暦の2月のことを「卯月」(陰暦の4月)と呼ぶのは、ここから来ているといいます。この漢字が示すように、2023年が私たちの教会にとって、また皆さま方お一人お一人にとって「飛躍の年」、これまでの狭い枠組みから飛び出して何か新しいことを始める年、転機となる年になるよう、お祈りする次第であります。

 その新年の朝に与えられた聖書のみ言葉として、旧約の預言書であるイザヤ書401節以下の御言葉(みことば)を選びました。このイザヤ書40章以下は、バビロン捕囚の末期に活動した無名の預言者である「第2イザヤ」と呼ばれる人物の手によるものと見られています。この第2イザヤは、アモツの子イザヤ(第1イザヤ)とは別人とされる預言者で、活動した時代も第1イザヤより200年近く後、BC6世紀半ば頃と考えられています。第2イザヤは、捕囚の民イスラエルに対して捕囚からの解放と祖国への帰還が近づいていることを告げ知らせました。いわば大いなる希望を語り伝えた部分が今日のところで、40章以下の数章は旧約聖書の中でも、最も美しい詩文が書き記されている所であります。早速12節を読みましょう。「帰還の約束」という小見出しに続いて「慰めよ、わたしの民を慰めよと/ あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。/ 罪のすべてに倍する報いを/ 御手から受けた、と。」と記されます。――このような預言が語られた背景について、少し整理してみます。BC586年、オリエントの新興国であるバビロニアによって国家を滅ぼされ、捕囚の民とされたユダの民は、バビロンの川のほとりの村々に植民させられました。川べりの各地の捕囚民は農業に従事しつつ、それぞれで小さなユダヤ人共同体を造り、異国の文化に曝されながら、抑圧と差別の中にもかかわらず、ユダヤの精神的・宗教的遺産を大事に守り続け、いつの日か必ず、祖国に帰還することができるという希望を持って生きていました。そのような捕囚の民に、一つの希望とも言える出来事が起こります。それは、BC562年にネブカドネザル王が死んで、バビロニア帝国の統一が乱れ、分裂が起こり始めたという事件です。その時から、バビロニア帝国が滅亡するまでに時間はかかりませんでした。BC550年、ペルシャの小国の王であったキュロスはメディアを制圧し、4年後には、小アジアのリディアを征服し、ついにBC539年、キュロスはバビロンに入り、首都を征服しました。こうして、バビロニアは滅亡し、新しくキュロス王によってオリエント最大の帝国ペルシャが誕生しました。キュロス王は、それまでのアッシリアやバビロニアとは異なり、属州として支配下におさめた地域の住民の宗教や国民感情に対して寛容な政策をとり、その宗教的な活動を認めます。このキュロス王のもとで、ユダヤ人はエルサレムに帰ることが許されたのでした。

 本日の12節で語られているのは、抑圧されてきた民に対する解放の言葉、福音の言葉です。その言葉を慰めの言葉として語るように、イザヤは神から命じられるのです。ここで「慰める」と訳されるヘブル語の動詞(ニーハム)には、「心を入れ替える」という意味があります。およそ二世代にわたって捕囚の民として抑圧の中で暮らしてきた民に向かって、「心を新たにして」神の言葉を聞く者となりなさいと神は言われるのです。なぜなら、苦役の時代は終わり、イスラエルの咎は十分に償われたからだと、主なる神は言われるからです。「苦役」と訳される2節の言葉は前の口語訳では「服役」となっていました。戦争によって捕えられ、捕虜となり、遠い外国の地に移され、抑圧されて暮らしてきた状態を指しています。そのような不自由な身分から、あなたがたは解放された、とイザヤは言うのです。「罪のすべてに倍する報いを受けた」とありますが、この「二倍」とはもともとは「折り重ねた支払い証書」のことを意味しました。この時代の外国貿易の商人たちは、納品した商品に対する買い手からの支払いが終わると、二つ折りにした請求書をピンにとめて買い手に渡しました。その支払い済みの証書のことを「二倍」と呼んだといいます。請求書の額と支払いの額がちょうどイコールで負債がなくなるように、イスラエルの民が犯した罪とその償いによって負債が無くなります。そのように、あなたがたは、犯した罪の報いとして捕囚という処罰を受け、もはやその咎は十分に償われたと、神は言われるのです。同じことが、イエス・キリストによって起こっています。コロサイの信徒への手紙213節以下にこう記されます。「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、…規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」だから、もう悩み苦しむ必要はない。むしろあなたがたは慰めを受けなさい。あなた方が受けた処罰に倍する豊かな神さまからの報いを受けなさい、と主は言われるのです。今、悩みと苦しみの中にある方は、この神さまの救いのわざ、キリストの十字架の愛を、ぜひ受け取って頂きたいと願うのであります。

 3節からは、ユダヤの民が祖国に帰還するために、神がなされる備えの業が明らかにされています。新約聖書ではイエス・キリストの先駆者と呼ばれたバプテスマのヨハネが登場する場面で、福音書記者たちがヨハネを紹介する際に引用している聖書箇所がこのイザヤ書403節以下です。「荒野で呼ばわる者の声がする。主の道を整え、その道をまっすぐにせよ」という聖句を、皆さんも何度かお読みになったことと思います。

 ただ、私がこの3節以下を読むときに思い起こすのは、ノーベル平和賞を受賞したアメリカの黒人牧師、マルチン・ルーサー・キング牧師の「私には、夢がある」( = “I have a Dream” )という演説の中の言葉です。19638月、キング牧師は、ワシントンのリンカーン記念館の階段の上で、25万人近い聴衆を前にして次のように語りました。「私には夢がある。いつの日か、この国が立ち上がり、その建国の信条の本当の意味を生き抜く――つまり『我々は、すべての人間は平等なものとして創造された』ということを自明の真理として掲げるようになるという夢である」「私には夢がある。いつの日か、ジョージアの赤茶けた丘の上で、昔は奴隷だった人々の子孫と、昔はその所有者だった人々の子孫が、同胞としてのテーブルに一緒に座ることができるようになるという夢である」私には夢がある。いつの日か、私の4人の小さな子供たちが、その肌の色ではなく、彼らの人格、その中身で評価される国に住むようになるという夢である」――これに続いて、本日のイザヤ書40章の4節以下がそのまま引用されます。「私には夢がある。いつの日か、すべての谷が隆起し、そしてすべての丘と山が低くされ、荒れ地が平坦にされ、曲がりくねった道がまっすぐにされ、そこに主の栄光が現れ、すべての肉なる者がそれを共に見るという夢である」このイザヤ書の御言葉(おことば)を、キング牧師は「人種差別」というアメリカ社会が抱えている深い罪の暗闇を打ち破り、すべての人種、すべての人間が同胞、兄弟となること(brotherhood)を実現させるための、約束の言葉、希望の言葉として語りました。私たちの信仰生活もそうではないでしょうか。今は、実現していない事柄であっても、たとえそれがいかに困難なことであっても、キング牧師が語ったように夢を抱いて生きること、確かな祈りのテーマを持って生きることが、私たちを本当の意味で足腰の強い、ちょっとやそっとでは倒れない、しっかりと地に足のついた信仰者にしてくれるのではないでしょうか。

 しかしながら、このような第2イザヤの解放の言葉、福音の言葉を耳にした捕囚の民は、それをそのまま素直に喜べた人たちではありませんでした。それは、同じ40章の最後の部分、27節の言葉からも窺えます。27節にはこうあります。「ヤコブよ、なぜ言うのか/ イスラエルよ、なぜ断言するのか/ わたしの道は主に隠されている、と/ わたしの裁きは神に忘れられた、と。」――遠く故郷をはなれた異教の地で長く暮らすうちに、イスラエルの民には主への信頼が薄れ、救いが見えなくなっていました。あらゆる希望がはぎ取られた苦難の日々が長く続くことで、未来が見えなくなり、心は暗く固く閉ざされ、その表情には喜びがなくなり輝きが無くなっていたのです。そのことは、同じ時代を生きた第2イザヤ本人も分かっていました。彼は、ユダヤの民から超然として自分を分かち、孤高に生きた預言者ではありませんでした。それどころか、同じ弱さを抱える人間として同胞の民に何と語りかければよいのか、逆に主に問い返せねばなりませんでした。神さまのからの懲罰としての捕囚の出来事を自身の事柄として受け止めるほど、預言者自身も民の嘆きと痛みを知っていたのです。そのような彼に主なる神は言われます。「肉なる者は皆、草に等しい。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。」パレスチナでは、春になるといっぺんに花が芽吹くといわれます。しかし、やがて夏になると、そこに熱風が吹きつけ、さらに熱砂をもたらし、一瞬のうちに美しく咲き誇ったアネモネなどの花を枯らせてしまうのです。神は、罪を犯し続けるご自分の民イスラエルに向かって、かつて「わたしの民でない」と言われましたが、今や、この民に向かって「わたしの民」(イザヤ書401節)と呼びかけておられます。確かに「草は枯れ、花はしぼむ」存在です。人間もまたそのような、はかない存在でしかありません。しかし、その弱く枯れ果てていく世界を新たに創造する神の言葉、力が、神にはあります。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」この主の言葉を聞かされ、預言者は民に向って語る言葉を与えられたのです。

 新しい年に生きる私たちに与えられる神の言葉がこの言葉です。私たち人間は弱く、罪や過ちを犯す存在です。しかし、そのような私たちを神は見放すことなく、赦し、生かしてくださいます。キング牧師のように夢をもって、とこしえに立つ神の言葉に信頼しながら2023年を歩んでまいりたいと思うのであります。

 

お祈りいたします。