栗ヶ沢バプテスト教会

2023-01-22

主日礼拝説教

蛇の誘惑創世記31-7

木村一充牧師

 

 この朝は、旧約聖書の創世記3章から「蛇の誘惑」という題で、み言葉に聞いてまいりたいと思います。3章までの流れを振り返ると、1章で、神は天地万物を造られたのち、創造の6日目にご自分にかたどって人を造られたことが書かれていました。2章では、神は彼にふさわしい助け手を与えようとして人を深く眠らせ、そのあばら骨から女を創造されたといいます。神は、彼らをエデンの園に住まわせました。そこで遊んで暮らしていたわけではありません。15節に「人がそこを耕し、守るようにされた。」とあるように、彼らは神の言葉に従い、神に仕えて働きながら生活していたのです。彼らは、エデンの園にあるすべての木から取って食べて良いと言われていました。ただ一つ、その中央にある善悪の知識の木からは決して取って食べてはならないと言われていた。つまり、神の保護と養いのもとで、神のみ旨に従いつつ、大きな自由と小さな禁止の中で生きる、それがエデンの園における人間の生き方でありました。

 ところが、本日の3章になると、その人間が神の言葉に背き、罪を犯し、この楽園から追放されて茨とアザミで覆われた外の世界、荒野(あれの)のような世界で生きなければならなくなったことが描かれます。禁断の木の実を食べた結果、彼らは、それまでの神の恵みと祝福に満ちたエデンの園での生活とはまるで違う厳しい自然のもと、額に汗しながら働く生活強いられたのです。しかも、彼らは、土に帰るべき存在、死すべき存在となったことが書き記されている。たかが禁断の果物(くだもの)を食べたくらいで、ここまでの仕打ちを受けねばならいのはあまりにも酷ではないかと思う人もいるかもしれません。しかし、このように聖書が書き記すのはそこに深い意味が込められているからです。本日はその意味を聖書から聞いてまいります。

 彼らが禁断の木の実を食べることになったのは、蛇の誘惑があったからでした。この蛇は何を意味しているのでしょうか。古代オリエント世界において、蛇はしばしば豊かさ、豊穣のシンボルと見なされました。蛇をかたどった女神(めがみ)の像が、カナン地方の遺跡から数多く出土されています。つまり、蛇は神的な力、神秘的な力を持つ生き物と見なされていた。しかし、この蛇もまた神が造られた生き物の一つだったと聖書はいいます。しかも、神が造られた生き物の中で最も賢いものがこの蛇でありました。多くの注解者はこの蛇のことを悪魔だとかサタンだと解説しますが、私はそこまで蛇を悪者にしたくはありません。むしろ、この蛇の頭の良さ、ずるがしこさ(狡猾さ)は、私たち人間の思い、人間の心理を映し出しているのではないでしょうか。具体的には、神の言葉に縛られその言葉に従って生きることから離れて自由に生きたいと願う私ども人間の本質・本性を、蛇の言葉があぶり出している。蛇はそのような存在だと思うのです。

 ヴィクトール・フランクルというオーストリアのユダヤ人の精神科医、心理学者がおります。彼は1942年、ナチスによって捕えられ、強制収容所に入れられるという経験をしますが、その時の体験をもとに『夜と霧』という本を著わしました。強制収容所という理不尽の極致ともいうべき施設に入れられた人々がいったい、何を目的として人生を生きることが出来るのか、生きる目的と意味を問う書物です。捕えられた多くのユダヤ人たちは、クリスマスになったら自分たちは収容所から出て解放してもらえるという情報を信じ、そこに一縷の望みを置いて生きていました。ところが、いざクリスマスの日がやってきても、そこから出てよいという話にはならなかったのです。これに失望してなのでしょうか、クリスマス明けに、収容所で多くの人が亡くなったといいます。フランクルは、この体験をもとに、人間が生きるためには「希望」を持つことが不可欠だと述べています。

 蛇は女にこう尋ねています。口語訳聖書の訳文を引用します。「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」この翻訳の方がリアルですね。「本当にそう言われたのか」と問うことで、高度の強調がなされています。更に「どの木からも食べてはいけない」という言葉は、全部否定を意味します。神から人間に与えられた自由は最大限の自由であったはずなのに、この問いかけで、その自由を神が制限していることを印象づけようとしているのです。この問いに対して女は答えます。「わたしたちはその果実を食べてもよいのです」この返答は「一応は、園の果実を食べてもよいのです」という意味です。神がエデンの園で人間に与えた自由は大きな自由、最大限の自由であったのに、「一応、食べても良いことになっている」と答えることで、女の中で神の自由に対する矮小化が起こっていることが分かる。元々大きな自由であったのに、小さな自由になってしまっているのです。これに続く彼女の返答はさらにぐらついています。「でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」女は「園の中央に生えている木」と言っています。しかし、中央という場所で言ってしまうと、対象となる木の数がもっと広がる可能性があります。神は「善悪を知る木」一本だけを指しているのです。「これこそ木の中の木だ」と言っておられるのです。続けて彼女は「触れてもいけない」と言います。しかし、神は「触れるな」とはおっしゃっていません。触れるとは神への恐れを意味します。彼女の中で神への恐れの気持ちが芽生えているのです。最後に彼女は「死んではいけないからと、神が言われました」と答えました。しかし、前の2章を見てください。神は「食べると必ず死んでしまう」と言われたのです。彼女は、禁断の木の実を食べてもなお自分が生き残れる可能性を認めようとしているのです。女は蛇が、神様の戒めに対して、歪んだ正常でない見方をしていることに気が付いています。しかし、神の側に立って神を弁護しているつもりが、不正確な表現による伝達になってしまい、結果的に蛇の思うつぼにはまっているのです。蛇は、いったんは女を曲がりなりにも神の弁護者にさせ、彼女が神の側にとどまっていると感じさせます。しかし、次のひと言で彼女を転落の底に突き落とします。「決して死ぬことはない!」甘い読み方をすれば、神はそれほどに残酷な方ではないという意味になります。しかし、厳しい見方をすれば、蛇はここで「神の言葉通りにしなくても構わない」と言っているのです。神は「必ず死んでしまう」と言われました。しかし、蛇はそれに対してNo!と打ち消します(ヘブル語で「ロー!」)。「絶対の権威などない」というわけです。蛇は女よりも神についてよく知っているように見せかけ、神に従う以外の生活を知らない女に、誤った判断をするように働きかけます。神の言葉に従うよりも、神の言葉が正しいかどうか判断する立場の方が優れているのですよ、と蛇は唆し、神を試す立場の方がより大きく完全な自由があると思いこませようとしているのです。

 罪とは何でしょうか。それは、決して人間が動物になることではありません。そうではなく、人間が神から離れ、神に代わって自ら小さな神になることです。人間が神の言葉を拒否し、神に挑戦する別の神となること、それが、聖書がいう罪であります。ここで2章の9節bに目を向けていただきたいのです。「また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。」とあります。繰り返しますが、この章で善悪を知る知識の木からだけは取って食べてはいけないと言われていました。他の木からは自由にとって食べてよかったのです。当然、命の木からも取って食べて良かったわけです。ところが、禁断の木の実を食べるという事件が起こったことで、この神の言葉に大きな変更が加えられることになりました。324節にあるようにアダムとエバを楽園から追放し、この命の木から取って食べられないように、その道中にケルビムと剣の炎を置かれたというのです。善悪を知る木から食べると死ぬと言われていたのに、人間はそれを食べてしまった。彼らは自殺するつもりでそれを食べたのでしょうか。いいえ、そうではありません。食べても死ぬはずがない。それどころか、自分たちも神のように善悪を知るものとなると思ったから食べた。その結果、どうなったか。善悪を知る者として、神と人間という二つの極が生まれることになりました。一方の極である神は100%善なるお方です。もう一方の極である人間は、善にも悪にも走り得る存在です。なぜ、禁断の木の実を食べた人間が死ぬべき者に定められたのか、それは不完全な人間が永遠に生きる者となることを、神がお許しにならなかったということです。ウクライナ戦争のような戦争が繰り返し起こされたら嫌でしょう?

 こうして、彼らは禁断の木の実を食べました。すると、彼らの目が開かれましたが、そこで彼らが知ったことは彼らが裸であるという事実でありました。罪に陥るまでは、彼らは神の庇護の下で自分たちを守ってくれる霊の衣を身にまとい、神の前でも人の前でも何ら自分を隠すことなく生きていたのです。ところが、罪を犯した今、彼らには「恥」の意識が芽生え、神の前で()の間に隠れ、またいちじくの葉を合わせて腰を覆うものとしたという。225節では「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」とあります。神に造られたままの人間は裸だったのです。それで何の問題も起こりませんでした。しかし今や神に従うことをやめ、神から自由になって生きようとした途端、自分たちが裸であることを知り、この部分は隠さなければ、という思いが起ってきたのです。このことは、人間が神から自由になることによって起こる問題を象徴的に描いています。それまで裸だったというのは、神に対しても、また人間同士でも、すべてをさらけ出し、何も隠すことはなかった。曇りなき交わりがそこにあったのです。しかし今や、腰巻きをしなければならなくなった。お互いの関係に隠し立てが始まったのです。それは、交わりに亀裂が入ったということです。神に背き、そこから離れて自分が神のようになって生きようとした途端に、他者との関係に亀裂が入り始めたのです。当然でしょう。神でない者が神のようになろうとしたら、人間同士の間に亀裂が入るのは明らかです。さらに言えば、腰を巻くいちじくの葉といえどもいつかは朽ち果ててしまうものです。私たちは、朽ち果てるものによって自分を守り、自分を飾ろうとします。しかし、鎧や兜、この世の地位や名誉、お金によっていくら自分を守ろうとしても、それらは過ぎ去るものであることを悟らねばなりません。特に鎧や兜をまとうとは、戦闘服を着るということです。そのような生き方に本当の意味での平安、喜びはありません。しかし、聖書の神はこのように人間と神との間に生じた亀裂を、そのままに放っておかれるお方ではありません。ローマの信徒への手紙5章を見て頂きたいのです(新約聖書280ページ)。19節に「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」とあります。アダムの罪は、イエス・キリストという方の贖いの業によって帳消しにされました。罪ではなく、代って恵みが支配するようになりました。だから、あなたがたもバプテスマを受けて、罪の支配から解放され、恵みの支配する世界で新しい命に生きる者となりなさい、と使徒パウロは説くのです。

 人間の堕罪によって、人は命の木から食べることが出来なくなり、そこに至る道は剣の炎で遮られることになりました。この命の木はどうなったのでしょうか。私たちと命の木との関係は永久に閉ざされ、その木から食べることが永久にできなくなったのでしょうか。いいえ、聖書はこの命の木が再び私たちの支えになってくれる時が来ることを記しています。ヨハネの黙示録222節を見てください。「川は都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国民の病を(なお)す。」そう書かれています。主が再び来られるその時、私たちは神の都に住み、神を礼拝する。そこで、毎月実を結ばせる命の木の恵みに浴することができると聖書は言うのです。イエス・キリストを信じ、終わりの日まで信仰を全うすることで、私たちは命の木に与かれます。創世記において壊れた神と人間の関係が、黙示録において完全に回復すると聖書は説くのであります。

お祈りいたします。