栗ヶ沢バプテスト教会

2023-02-19 主日礼拝説教

 

神は愛である

ヨハネ第一 47-11

木村一充牧師

 

 私たちが手にしている聖書の中で語られている「神」とはどのようなお方であるのか、言い換えると「聖書が語る神とは一体何者か」という問いに対して、それに答えてくれている文章が、聖書の中にあります。「神とは、これこれ、このようなお方です」ということを説明する文章、つまり神の本質を言い表す文章、いわば神を定義する言葉が、実は旧約聖書と新約聖書の中にそれぞれ一つずつあるのです。皆さんは、何とお答えになりますか。神とはどのようなお方であるか?皆さんなら、それにどう答えるでしょうか?

 一つ目は、旧訳聖書の中に登場する言葉です。それは、「神は主である」という言葉、命題です。たとえば、旧約聖書の詩編18編には次のような言い方が、繰り返し登場します。「主はわたしの神、大岩、避けどころ」「主のほかに神はない。/神のほかに我らの岩はない。」「主は命の神」つまり、神は私たちの主である。逆に言えば、私たちは(しもべ)であると詩人は言うのです。それをこの詩人は繰り返し語っています。神が私たちの主であるとはどういうことでしょうか。それは何よりも、神が尊厳に満ち、恐れ多いお方であるがゆえに私たちにとって近づきがたい距離を持ち、さらには無限の栄光に満ちているお方であるということです。神が私たちの主であるとは、被造物の中でいかに光り輝くものがあろうとも、神の前ではそれは色あせてしまう存在にしか過ぎない。言い換えれば、神以外のいかなるものも絶対化されることは許されないということです。さらに言うと、神が主であるということは神の前にはすべての被造物がこれに服従し、信頼すべきであるということを意味します。神は万物に君臨し、万物をご自身に従わせ、これに背く者に対しては断固としてご自身の主権を貫徹されるお方であるということです。私は、当教会で旧約聖書からの説教を月に一度は必ず行うことにしていますが、それは旧約聖書では、私たちよりもずっと厳しい状況の中で生きていた信仰の先達(せんだつ)たちが、その困難な状況のただ中にありながら、著者の個人的な感情や置かれた境遇などを乗り越える形で「主こそが私たちの神である」ということを力強く語っているからです。新約聖書の諸文書は、花でたとえると、地上に咲く美しいチューリップの花であります。ただ、そのチューリップにはお世辞にも見栄えがよいとは言えないあの球根があります。しかも、その球根を無視してまたはないがしろにして花を語ることはできません。旧約聖書の真骨頂ともいうべき、主権者としての神の描きかた、神がその強い力をもってイスラエルを支配、統御し続けられた事実を語り継ぐ言葉を、神の言葉として大事に聞いてゆきたいという思いが私の中にはあるのです。

 もう一つの神の本質を言い表す聖書の言葉、それが本日お読み頂いたヨハネの手紙一4章の8節に出てきます。それが「神は愛である」という言葉です(「神は愛だからです。」、と新共同訳聖書は訳しますが…)。ある神学者の指摘によると、キリスト教以前の哲学(おもにギリシャ哲学)では、神が愛であるということが言われたケースは一つもなかったといいます。それは、ギリシャの神が人間の造った神だったからです。ギリシャ哲学において、愛とは自分にとって価値のあるもの、自分に欠けているものを満たしてくれる存在に対する尊敬にも等しい感情のことだと考えられていました。わが国でも、ひと昔前には「結婚相手は、3K(高学歴、高収入、高身長)であることが条件」というようなことが言われていましたね。それは、愛の対象が「自分にとって価値のある人」に限定され、選りすぐられていたということです。しかし、本日の聖書がいう「愛」はそうではありません。ここには「アガぺー」というギリシャ語が使われています。神は自己自身においてすでに満ち足りているお方です(エフェソ413)。その神が、ご自身は満ち足りているにもかかわらず、人間のために人間の世界に出て行かれるというのです。それが、クリスマスの出来事です。これは、二つのことを意味します。一つ目は、神が自らを低くして人となられたということです。二つ目は、その人となられた神が人間の罪のために、十字架上で死なれたということです。それが、神が人を愛されるということだとヨハネは言うのです。神さまは私たちを愛するために、天上の神であり続けることを止めて人間の姿をとられた。しかも、ご自身の大切な独り子を死なせた。そこには、大きな痛みがあります。しかし、そのように、本当の愛には、痛みが伴うのではないでしょうか。

 ノーベル賞作家として知られる米国の女性作家、パール・バックには障害を持つお嬢さんがいました。キャロライン(愛称:キャロル)と名付けられたその子は、パールが28歳の年、彼女の人生がもっとも輝いていた時に生まれた女の子でした。美しい李(すもも)のようなその女の子を出産したパールでしたが、彼女には、それ以来一つの心配事が生じます。それは、このキャロルが2歳になっても3歳になっても言葉を話さないということでした。実は、この子はフェニルケトン尿症という病気の後遺症で、重い知的障害をもって生まれたのでした。ノーベル賞受賞作となった「大地」(The Good Earth)という作品の中でも、主人公の中国人の「(わん)(りゅう)」に、障害のある娘がいて、その子が物語の中で特別な存在感を放っています。作品の中でその子は「いつまでたっても大人にならない子供」と呼ばれ、名前さえも与えられていませんが、この子は心優しい奴隷娘や血縁者の庇護の下で52歳まで生きたことになっています。この王龍の娘のモデルになったのがキャロラインでした。パールは、娘の障害の治療のために名医を求めてアメリカ中を飛び回ります。しかし、あるドイツ人医師から「残念ですが、お嬢さんは治りません」と言われ、やむを得ず娘キャロルを施設にあずけることを決断するのです。後に、パールは障害者のための施設を建て、ノーベル賞などで得た賞金のほぼすべてをこの施設にささげました。さらに、孤児たちを養子として引き受けています。ちなみに、キャロルは、預けられた施設で73歳まで生かされました。パールにとって、一番大事なことは娘の人生でした。娘キャロラインが幸せになるなら、自分の名誉やお金はどうでもよかった。パールの両親は宣教師であり、パールも宣教師になっています。キリストの犠牲愛を知る者として、パールもまたその愛に生きたのだと私は思います。キリスト者とは、このキリストの犠牲愛を知っている者のことであります。「自分さえ良ければ、他の人の事など知ったことではない」というのではない。「いかにして、自分に与えられた賜物を、他の人が喜ぶことのために用いるか」信仰に生きる者は、その視点を失ってはならないと思うのであります。

 本日の10節では、次のよく知られた御言葉(みことば)が記されています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ここに愛がある、という有名な言葉が登場します。前任教会で牧師として働いていた頃、土曜日の早天祈祷会のメンバーで山梨県の韮崎にある大村美術館を見に行こうということになり、新宿からバスに乗って男3人で山梨まで出かけたことがありました。ちょうど、大村智先生がノーベル賞を受賞した頃で、韮崎駅に着くと、大村先生の名前が、横断幕に掲げられていました。この大村先生は北里大学の薬学部の教授となり、後には北里研究所の経営の責任者になった方です。先生が開発した薬「イベルメクチン」によって、アフリカの原住民の多くの人が失明のリスクから免れることができたといいます。この美術館も、大村先生の出資によって建設された建物でした。この大村教授ですが、しばしば土の中にいる微生物が作り出す化学物質をもとにして、新薬の開発を行ったことを知りました。静岡などのゴルフに出かける時にも、ハンディスコップを持ってゴルフ場近くの土を持ち帰っては、新薬の開発に有益な微生物を探し回ったといいます。しかし、皆さん。本物の愛がどこにあるかを探そうと思ったら、苦労する必要はありません。教会に来ればいい。なぜなら、「ここに愛がある」と聖書が言っているではありませんか。「愛は神から来る」と書いているではありませんか。私たちの教会が、この神の愛に生き、この神の愛を喜び、教会全体でその愛を醸し出すような教会になりたいのです。続く11節でヨハネは言います。「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」私は、基本的にいえば、愛は自発的な心の動きであって、強制されて、強いられて愛するようなものではないと考えています。しかし、ヨハネは「わたしたちも互いに愛し合うべきです」とここで言い切ります。それは、神の愛が、私たちの愛の乏しさ、貧しさにも関わらず、神が先手を打って私たちに注がれているからだというのです。あなたがたは、神に愛されているのだから、人に対しても優しくなれるはずだ。神の愛を知っているのだから、互いに愛し合うことが出来るはずだ、そうでなければならない、とヨハネは言うのです。この言葉を、真剣に聞きたいと思います。

 本日の箇所から御言葉(みことば)を説き明かしている、ある牧師の説教を読んでいると、思わずにっこりと微笑みたくなるような、次の話が紹介されていました。この先生が、以前、福島県のある町の教会で牧師をされていた時のことです。ある日のこと、その先生が一度もお会いしたことがないおばあさんが、思いがけず教会を訪ねて来た。しかも菓子折りを手にして、です。「何ですか。これは?」と先生が尋ねると、「これ、キリストの神さまに供えてくれ」と言われる。くわしく事情を聞くと、さらに次のようにおばあさんは言われました。「いやなあ。ここに来ている○○さんと言っぺした。あの人ない、ここに来るようになってから、うちに愚痴ひとつ言わなくなったぞい。キリストの神さまは、大したもんだ」こう言って、神さまにお菓子を供えてほしいと、持ってこられたというのです。

 愛というものは、観念ではありません。聖書が言う隣人とは、私たちが探して見つけ出すようなものではありません。自分が毎日顔を合わせ、自分のもっとも近くにいるその人こそ、神さまが「互いに愛し合いなさい」と言われている人、愛の対象者なのです。私たちは、日常生活のただ中で、自分のもっとも近い人に対して、神の愛を指し示す者となるように促されています。日々の生活が、愛の実践の場であることを悟りましょう。ヨハネは、このあとの20節で言います。「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。」と。「目に見える兄弟を愛さずして、どうやって目に見えない神を愛することができようか」と。神は、ご自分の形に似せて私たち人間を創造されました。そのように造られた被造物は人間だけです。人間だけが神の愛をこの世界のなかで実現する力と可能性を与えられています。その神の期待を裏切らないよう、私たちは人を愛することにも熱心でありたいと願うのであります。

 

お祈りいたします。