2023-02-26 主日礼拝説教
「味わい見よ、主の恵み」
詩編 34:2-11
木村一充牧師
この朝は旧約聖書の詩篇34編1節以下を聖書テキストとして、神の御言葉に耳を傾けたいと思います。まず本日の聖書に目を通して頂くと、番号である34という数字のすぐ下に、括弧で注意書きがあって、「アルファベットによる詩」というコメントがあります。ヘブライ語の原点聖書を見れば分かるのですが、この詩編は、各行の冒頭の文字がヘブライ語のアルファベット順に配列されています。つまり、それぞれの文章の先頭文字がわが国の「いろは歌」のように、ヘブライ語のアルファベット順となるように作られているわけです。い→「犬も歩けば棒に当たる」、ろ→「論より証拠」は→「花より団子」といった具合ですね。この点から見ても、この詩編はかなり考え抜いて書かれた、たいへん技巧的な詩であると言えるでしょう。
1節を読むと、ダビデの詩という言葉に続いて「ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに。」という説明の言葉があります。これは、サムエル記上21章に記されているエピソードを指しています。ダビデは預言者サムエルによって見出され、油注がれたのちにサウル王に仕えました。当初は、悪霊にとりつかれて苦しむサムエルの傍で竪琴を引く者として仕えたのです。現代で言う音楽療法士として働いたわけですね。しかし、やがて、ペリシテとの戦いが激しくなり、ダビデが将軍として出陣するようになると、出陣の度にダビデは勝利をあげて帰ってきた。いつしか、その名声は主君であるサウル王を超えるようになります。そのため、サウルはダビデを恐れ、ついにはダビデの命を奪おうとするのです。そのサウル王の殺意から逃れるために、ダビデはガトという敵国の町、ペリシテ人の町に逃れました。この町で、挙動を変え、ひげによだれを垂らしたりして狂気を装い、辛うじて難を逃れたという出来事がサムエル記上21章に書かれています。イスラエルの勇士として知られていたダビデは、この時、なりふり構わず、狂人の姿を演じて敵から撃たれることを避けたというのです。このエピソードを詩人は、この詩の冒頭で引用します。ダビデのような英雄でも、すべてが順風満帆だったわけではないと詩人はいうのです(20節参照)。
しかし、続く2節で詩人は宣言します。「どのようなときも、わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。」本日の聖書から聞くべきメッセージ、神に従う私たちが忘れてはならない姿勢の第一は「どのような時にも、主を賛美すること」です。私たちが神を信じているとは、私たちが苦しい時、悲しい時、進退きわまるまさにピンチのその時にも、私たちが神を賛美することができる、その賛美の歌を口ずさむことができるということです。新約聖書の使徒言行録16章でも、この賛美が大切な役割を果たす場面が描かれています。それはすなわち、第2回伝道旅行においてパウロの一行がフィリピの町を訪れたとき、占いの霊に憑かれた女奴隷を救うという癒しの業をパウロが行ったところ、逆にそのことが彼女の主人たちを怒らせ、パウロとシラスの二人が訴えられて獄に入れられた、という場面です。この牢の一番奥の部屋で、足に足かせをはめられながら、真夜中ごろ二人は賛美の歌を歌いました。ほかの囚人たちはこれに聞き入っていたと書かれています。この時、二人はどんな賛美を歌ったのでしょうか。パウロが、歌が上手だったという記述は新約聖書のどこにもありません。しかし、この時の賛美を、ほかの囚人たちは耳を澄ませて聞き入っていたというのです。静かで力強い賛美の声、神の支配の様子がここに描かれています。すると、突然大地震が起こり、建物が土台から傾いて、牢の戸がみな開きました。囚人たちの鎖もみな外れてしまったと書かれています。しかし、囚人たちの誰一人としてそこから逃げる者はいませんでした。賛美は、罪人たちの心を清らかに、かつ従順にしたということです。
4月から始まる来年度において、私は月に一度『賛美歌を歌う会』を、この会堂を会場にして開催したいと考え、それを総会資料の活動計画の冒頭に掲げました。どのような集会になるか、はっきり見通しているわけではありません。しかし、困難なことが多い今の社会情勢のなかにあって、賛美を通して私たちが神の前に心を開き、神と豊かに交わることが出来ることは喜びであり、幸いなことであります。祈りつつ準備したいと思います。その『賛美歌を歌う会』で、ぜひ歌いたい賛美の一つに賛美歌431番『いつくしみ深き』があります(お手元の賛美歌をお開き頂くと幸いです)。英語で“What a friend we have in Jesus”という題名が書かれ、その下に、ジョセフ・スクライブン;1855とあります。作詞者とその年代ですね。この賛美歌の作詞者であるジョセフ・スクライブン(1819〜86年)は、アイルランド出身の人物です。二度も婚約者に先立たれました。最初は25歳の時で、結婚式の前夜に婚約者が溺死しました。二度目は、彼がカナダに移住した後のことで、婚約者は肺炎で亡くなりました。その苦悩は計り知れません。その後、ジョセフは、貧しい人や病人を助ける働きを続け、その生涯を終えました。ジョセフは、自らの思いを一つの詩に書き下しました。自分で悩みを抱え込まないで、主イエスに何でもゆだねればいい、祈って任せたらいい、なぜなら、主イエスは素晴らしい友なのだからと。あたかも自分自身に言い聞かせるように、信仰告白の言葉として書き綴りました。それが後に、『いつくしみ深き』という賛美歌になったのです。
参考までに、この詩の1節を元の詩に基づいて訳すると次のようになります。「私たちは、イエスというお方の中になんという素晴らしい友を持っていることだろう。この方は、私たちのすべての罪や悲しみを耐えて下さるお方である。私たちが経験する全ての事を、祈りのうちに神に委ねるということは何という特権であろうか。ああ、どれほどの平安を私たちは失い、どれほどの不必要な苦しみを私たちは耐え忍んでいる事か。それらは全て、私たちが全てを祈りのうちに神のもとへ運ぶことをしていないためなのだ」
このように訳してみると、この賛美歌『いつくしみ深き』の主題が祈りであることが分かります。本日の詩編で、二番目に忘れてはならない神への態度、それは祈ることです。5節と7節をお読みください。「わたしは主に求め/主は答えてくださった。」「この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった。」神さまに助けて下さいと叫んだ時、神さまはそれに答え、救い出してくださったと詩人は言います。皆さんはいかがでしょうか。主に助けを求めたところ、それに対して主が答え、救って下さった、そんな経験を確かにされたことがあるでしょうか。京セラという会社の創業者であり、後にJAL(日本航空)の再建のために社長としても腕を振るった稲盛和夫という人がいます。去年お亡くなりになったことが報道されましたが、この稲盛和夫という人が書いた『生き方 人間として一番大切なこと』という本の中で、稲盛さんは面白いことを言っています。「われわれの心の内には災難を引き寄せる磁石がある。病気もその例外ではない。すべては、心の様相が現実にそのまま反映されるのだ」という一冊の本の中の言葉に釘付けになったというのです。それは、稲盛さんにも心当たりのあることでした。というのは、少年時代に叔父が結核にかかり、自宅の離れで静養していたときに、稲盛さんは感染を恐れるあまり、いつも鼻をつまんで叔父の部屋の前を走り抜けていたというのです。一方、父親はいつも叔父に付き添って看病し、兄もそんなに簡単にうつるものかと平然としていました。その結果、何と父も兄も大丈夫なのに、自分だけ結核がうつってしまったのです。その時、否定的なことを考える心が否定的な現実を引き寄せてしまったのだと稲盛さんは思い知らされたのでした。それからは、良いことを思おうと誓ったものの、なかなかその習慣は直らなかったといいます。それを変えてくれたのは、就職して自分で新しい会社を起こし、京セラの事業のもとになったファインセラミックの開発の成功だったといいます。祈りとは何か。それは、すべてのことを神さまがよき方向に導いてくださるはずだという絶対的な信頼のもとで、神に願い求めることです。まず信頼がありますから、多少思い通りにならなくてもへこたれずに祈ることが出来ます。神さまがされることだから、悪いようにはなさらないはずだという確信が先ずあるのです。実は、信仰を持ってからの私もそのような思いの中で人生の選択をしてまいりました。すると、不思議ですが、結果的に良いようになるのです。神を信じるとは、肯定的に生きることです。聖書の言葉をアーメン、つまりその通りだとポジティブに(英語を用いて申し訳ありませんが)肯定的に受け入れることです。10節をお読みください。「主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。/主を畏れる人には何も欠けることがない。」旧約聖書で「主を畏れる人」とは「信仰を持つ人」を言い換えた言葉だといいます。つまり、神を恐れると同時に神の手にすべてを委ねる人のことを「主を畏れる人」と呼んだのです。そのような人は、8節によれば、主の使いはその周りに陣を敷き守り助けてくださる、と詩人は言います。私たちも、この御言葉を信頼して肯定的に歩むことをしましょう。
そして、本日の説教題の言葉が9節に書かれます。「味わい、見よ。主の恵み深さを。」神さまはご自分のことを畏れ敬い、服従をもって自らに信頼する者には全責任を負って、これを持ち運んでくださいます。主を求める者には、神の護りと配慮のゆえに必要なすべての良きものが与えられる。詩人はそのことを11節で「若獅子は獲物がなくて飢えても/主に求める人には良いものの欠けることがない。」という言い方で表現するのです。31歳の時に、初めての海外旅行でフランスのパリを訪問し、1週間ほど滞在したことがありました。ルーブル美術館を訪ねて、モナ・リザの絵を見たのもこの時でした。しかし、一番の思い出は、ある日レストランで夕食をとったときに、フォアグラが出てきてそれを食べたことです。びっくりするほどのおいしさでした。日本で食べる味とは全然違うのです。なるほど、世界三大珍味と言われるだけのことはあるなと感心しました。神さまの恵みもそうです。ぜひ味わって、みなさんの目で、恵みを見てください。
本日はお読み頂きませんでしたが、20節から詩人は次のように書き記しています。「主に従う人には災いが重なるが/主はそのすべてから救い出し/骨の一本も損なわれることのないように/彼を守ってくださる。」主に従う人は、災いが減るとは言っていません。いや、災いが重なると詩人は言っているのです。信仰には戦いという面があるからです。しかし、主はそのすべてから救い出すと詩人は言うのです。このことを信じて、賛美と祈りを持って、主の恵み深さを味わい見る者になりたいと思うのであります。
お祈りいたします。