2023-02-05 主日礼拝説教
「キリストにある慰め」
第二コリント 1:3- 7
木村一充牧師
この朝は、コリントの信徒への手紙二から『キリストにある慰め』という表題で御言葉を取り次いでまいります。コリントの教会は、使徒パウロが紀元50年ごろ、第2回伝道旅行でアテネの次に訪問したギリシャ最大の都市コリントに建てられた教会でありました。地図を見ると、コリントの町はギリわたしシャ本土とペロポネソス半島をつなぐ「首」の部分に位置する交通の要衝にあったことが分かります。東側がエーゲ海、西側がアドリア海で、地峡の両側が海というこの場所に運河が建設されました。この運河を渡ることで、船乗りは半島をぐるりと一回りすることなく、最短距離でローマに人や荷物を運ぶことができたのです。この運河の使用料を得ることで、コリントはたいへん豊かな港町になりました。当時の人口は60万人を超えており、その3分の2が奴隷、3分の1が自由人であったと推定されています。パウロはこの町に1年半の間滞在し、イエス・キリストの福音を宣べ伝えました。ただ、コリントの町の背後の丘にはギリシャの神々を祀る立派な神殿があり、刻まれた像を拝む偶像礼拝が広く行き渡っていました。ヘレニズム文化にどっぷりとつかった町、それが当時のコリントでした。さらに、この神殿の道中には大勢の神殿娼婦がたむろしていたといいます。その経済的豊かさとは裏腹に、町の風紀は乱れ、享楽と頽廃の精神が町全体を覆っていました。このような中で、パウロはキリストの福音を宣べ伝え、ギリシャの諸教会の中で最も規模の大きい教会を立てあげたのであります。
ところが、パウロがこのコリント教会を去り、次の伝道地であるエフェソでの働きを始めると、リーダー不在となったコリント教会にはさまざまな問題が発生しました。コリント信徒への第一の手紙は、このような教会の中でのさまざまな問題に対する、牧師としての問題解決にむけての助言、あるいは指導・勧告の言葉が書き記されている手紙です。然るに、これに続く第二の手紙では様相が大きく変わります。実は、コリント教会の中に何人かのパウロの論的が入り込み、パウロの使徒職、使徒としての身分を否定し、これを攻撃する偽教師が現れたのです。彼らは、パウロのエルサレム教会への募金の運動に対しても、あらぬ疑いをかけ、パウロを非難したことが読んで取れます。パウロは、教会の中で生まれたさまざまな誤解やパウロへの非難、中傷に対して、その弁明のために何回かにわたって手紙を書き送りました。コリント教会は決して、伝道・牧会がしやすい教会ではありませんでした。むしろ、異教社会の中にあってキリスト者がその力に圧し潰されそうになる、そのような信仰の戦いが求められる町中の教会だったのです。
本日お読み頂いた1章3節以下の段落では、「キリストにある苦難と慰め」がテーマになっています。聖書朗読が長くなるので、本日はお読み頂きませんでしたが、今日の箇所に続く1章の8節にはこう書かれています。「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。」ここを読むと、パウロがエフェソの地でとても恐ろしいことを経験したことが分かります。「ひどく圧迫されて」と訳されるもとのギリシャ語は、船が余りにも多くの積み荷の重さによって沈没する、という時に使われる動詞です。とても耐えることが出来ない何かの苦しい事、その苦難は、あたかも死の宣告を受けるほどのものであり、先行きへの希望がまったく持てない。そのような苦難でありました。しかし、実際何が起こったのかについて彼はひと言も語りません。詳しく「それは○○という苦しみだった」と書かないのです。なぜでしょうか?以下は私の推測ですが、それはこの手紙がコリント教会の信徒に向けて書かれたメッセージだからです。メッセージとは、人を喜ばせる言葉です。パウロが味わった個人的な苦難を詳細にあれこれと説明しても、コリント教会の人たちは喜ばないと思った。だから、パウロは自分がどれだけ大きな苦難を受けたかについてではなく、むしろ、神がいかにしてその苦難から自分を救ってくださったか、についてここで書くのです。パウロが、手紙の中の一つ一つの文章について十分に配慮しながら、手紙を書いていることが分かります。さらに言えば、本当の苦しみを経験した人間は、その苦しみについて多くを語らないものです。自分の苦しみを「ねえ。聞いて、聞いて」と言って宣伝するようなことはしない。私たちの苦しみは、パウロの苦しみに比べたら圧倒的に小さいわけですから、私たちもパウロを手本にして苦しみをとやかく語らず、むしろ神がそこから救い出して下さったことの喜びを語る者になりましょう。旧約聖書の詩編116編で、詩人は次のような喜びの声をあげています「あなたはわたしの魂を死から/わたしの目を涙から/わたしの足を突き落とそうとする者から/助け出してくださった。」それ故、「わたしは…主のみ名を呼び、心からの感謝のささげもの(「満願のささげもの」と訳される)をささげます」と詩人は告白するのです。彼は、苦しみではなく喜びで満たされているではありませんか。私たちもそうでありたいと願うのであります。
そこで、本日の聖書箇所に入ってゆきます。3節以下を読みます。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神はあらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」私たちの信じる神が愛の神であるということは、これまで繰り返し語ってきました。しかし、この方が私自身の父であるということを自分の頭と体で感じとる、つまり全身全霊で理解するという体験が、私には不足していたように思います。「神は、この私自身の父である」そのことをストンと理解できるようになりたいという思いから、私は先週ある映画(DVD版)をレンタルショップで借りてきて、妻と一緒に見ました。『そして父になる』という題名の是枝裕和監督の作品です。この映画は、同じ日に同じ病院で生まれた新生児の取り違えをテーマとする作品で、そのことが6年後に発覚。DNA鑑定も行われ、それぞれの両親に事実が告げられ、それまで他人の子どもを育ててきた二つの家族に、どのようなことが起こったかを丁寧に描いてゆく作品です。福山雅治という人は歌手であることは知っていましたが、役者としての能力にも驚かされました。彼が演じる主人公の野々宮良太夫妻は、息子慶太を小学校受験のために塾に通わせ、無事私立小学校に合格させます。ところが。その慶太が自分たちの本当の息子ではなく、他人の息子であることを知り、愕然とするのです。やがて、両家の家族が顔を合わせ、息子たちにどうやって真実を知らせ、新たにその子の親となっていくか話し合われます。一つ一つの言葉が胸に刺さりました。やがて、相手の家にわが子を送り込み一緒に生活をさせるのですが、福山雅治は息子に「いいか、慶太。これはミッションだ」と言い聞かせるのです。しかし、反対に相手夫婦から送り出された息子(琉晴くん)は、全く自分たちになつかず、家出をして宇都宮の実家に帰ってしまいます。無理して親になろうとしても、子どもの方が拒否反応を起こしてしまったのです。映画の最後で、6年間一緒に過ごした息子慶太、自分のことを、すこし嫌いになりかけていたこの子を、福山雅治は追いかけてゆき、「慶太、もうミッションは終わりだ!」といって、しっかりと抱きしめるのです。「父親になる」ということがどういうことかを、私はこの映画を通して深く考えさせられました。単なる血のつながりだけではない、親子が親子となるためには、そこに愛の関係が成立しなければならないということを、この映画は教えてくれます。神との関係もこれと同じではないでしょうか。神が父であるということは、神と私たちがたとえ肉による親子でなくても、愛情と信頼とによって結ばれているということです。そのような神が、私たちの父であるということです。
イエス・キリストというお方は、私たちの罪を贖うために十字架に架けられ、死んで葬られました。イザヤ書53章に登場するあの「苦難の僕」の歌において、イザヤは「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」と語っています。神の子であるイエスは、苦難のしもベとして、私たちのために、私たちに代わって、苦しんでくださったのです。私たちと共に痛み、苦しみを担ってくださる神の御子、そこに大きな慰めがあります。本日の聖書が記すように、「キリストの苦しみの満ちあふれるところ」、そこが、実は「私たちが受ける慰めが満ちあふれているところ」なのです。私は思うのですが、愛の真価は見映えの良さでは測れないのではないでしょうか。私の母は、香川県東部の山の中の農家に嫁いできました。冬場は寒さで川や池が凍り、水道も凍り、霜柱のたった畑では麦踏みをするのが日課となっていたそんな毎日でした。ふと、母の手を見ると、しもやけとアカギレで赤く大きく腫れていました。けれども、今、その母の手こそ、子どもたちへの愛の証しだと、私は胸を張って誇りたい気持ちです。
本日の説教題である『キリストにある慰め』を、実は、私たちは主の日の礼拝ごとに頂いています。本日の聖書で「慰める」と訳されているギリシャ語の動詞は「パラカレオー」といいます。この言葉はもともと「そばにいて声をかける」という意味を持つ言葉です。神が慰めてくださるとは、神がいつもそばにいて声をかけてくださるということです。19世紀のイギリスのバプテストの牧師で、名説教者として知られるチャールズ・スポルジョンという牧師は、「説教とは何か」という問いに対して「説教とは慰めの対話である」と答えています。その通りだと思います。説教は、高い所から会衆に向かって、牧師が一方的に語りかける講話や訓話ではありません。そうではなく「慰めの対話」です。そばにいて声をかけてくださる神さまの言葉に、耳を傾ける礼拝の行為です。「○○さん、調子はいかがですか。あなたは一人ではないのですよ」そのような神からの語り掛け、声掛けを聞く。それを、説教者の祈りと御言葉との格闘を通して紡ぎ出される「説教の言葉」の中から、説教者と共に聞いてゆく作業、それが神の言葉に与かるということです。それゆえ、説教は牧師個人のものではありません。そうではなく、説教は教会全体で生み出されるもの、教会全体の作品であります。新約聖書に登場する慰めとは、人間的な同情や共感という意味よりも、もっと深く、強い意味を持つ言葉です。それは、人生の危機を乗り越え、さらには、苦難に立ち向かう勇気を与えてくれる慰めです。つまり、神の息吹、神の力としての聖霊が私どもに注がれ、それによって私たちが霊的に生き返る、そのような慰めです。ただの同情ではない。一緒になって苦しんで下さり、助けて下さる。そのような神の慈愛を聖書の御言葉を通して分かち合いましょう。そして、どんな時にも、神が共におられ、あなたを祝福し、あなたを慰めてくだることを「アーメン」と言いたいのであります。
お祈りいたします。