栗ヶ沢バプテスト教会

2023-03-05 主日礼拝説教

 

恐れるな、語り続けよ

使徒 181-11

木村一充牧師

 

 この朝お読みいただいた使徒言行録18章は、いわゆる第2回伝道旅行で使徒パウロのがコリントの町を訪問し、ここで開拓伝道を行ったときのことが書かれています。コリントはアテネから西に約60キロメートル行った先にあるペロポネソス半島とバルカン半島をつなぐ「首」の部分に位置する港町、交通の要衝でありました。当時の地中海都市の中では、ローマに次ぐ二番目に大きい人口を擁する都市でした。ただ、港町として栄えたこの町は、同時に享楽と頽廃の町としても知られていました。「コリント人のように暮らす」とは「みだらな生活にふける」ことを意味したといいます。また、「コリント娘」とは隠語で「娼婦」を意味する言葉だったと言われます。このような町に立てられた教会としてのコリント教会は、その設立の当初からさまざまな問題を抱えることになります。詳細は、コリントの信徒への第一の手紙からも知ることができるのですが、このコリントに、パウロは16ヵ月という彼にしては相当に長い期間滞在して、福音宣教の働きをしたのでありました。実は、このコリントを訪問する前にパウロはアテネで福音宣教の働きをしていました。かつて、ソクラテスやプラトン、アリストテレスといった有名な哲学者が生まれた町、世界史上、初めて民主主義による政治運営が行われた町、そしてオリンピックというスポーツの祭典を4年ごとに行った都市、それがアテネであります。パルテノン神殿などの有名な建造物でも知られる、ギリシャ最大の文明都市であるこのアテネで、伝道したわけですが、残念ながらこのアテネ伝道は大失敗に終わりました。前の17章で、アテネの広場でパウロはエピクロス派やストア派に属する哲学者たちとも議論をしたとありますが、彼らは新しい教えに興味は示したものの、信仰を持つまでには至りませんでした。パウロが訪ねた町で唯一教会が成立しなかった町、それがアテネでした。彼らは広場でおしゃべりをすることは好きでしたが、思想が行動につながることはありませんでした。ギリシャ思想では、イデアと呼ばれる観念が大きな役割を果たします。実際、ギリシャ神話に出て来る神々はおよそ観念的です。人間が作った神です。しかし、へブルの神はそうではありません。神が人間を創造したと説くのです。アテネの人には、パウロの説教が理解できませんでした。聖書の信仰は「いい教えだな」と思うだけではだめです。力にならないのです。信じるとは従うことです。アブラハムは、主なる神から「あなたは生まれ故郷/ 父の家を離れて/ わたしが示す地に行きなさい」という言葉を聞いた時、神さまと一切の議論をしませんでした。しかし、ただ一つの行動をとりました。それは「主の言葉に従って旅立つ」という行動でした。そのアブラハムのように、パウロは「おしゃべりや議論ではない。ただ十字架のイエス・キリストのみを語ろう」と決意してコリントの町に入ったのであります。この決意のもとで行ったコリントの町で、パウロは1年半という長い期間、伝道の働きをすることになります。それはどういう理由によるのでしょうか。本日お読み頂いた箇所から、考えられる3つの要因を挙げたいと思います。

 その第一は、この町にパウロの福音宣教の働きを支えた一組の信徒の夫婦がいたということです。アキラとプリスキラという夫婦です。この二人は、それまでイタリヤにおりましたが、クラウディオス帝による退去命令でイタリヤからコリントに転居してきたのでした。当時、ローマにはかなりの数のユダヤ人がおりましたが、生活様式の違いがあり、何よりも律法を守る民としての特殊性により、ローマ社会から「浮いている」存在として市民たちから嫌がられていたようです。その結果、時の皇帝による退去命令が下されたわけですが、そのことがパウロにとっては幸いでした。なぜなら、彼らはパウロと同じテントづくりの職人であって、同じ職業だったためにパウロが二人を訪ねたところ、この夫妻の家に住み込んで働くことを認めてくれたというのです。このような信徒が与えられたことはパウロにとって大きな喜びでした。この二人はこのあとの言行録18節によると、パウロがコリントを去って次の開拓先に向かおうとしたとき、パウロと同行して一緒に開拓伝道の旅に随行したと記されています。パウロの伝道を背後から支えた強力な信徒伝道者であったことが分かります。しかも、27節を読むとエフェソの教会にアポロという雄弁家がやってきてみ言葉を教え始めた時に、この夫妻はアポロを自宅に招いて「もっと正確に神の道を神の道を説明した。」とあります。アポロの語る説教を聞いて、「あの部分についてはこのように説明した方が正確でわかりやすい」とアドバイスをしたというのです。言わば、牧師を指導することができるほどの深い福音理解をしていたこの夫妻がいたことが、困難なコリントでの伝道を担うパウロにとって大きな力になったことは間違いありません。西南学院神学部に入学した3年目に、筑豊の直方教会で神学生として1年間奉仕しました。その時の直方教会は無牧で、礼拝人数も20人前後という小さな群れでしたが、この教会にも教会を支えている献身的な夫婦がおられました。秋になって、特別伝道集会を開催する季節になると、1週前の日曜日にご主人の車に乗って、一緒に電柱にポスターを張りに行ったことを思い出します。ベニヤ板にポスターを張り、4隅に穴をあけて針金を通し、それを電柱にくくりつけて回るという作業でしたが、懐かしい思い出です。(今は、そんなことをしたら処罰されるかもしれませんね)プリスキラとアキラという、言わば「献身者である信徒の夫婦」の存在がパウロの働きを背後から支えたのです。

 二番目に、パウロがコリントで伝道が長く行った理由にマケドニアの諸教会からの献金があったことがあります。それが5節に書かれています。「シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした」とあります。これは、どういう意味なのか。シラスとテモテがマケドニアからやって来た結果、パウロがみ言葉に専念できたとはどういうことか。実は、シラスとテモテが持ってきたものはマケドニアの諸教会からの献金でした。その援助のお蔭で、パウロはフルタイムで御言葉(みことば)の働きに従事したということです。それまでは、自給伝道者だった。天幕作りという仕事をしながら、安息日ごとに御言葉(みことば)を語っていた。しかし、シラスとテモテがフィリピやペレアやテサロニケの教会からの献金を持ってきたことで、パウロは福音宣教一本、仕事に打ち込むことができたということです。私も、前の教会では協力牧師として平日に仕事をしながら、月に一度日曜礼拝で説教奉仕をしていました。ところが、主任牧師が他の教会に招かれ、辞任してからの1年あまりは、協力牧師一人で教会を切り盛りしていました。一番大変だったのは、葬儀の時です。ご家族との話し合い、お見舞いや葬儀社との打ち合わせ、更に葬儀式や火葬式など、とてもほかの仕事をやりながらできるものではありません。教会が協力牧師一人の時代、すなわち私が主任牧師になるまでの1年余りの期間、私は、どうか教会で葬儀がありませんようにと祈っていました。その祈りのおかげで、教会で葬儀を行った例は1件で済みました。それは、神の憐みだったと思います。パウロは、かつて自分がマケドニアで立ち上げた前任教会からの支援で、伝道が困難なコリントで経済面の心配なく、後顧の憂いなく福音を語ることができたのです。

 そして、三番目です。パウロがコリント教会でそれまでのどの教会よりも長く福音宣教の働きをしたのは、パウロが神の言葉に聞き従ったからです。それは、使徒言行録の中で二度しか出て来ない、幻の中での神の言葉です(一度目は、「マケドニアの叫び」と呼ばれるマケドニア人の言葉です)。それは次の言葉でした。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」この町には、わたしの民が大勢いる。彼らは恐れや不安の中で救いを求め、まことの神を知ることを待っている。どれほど困難なことがあろうとも、恐れるな。黙っているな。わたしがあなたと共にいる!主なる神は、そう夢の中でパウロに語りかけたのです。コリントは人口60万という大きな町でした。神の言葉を知らない人、御言葉(みことば)を聞かねばならない人が沢山いたのです。だから、パウロは短期間でこの町を後にすることは出来なかったのです。

 新しい年度を前にして、本日の使徒言行録の189節以下の御言葉(みことば)を、当教会の年間聖句として掲げたいと思います。今日のわが国における伝道は、ある意味で、コリントの町以上に難しいのかもしれません。特に宗教活動に対する人々の見方は、昨今のさまざまなニュース報道などによって厳しくなっているようにも思われます。しかし、私たちは黙っているわけにはいきません。本日の聖書にあるとおり、この町には私の民が大勢いると神さまが言われるのです。この言葉に従い、恐れずに神の言葉を語り続ける者でありたいと思わされるのです。

 

お祈りいたします。