栗ヶ沢バプテスト教会

2023-02-12 主日礼拝説教

 

キリストにある慰め

ルカ 51-11

木村一充牧師

 

 この朝お読み頂いたルカによる福音書51節以下には、主イエスの最初の弟子となったシモン・ペトロの召命(神からの召し)の物語が記されております。ペトロがどのような経緯で主の一番弟子になったのか、そのことが印象的に描かれるこの箇所から、共に御言葉(みことば)に聞いてまいりましょう。1節を読みます。「イエスがゲネサレ湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。」ゲネサレ湖とは、ガリラヤ湖のことです。紀元前6世紀の後半、捕囚の地バビロンからイスラエルの民が返ってきた時代、ガリラヤ湖の北西部の肥沃な低地は「ゲネサレ平原」と呼ばれました。その名残(なごり)で、主イエスの時代においてもガリラヤ湖は「ゲネサレ湖」との呼び名で呼ばれていたのです。ちなみに、ゲネサレの由来となるヘブライ語は「キネレテ」といいます。それは竪琴という意味です。ガリラヤ湖は、「キネレテ湖」とも呼ばれました。それすなわち、竪琴のような形をした湖という意味であります。この箇所でまず注目すべきこと、それは人々が主イエスのお語りになる神の言葉を聞こうとして集まってきたということです。単に奇跡を見るためではない、あるいは病を癒して頂くためでもない、御言葉(みことば)を聞こうとしてやってきた、いや押し寄せてきた。それは、彼らが主イエスの語られる命の言葉によって、生きる喜びや希望を見出し、また神の言葉を通して生ける神と交わろうとしたということです。現代に生きる私たちはどうでしょうか。人生の意味や目的をしっかりと捉えているでしょうか。そうでもなさそうです。私たちもまた、ここに集う群衆のように、イエス・キリストというお方の中に、私たちが今を生きている困難で厳しい現実の世界に語りかけてくださる神の預言者としての姿を見出したいと願うのであります。

 さて、この時、イエスは二そうの舟が岸にあるのをご覧になりました。その舟(小舟)は二そうとも空でした。実は、その舟の上で漁師たちは昨日の夕方から夜通し体を張って真剣に魚を取ろうと奮闘してきたのであります。しかし、徹夜の労働で悪戦苦闘したにもかかわらず、その夜は匹も魚が取れなかったのでした。漁師たちは力を落とし、がっかりする思いで、網を洗っていたのであります。この場面は不思議な光景であります。一方で御言葉(みことば)を求めて押し寄せる群衆が目の前にいます。その一方で、すぐそばに一晩中苦労して何度も海に向かって網を打ちながらも、何の成果もなく心身ともに疲れ果てた漁師たちがいます。彼らにしてみれば、主イエスが語ろうとされる神の言葉への関心などありません。御言葉(みことば)に聞くどころではない、早く家に帰って疲れた体をゆっくりと休めたい。彼らは、そんな気持ちで網を洗っていました。一日の漁の仕事の残務整理をしていたのです。しかし、主イエスがご覧になったのはほかでもない、一晩中何も取れずに失意のどん底にあったこのペトロでした。そればかりか、主イエスは彼の舟を自らの必要のため、つまり神の言葉を語るために使わせてほしいと言われたのです。先ほど「不思議」と申し上げたのはこのことです。神は、この世の中で無きに等しい者、失意の底にあるような人を、御言葉(みことば)の宣教というご自身の働きのために用いられるお方です。使徒パウロは、第一コリントの127節において「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。」と述べています。神は失意の中にある人のそばで語られるだけでなく、失意の中にあるペトロを用いてご自分の言葉を語られるのです。それは、何と幸いなことでありましょうか。

 しかし、この時のペトロが、そのことを果たして幸いだと感じていたかというと、私にはそうは思えないのです。この時、ペトロは疲れ切っていました。本音を言えば、お断りしたい。それが正直な気持ちだったのではないか。「申し訳ないけれど、これから群衆に向かって神の言葉を語り継ごうと思うが、あなたの舟に乗って少し沖の方から話したい。あなたの舟を使わせてもらえないだろうか」と主イエスは、ペトロに頼まれたのでしょう。ガリラヤ湖はすり鉢のような形状の湖であって、ちょうどギリシャの円形劇場のように、低い湖面から群衆を見上げて語る言葉が岸辺からもよく聞こえたというのです。ところで、舟は二そうあったのになぜペトロの持ち舟のほうを、主はお選びになったのでしょうか。これは私の推測ですが、多分ペトロの方が頼みやすかったからだと思います。実は、主イエスがペトロと会ったのは、この時が初めてではありませんでした。すぐ前の438節を見てください。(同じページのすぐ上の段落です)「イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。」とあります。このシモンとは、ペトロのヘブル語名です。つまり、数日前に主イエスはペトロの家を訪ねていて、そこで高熱で苦しむペトロのしゅうとめ(義理の母親)の病を癒されているのです。ペトロは主イエスにしゅうとめを助けて頂きました。要するに、借りがあったのです。そのため、「あなたの舟で湖の上から説教をしたいので、この舟を使わせてくれないか」とイエスから頼まれて、断るわけにいかなかったのではないでしょうか。こうして、舟の上からのイエスの説教が始まりました。向かい合う岸辺では大勢の群衆が、耳を澄ませて御言葉(みことば)に聞き入っています。一方、ペトロは主の説教をどのように聞いたでしょうか。この時、ペトロはイエスの説教を誰よりも近いところで、つまり、いわゆるかぶりつきで聞くことが出来たわけです。しかし、この時のペテロはくたくたです。「早く、説教が終わってほしい」そんな気持ちの方が、強かったのではないかと思うのです。こうして、主イエスの説教が終わりました。さあ、やっとお話が終わった。これからは自分の時間だ、今語られたイエスの話がどんな話だったかも忘れてしまうかのような勢いで、彼が岸辺に引き返そうとした時のことです。思いがけないイエスの言葉がペトロに投げかけられました。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」何と、このまま沖へ出て魚を漁れ、と言われるのです。これは、まったくもって常識外れの話ですね。それは、シモンが「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」と言っていることからも分かります。ベテランの漁師であるシモンたちは、夜通し苦労して漁をしてきたのです。ガリラヤ湖の漁は夜中にするものであって、こんな真っ昼間に網を降ろしたって魚がとれるはずはないというのが、プロの漁師の間の常識でした。主イエスが言われたことは、プロの目から見たら笑止千万、素人の戯言のように思えたのです。

 しかし、イエスはこの時、シモン・ペトロただ一人に向かって語っておられます。イエス・キリストの語りかけは、礼拝の間だけ、説教の間だけ起きている事柄ではありません。そうではなく、むしろ礼拝が終わって、新たな週の歩みへと立ち返るその時から始まっているのです。神は、私たちの日常生活のただ中で語りかけたもうお方です。その日常生活とはどのような生活か、それは失敗やつまずきが多い生活ではないでしょうか。そのような失敗や破れの多い日々の中にあって、どうかすると、自分が信仰者であることさえ忘れてしまいそうになる、それが私たちの現実ではないでしょうか。「いくら神の言葉と言っても、世の中の常識はそんな甘いものではありません、こんな真っ昼間に魚が取れるはずがありません。わたしはプロです。漁についての知識や経験は、主イエスよ。あなたよりずっと深いのです。あなたは素人なのですから、黙っていてください」そんな言葉が、喉元まで出てきそうになる。ペトロは、この時、まさにそんな状況でした。けれども、ペトロが語った次の言葉、それがこの朝私たちが聞くべき言葉です。「しかし、お言葉ですから網を降ろしてみましょう

 ペトロは、イエスという人をすでに知ってはいました。しかし、イエスに従ってはいませんでした。けれども、今度はこれまでとは違います。人間の側からみた知識や経験、この世の常識やその他大勢の人がなびいている行動に、真っ向から対立する神の言葉に賭けたのです。私自身、大学を卒業したら西南学院の神学部に再入学するつもりだということを友人たちに告げた時、みな一様に驚きました。一番の親友からは「少し怖い気がする」とまで言われました。大学院に進学した同じクラスの友人からは「木村君は、将来は聖職者になるのですか」と冷やかし半分で言われたりもしました。しかし、あの時の自分を振り返ると、どれほどの忠告や反対の言葉を耳にしようとも、「沖へ漕ぎ出して、網を打ちなさい」という神の言葉に従おうという決意があったように思うのです。信仰は、網を投じるところから始まります。「しかし」「お言葉ですから」「網を降ろしてみましょう」この3つの言葉は、単に聖書の中に書かれているだけの言葉ではありません。そうではなく、私たちの日常生活のただ中に、私たちの生活の現場において、いつ、どこにでもある言葉であります。

 こうして、ペトロは主イエスのお言葉通り、疲れた体に鞭うって漕ぎ出し、仲間と一緒に網を打ちました。するとどうでしょう。おびただしい魚がかかり、網が破れそうになるほどの大漁になったのというのです。そこでもう一そうの舟にいる仲間に合図して手を貸してくれるように頼みました。彼らが加勢に来てとった魚を分けると、二そうの舟が共に重さで沈みそうになったと聖書は記すのです。神の言葉には、人間の経験や知識、あるいは一般的な常識を打ち破る力があるのです。このような大漁は、ペトロがそれまで経験したことのないほどのものだったかもしれません。しかし、聖書はここで終わりません。8節を見てください。「これを見たシモン・ペトロは、イエスの足元にひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです』と言った。」これが、聖書の信仰です。「主よ、あなたの言葉どおりにしたら儲かりました。得をしました。わたしはあなたを信じて従います」ペトロは、そうは言わなかった。そうではなく、「主よ、わたしから離れてください。私は罪深い者なのです」と告白したのです。

 主イエスが「沖へ漕ぎ出せ」と言われたのは、大漁を経験させることで、ペトロに神の力の大きさ、神による魂の救いの豊かさを知らせるためでした。もっと言えば、自分の力や経験により頼み、神の言葉をないがしろにしようとするペトロ、いや私ども人間の高慢、高ぶりに対する「No」を示そうとされたのです。人間は、神の前に本当に低く空しくされるまで、神の存在を観念的にしか理解しません。しかし、神の前に自分を低くするとき、いわば人間が神に完全降伏するその時にこそ、神は100%ご自身の力を発揮されるのです。ただ、御言葉(みことば)を聞くだけで沖に出て網を降ろそうとしない。そのような不信仰が私たちの中にもあるのではないでしょうか。私たち自身の網も、破れがあり、泥まみれなのかもしれません。しかし、神の言葉に賭けて、沖に出て網を打つこと、本日のペトロの召命が、そこから始まったことを心に刻みたいのであります。

 

お祈りいたします。