栗ヶ沢バプテスト教会

2023-01-29 主日礼拝説教

 

神の力に支えられて

第二テモテ 13- 8

木村一充牧師

 

 この朝は、新約聖書のパウロの手紙の一つであるテモテへの手紙二、1章からみ言葉に聞いてまいります。テモテへの手紙は、晩年のパウロがローマで獄中に繋がれ、もはや自由に福音を語り伝えることができなくなった状況下で、遠くアジア州のエフェソで教会の牧会者として働いていたテモテに書き送った手紙です。この手紙は、パウロの最後の手紙であると言われています。いまだ伝道者としての経験が浅い若きテモテに、教会の現場を知り尽くしたパウロが、教会の中で忘れてはならない牧会的配慮について書き記した書簡、それがいわゆる「牧会書簡」と呼ばれるこの「テモテへの手紙」と次の「テトスへの手紙」であります。

 っそく、1節以下を読みましょう。「キリスト・イエスによって与えられる命の約束を宣べ伝えるために、神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、愛する子テモテへ。」パウロは、ここで自分のことを「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされた」と言い表しています。パウロにとって使徒であることは誇りであり、名誉であり、特権でありました。彼は、神からの委託を受けて使徒としての働きを担いました。自らの生活・生き方の全てを通して、イエスが救い主であることを証言し、またそのイエスを遣わした父なる神が愛の神であることを人々に語り伝えたのであります。その背後には、確かな神の選びとパウロ自身の応答、つまり堅固な召命感がありました。私は、自分の大学時代の友人に自分が牧師であることを広く知らせていますが、たまに彼らと会うと「牧師の仕事とは、どんな仕事か」「牧師とは、いったいどのような存在なのか」と聞かれることがあります。それに対して、私は次のように答えています。「教会を訪ねて来られるお一人一人、その人が教会員であるか否かに関係なく、その人が一番大変な中に置かれている時に、その人の傍にいることが許される人のことです」と。人生の歩みの中で人はしばしば試練や危機に遭遇します。そのような人生のピンチにあって、それを簡単には、家族や身内に相談したり話したりできないということがあります。その前に、誰よりも先に神さまに打ち明けなければならない。そんな経験をすることがあるのです。そのような時、牧師としてその人の傍にいるということが、果たして自分にできているだろうか?それは厳しい自らへの問いかけであります。

 使徒という言葉を英語で表すとapostleとなりますが、この言葉は、もともとギリシャ語のアポステローという動詞から派生した言葉です。「派遣する、遣わす」という意味を持つ動詞です。伝道者は、神からの使命をおびて教会に遣わされた人、神から召し出された人であります。しかし、神からの召しを受けている人は、実は伝道者だけではありません。すべてのキリスト者が神から呼び出されて、キリストの証人として生きるように求められています。そもそも新約聖書の中で「教会」と訳される原語のギリシャ語は「エクレシア」であり、それは「呼び出された者たち」という意味を持つ言葉です。キリストの証人としてこの世で生きるように、その生き方を通して神の栄光を現わすように神から選び出されているのです。私たちは、信仰を与えられた初めのころは、自分だけのために教会の礼拝にあずかっていたかもしれません。しかし、私たちは自分だけを喜ばせるためにキリスト者になったのではないのです。クリスチャンとは、神が自分にしてくださったことに驚き、それを喜び、そのことを他に人に告げ知らせずにはおれない人のことであります。

 そのような使命に生きた使徒パウロですが、ここでテモテのことを「愛する子」と呼びかけていることに注目したいのです。コリントの信徒への手紙一7章で言われるように、パウロは生涯独身でありました。故に、ここでいう「子」とは血のつながりのある息子という意味ではありません。そうではなく、パウロはテモテにキリストにある新しい命、永遠の命を与えた、いわば「魂の親」でありました。血のつながった親であることに喜びや誇りを感じるということが、私たちにはしばしばあります。それは親としての特権であるかもしれません。だとすれば、ましてや魂の親となることはそれ以上の喜び、また特権ではないでしょうか。そのようにテモテのことを「愛する子」と呼ぶことができるほど、強くしっかりとパウロとテモテは信頼の絆で結ばれていたのです。テモテへの手紙が、2000年たった今も変わらない愛の手紙として私たちに響いてくるのは、この手紙の受取人であるテモテに向けて、魂の親であるパウロの愛が豊かに注がれているからであります。

 このテモテとパウロはどのようにして出会ったのでしょうか。その消息は、使徒言行録16章に書かれています。この言行録16章においてテモテという名前が初めて登場します。彼は信者であるユダヤ人を母に、ギリシャ人を父に持つ若者でした。テモテはガラテヤ地方の諸教会で評判の良い人物でした。このテモテを連れてパウロは第2回伝道旅行に出かけたのです。実は、この第2回伝道旅行に出かけるに当たり、パウロは大切な同労者と決別しています。その同労者とはバルナバです。バルナバは、回心後のパウロが、出身地であるタルソスに身を潜めていたのを見つけ出して、アンテオケアに連れて行った人物でした。「慰めの子」というその名の通り、バルナバは多くの人に信仰ある勇気と慰めを与えた人、聖霊と信仰とに満ちていた人でした。しかし、共に第1回伝道旅行での苦労を分かち合ったバルナバとパウロは、第2回伝道旅行にヨハネ・マルコを同伴するかどうかで、激しく対立してしまいます。パウロはマルコを連れていきたくないと言いました。なぜなら、マルコは第1回伝道旅行の途中でパウロと一緒に旅することをやめ一人で先に帰ってしまったからです。なぜ、マルコは同行するのをやめたのでしょうか。マルコはパウロとは福音理解を異にした為だとか、伝道旅行の大変さを経験しそれに音を上げたからだとか、いろいろ推測されていますが、詳しいことは分かりません。しかし、確かなことは、パウロがマルコの代わりとなる新たな弟子を探していたということです。その期待にテモテは応えてくれました。テモテはパウロの期待通りの働きをしたのです。

 本日お読み頂いた第二テモテ13節でパウロは言います。「わたしは、昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし、先祖に倣い清い良心をもって仕えている神に、感謝しています。」パウロは獄中にありながら、昼も夜も、すなわち一日中ずっとテモテのことを祈りに覚えていました。テモテの伝道の成功、エフェソの地における教会の発展は、テモテだけの喜びにとどまらず、パウロにとっても大きな喜びだったのです。テモテは5節によると純真な信仰を持っていたと言われます。私はテモテの純真な信仰は祖母のロイス、また母親のエウニケという3代にわたる信仰の継承によって養われたものであると確信します。祖母のロイスもユダヤ人でした。なぜなら、ユダヤ人とは母親がユダヤ人である人のことを指すからです。祖母のロイスはその信仰を娘のエウニケに伝え、エウニケはクリスチャンになりました。そしてギリシャ人と結婚します。テモテは雑婚によって生まれた子でした。厳格なユダヤ人はそのような結婚を認めようとはしませんでした。しかし、祖母のロイスは娘エウニケが外国人と結婚することを認めました。テモテにすれば、ロイスはとても寛容な、愛情溢れるおばあちゃんだったに違いありません。その祖母と母親に育まれ、テモテはキリスト教信仰を受け継いだのでした。私はここを読むと、アウグスチヌスという教父を思い起こします。紀元4世紀から5世紀にかけて活動した古代キリスト教の教父にアウグスチヌスという人がいますが、彼は33歳で救われるまで、実にすさんだ生活をしていました。十代でアフリカに渡り、マニ教という異端の教えにそまり、20歳にならないうちに同棲して子供が生まれます。そのことに心を痛めていたのは、クリスチャンの母モニカです。彼女は、息子のためにずっと祈りました。祈って、祈って、祈ったのです。そのモニカを支えたのは、当時ミラノの司教だったアンブロシウスという人でした。彼は教父でしたが、涙して祈るモニカの姿を見てこう言いました。「安心して行きなさい。涙の子は決して滅びることはない。」こうして、アウグスチヌスは悔い改めて回心したのです。彼は33歳の年の4月に洗礼を受けましたが、母モニカはその年の秋に召されたのでした。しかし、その母の祈りがあったからこそ、古代最大の神学者アウグスチヌスが誕生したのです。

 続く6節でパウロは、自らの按手を通して神がテモテにお与えになった賜物をテモテに思い起こさせています。私自身、昨年10月の就任式の際に教会を代表して各会のリーダーのかたに頭に手を置いて按手して頂きました。身が引き締まる思いがしたことを今も思い起こします。パウロも、テモテをアジア州に派遣するときに、按手して送り出したようです。その按手を通して、テモテが教会のよき指導者となるために必要な賜物をさらに燃え上がらせるように、と述べています。その第一は「勇気」です。テモテは良い家柄に生まれましたが、少し臆病で心配症であるという弱さがあったようです。しかし、パウロは、神は臆病の霊など与えていないと言います。そうではなく力の霊を与えたという。その力とは、背骨が折れてしまうかのような重荷も負う力、困難な環境に立ち向かう力、そして悲しみと失意を乗り越える力です。キリスト者にはどんな逆境の中にあってもそれを乗り越え、前向きに希望を持って歩む力が与えられています。神に頼って生きるなど弱い者のすることだと思うのは間違いです。そうではない。神に頼ることで正しく物事を判断し、困難を乗り越える力を神から頂くのです。第二は、愛です。愛は感情だけではありません。愛には強い意志が必要です。個人的に言うと、私はどんなことがあっても、教会員を責めるようなことはしないと決意しています。なぜか、それは、私は教会と教会員を守るためにここにいるからです。どんな事があっても信徒を守る。もし、これに反するような言動をしたときは皆さん、どうぞ私を叱ってください。教会を愛するのには、強い意志が必要なのです。互いに切磋琢磨して、その力を磨いてゆきましょう。そして第三、それは思慮分別です。もとのギリシャ語は「ソーフロニスモス」ですが、訳するのが難しい言葉です。正しい判断力、ないしは克己心を意味する言葉です。パニックの中に置かれても、なお自制心を持って物事に対処し、そこから逃げ出すことなく冷静に対応する力を持つということです。そのような力を最初から備えている人は滅多におりません。しかし、神を信じる者にはそれが与えられるとパウロは言うのです。パウロは、今獄中にあって、普通であれば心が折れそうになっている状況です。しかしそのような状況をものともせず、彼はテモテに神から与えられた勇気と愛と自制心という霊の賜物を、再び燃え上がらせなさいと勧告しているのです。キリストの僕になりきることで、人はどんな時にも力を与えられます。新しい年2023年も、この神からの勇気を頂いて、たとえ厳しい環境であっても、一歩ずつ歩んでゆきたいと思うのであります。

お祈りいたします。