栗ヶ沢バプテスト教会

2023-01-15 主日礼拝説教

 

苦難、忍耐、希望

ローマ 51-7

木村一充牧師

 

 この朝お読み頂いたローマの信徒への手紙を書き送った使徒パウロという人は、かつては教会の迫害者でした。彼は、ユダヤ教のファリサイ派に属するユダヤ人として律法の戒めを熱心に守り、この戒めに従わない人々を厳しく責め、自分たちファリサイ派こそ神のみ心に従う生き方をする模範的ユダヤ教徒だと自負していました。ところが、彼からするとクリスチャンと呼ばれる連中は、自分たちが軽蔑していた罪人たち、徴税人や遊女という人々と積極的に関わり、むしろ、律法を少しも守れない彼らこそが、学者たちよりも先に神の国に入ると説いたイエスという人間を「救い主」と告白するというのです。パウロにとって、それは我慢ならないことでした。初代教会の信徒たちの中で最初の殉教者となったのはステファノという信徒伝道者です。彼は信仰と聖霊に満ちた人で、信徒たちの中でもひときわ目立つ働きをしていました。しかし、そのステファノをユダヤの議員たちは捕え、裁判にかけ、神を冒涜する者として、石打の刑で殺してしまいます。パウロもまた、ステファノを殺すことに賛成していました。そればかりか、パウロは主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司からの許可状を手にして、シリアにあるダマスコの教会に向かったのであります。ちなみに、このダマスカスという町は、初代教会の発展の拠点となった五本山の一つとして知られる都市であります。このダマスコに向かう途中で、パウロは復活の主と出会い、そこで回心をします。かつては教会の迫害者であった彼が、その回心後は福音の伝道者となり、教会を建設する者へと180度の方向転換をしたのです。

 なぜ、パウロは教会の迫害者からキリストの使徒へと180度の転換をすることになったのでしょうか。本当のところは、パウロ本人に聞いてみなければよく分からないでしょう。しかし、その決定的な理由が、本日のローマの信徒への手紙5章に書き記されているのではないかと私は思います。それは、人は律法の行いによっては義とされない。すなわち、「律法では人は救われない」ということをパウロが深く悟ったということです。そうです。神の掟、ルールを守るだけでは人は救われないのです。皆さん、戦後の混乱期に裁判官として忠実に法を守った結果、餓死してしまったという裁判官がいた話をお聞きになったことがあるでしょうか。この裁判官は、物資が極端に不足していた終戦直後、食糧管理法違反で起訴されたある被告人の裁判を担当しました。当時、配給食糧以外、違法である闇米を食べることは法律違反であり、自分はそれを取り締まる側、有罪判決を下す立場です。ただ、闇米を食べなければ生きていけないというのがその当時の現実でした。食糧管理法という法律を正しく施行するため、それを取り締まる自分が闇米を食べていてはいけないという思いから、この裁判官は、敗戦の翌年1946年初め頃から闇米を拒否するようになります。配給で回ってきた米を二人の子どもたちに与えて、自分は粥などをすすって食べました。こうして彼は栄養失調になり、30代前半で倒れ、療養生活に入った後、肺結核で亡くなったのです。ちなみに、この事件のあと、裁判官の給与・待遇面での改善という対策が政府によって取られたといいます。この裁判官の話は、私たちに一つの大きな問題を提起しています。それは、そもそも人間を死なせてしまうような法律を、果たして人が守る必要があるのかという問題です。

 ファリサイ派だった当時のパウロの心に「平和」はなかったのではないでしょうか。周りの人々が正しく律法を行っているかどうか裁き、自分さえも厳しく裁く。ユダヤ人にとって、およそ神とは「恐るべきお方」「親しく交わることなどとてもできないお方」「自分たちの手の届かないお方」でありました。神と親密な関係を持つということが、なかなか出来なかった。しかし、イエスというお方が私たちと神との間に入り、仲立ちをしてくれることで、私たちと神さまとの距離がぐっと近くなったのです。私たちが「イエス様」と呼びかけて祈る時、天におられる神さまが私たちの「父なる神」として極めて身近な存在になるのです。このような父なる神との新しい関係のことをパウロは「義認」、すなわち「義とされる」と言い表しています。私は、イエスさまが私どものために死んでくださったことは、律法による義認以上のことが起こったのだと思います。すなわち、行いがなくても、ただイエス・キリストを信じる信仰によって、私たちは義とされるのです。十字架とは、そのように価無き私たちのために、神みずからが義となって、信じる者を救いへと導き入れて下さるという神の愛の出来事であります。相応(ふさわ)しくない私たちを神は義としてくださる。これをたとえで話すと次のごとくであります。ここに一人の女の子がいま夏休みのを過ごしていた彼女は、その日友だちと遊ぼうと思って表に出ます。空を見ると曇り空でお天気が少し心配でした。すぐ戻るからいいと思って彼女は近くの公園に行き、友だちと遊んでいました。ところが、急に天気が悪くなって激しい雨が降り始めました。あいにく、傘の用意はありません。ずぶぬれになり、で家まで帰る途中、水たまりのところで車の車輪がはねた泥水が彼女の服にかかり、女の子の服は泥で汚れてしまいます。泣きながら、やっとのことで家に帰り着きました。服はびしょぬれ、しかも泥で汚れています。その時、お母さんが出迎えてくれました。お母さんは女の子を見て何と言うでしょうか。「こんな天気の日にどうして表に出るの?服まで汚してしまってきれいになって出直してきなさい」と女の子を叱るでしょうか。いいえ、お母さんはそうは言いません。こう言います。「どうしてもっと早く帰って来なかったの。さあ、お風呂で早く体を洗いなさい。そして、温かい服に着替えなさい。お母さんが用意しておくから」そう言って、彼女を優しく受け入れるはずです。神さまは、まさにこのお母さんのように泥だらけの私たちを受け入れて下さるのです。

 2節を読みます。「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」ここで「導き入れられ」と訳されているギリシャ語の動詞は、もともと船が入る安全な場所への誘導を意味する言葉でした。すなわち、船を港あるいは避難所へと誘導する際に使われる動詞がこの言葉でした。この用法にそってここを解釈すると次のようになります。すなわち、私たちが自分の力、自分の努力で救いを勝ち取ろうとしても、それはちょうど水夫たちが暴風雨の中で船を操るのと同じで、われわれの心はただ波間を揺れ続けるだけです。ところが、今やイエス・キリストの福音という神の言葉を受け入れる時、我々の心は落ち着き、神の恵みの港に停泊することができるというのです。

 しかし、続く3節を読むと、パウロは信仰を与えられることの肯定的な面だけに目を注いでいるわけではないことがわかります。「そればかりではなく、苦難をも誇りとします。」とパウロは言うのです。手紙の宛て先である都市ローマは、当時地中海世界を支配していたローマ帝国の首都でありました。周りは皆ローマ人という環境のもと、人々は土着の神々、具体的にはヤヌスなどの偶像の神を拝んでいました。そのような異教社会の中にあって、キリスト者であり続けることは決して楽なことではありませんでした。パウロは、この手紙をギリシャのコリントに滞在している間に書いたと言われます。コリントにもローマにも、偶像の神々をまつる神殿がありました。そのような異教社会で、ほかの多くの人が行う宗教活動に反対して、それに抗うようなかたちで日曜日ごとに礼拝をささげることは、まことに困難なことでした。ローマのキリスト者たちが迫害を受けたのは、ほかのローマ市民が参加する宗教活動に、彼らキリスト者たちが参加しなかったことが理由としてあったといいます。自分たちの宗教慣習に従わないという理由で、ローマのキリスト者は時の権力者たちから迫害されました。

 現代の日本の信仰者にしてみれば、ローマ時代の信徒ほどの厳しい迫害や反対勢力はないかも知れません。しかし、いつどのような場所で生きようと、信仰者の人生が苦難との戦いの人生であることに変わりはありません。人生の問題は、常にさまざまな形で吹き出て来るものです。ある人には、地域や職場の人間関係の軋轢(あつれき)という問題があるかもしれません。また、他の人には経済的な悩みがあります。さらに、他の人には健康上の問題、弱っている家族の介護の問題があります。たとえ今はそうでなくても、年を重ねるごとに自分自身の体力も落ちて来るという逃れようのない現実があります。そのような苦難に対して、パウロは今日の箇所で、次のように述べます。「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」ここで苦難と訳されるギリシャ語(スリプシス)のもともとの意味は「抑圧、押えつける力」を意味する言葉です。何か自分にプレッシャーとなっている事柄ということです。しかし、多かれ少なかれ、人は何らかのプレッシャーを受けながら生きているものです。プレッシャーに押しつぶされてはなりません。つぎの「忍耐」ですが、原語のギリシャ語「ヒュポモネー」とは、「○○の下にとどまる」という意味をもつ言葉です。日本語では「石の上にも三年」という諺がありますが、ギリシャ語ではその重荷が自分の上にのしかかっている状態を表しています。ただ、この忍耐はただ単に耐え忍ぶだけではなく、更に積極的に重荷を乗り越え、克服するという意味をも持っています。私も、前の会社で慣れない営業の仕事を始めた当初は、本当に辛くて、いつまでこの仕事を続けられるだろうと不安で仕方ありませんでした。ところが、いやで嫌で仕方なかったその仕事を、1年、2年と辛抱して続けているうちに、だんだん仕事がうまくいくようになったのです。成功体験も増えてきました。そうしたら、逆に仕事が面白くなってきたのです。それは不思議な体験でした。そして、最後は希望です。「希望はわたしたちを欺くことがありません。」と本日の5節には書かれています。「欺かない」と訳される言葉は、英語訳聖書では「がっかりさせない」と書かれています。(=Hope does not disappoint.)信仰者の人生は「がっかり」で終わるのではありません。そうではなく、勝利で終わるのです。なぜでしょうか。それは、神の愛が私たちに注がれているからです。キリスト者の希望は、神の愛に裏付けられているのです。今、苦難の中にある方がおられるかもしれません。しかし、どうか信仰によってその苦難を乗り越えてください。私も共に祈ります。神さまは私たちを決して悪いようにはなさいません。神の愛を信じて、その愛の中にその身を委ねることで「平安」という主の港に、しっかりと停泊して頂きたいと思うのであります。

 

お祈りいたします。