栗ヶ沢バプテスト教会

2023-03-12 主日礼拝説教

 

罪に立ち向かう預言者、ホセア

ホセア書12-8

木村一充牧師

 

 この朝は、旧約聖書の預言書であるホセア書から神の言葉に耳を傾けます。ホセアという預言者について本日の聖書はさほど多くの情報を提供してくれていません。ホセアについて記されていることは、わずかに彼の家族にベエリという名の父親がいたこと、ゴメルという名の妻がいて三人の子どもが与えられたこと、もう一つは彼が活動した時代くらいであります。このホセアが活動した時代ですが、11節に、ユダの王がウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキアの時代であったと書かれています。ここを読んで皆さんは思い起こされるでしょうか。ちょうどイザヤが預言した時代と重なりますね。しかし、イザヤとは異なる点があります。それは、イザヤの活動拠点が南王国ユダの都エルサレムだったのに対し、ホセアは北王国イスラエルを拠点にして、北王国の民に向かって預言の言葉を語ったということです。この時の北王国イスラエルの王はヤロブアムといいました。このヤロブアムという名の王は以前も存在しました。ソロモンの治世の後、ダビデ王国が北と南の二つに分裂したとき、北王国の初代王としてこのヤロブアムが即位したのです(列王記上11章)。しかし、本日の箇所に記されるのは、そのヤロブアムではありません。ここに紹介される王はヤロブアム2世のことです。実は、このヤロブアム2世の時代に北王国はその領土を最大に広げ経済的にも繫栄し、いわゆる北王国の最盛期を迎えました。参考までに、列王記下14章をお開きください(旧約聖書602ページです)1425節を読みます。(この王の名が小見出しで紹介されています)「しかし、イスラエルの神、主が、ガト・ヘフェル出身のその僕、預言者アミタイの子ヨナを通して告げられた言葉のとおり、彼はレボ・ハマトからアラバの海までイスラエルの領域を回復した。」アラバの海とは死海のことです。最南端の境界はそこまでだったというのです。一方のレボ・ハマトとは北側の境界となる地名です。後ろの地図を見て頂くと分かりますが、何とシリアの北側、限りなくユーフラテス川の上流にある地域で、先日の大地震のあった地方のすぐ近くにまで達しています。ここは、あのソロモン王さえ支配下に置くことが出来なかった地域でした。当然ながら、その南にあるダマスコ(シリアの首都)も支配下に置いていました。ヤロブアム2世はたいへんな「やり手」だったわけです。ちなみに、週報の巻頭言にもあるように、この王の治世はBC786746年で、41年もの長い期間に及んでいます。王としても力があったわけですね。

 ところが、ここまで拡大した北王国の版図でしたが、このヤロブアム王の死後、20年あまりで北王国はアッシリアによって滅ぼされることになります。これはまったく余談ですが、太陽のように自分で光を放つことが出来る星のことを恒星と呼びますが、その恒星は寿命を迎えると非常に巨大化して、何百倍、何千倍もの大きさになるといいます。最後にぱっと輝いて寿命を迎える。それと同じように、北王国イスラエルもアッシリアによって滅ばされる前に非常に巨大化したわけです。ホセアの預言活動の時期は、ヤロブアム2世の王の末期から北王国が滅亡するまでの四半世紀余り、およそ30年間でした。そうして、ホセアは自身の預言活動の最後に、北王国イスラエルの滅亡をその目で見ることになります。それゆえ、ホセアは「北イスラエルのエレミヤ」とも呼ばれます。エレミヤが南王国ユダの滅亡を預言したように、ホセアは北王国がアッシリアによって滅ぼされることを預言したのです。

 本日のホセア書1章の時代説明を読むとき、一つに疑問が生まれてきます。ホセアは北王国で生きて、北王国イスラエルを対象として預言活動をしたのに、北王国イスラエルの王の名前はわずかにヤロブアム2世一人の名前しか挙げていない、という疑問です。南王国の王の名前を4人も挙げて自らの時代を紹介しています。(北王国では、ホセアの活動中にヤロブアムのほか5人の王が即位しています。)なぜでしょうか。それは、ホセアが南王国ユダにこそ王位の正統性があると見ていたからです。ホセア書84節には次のような言葉があります。「彼らは王を立てた。しかし、それはわたしから出たことではない。」北王国の歴代の王たちは、バアルの神を祀る祭壇を築くことに熱心でありました。しかし、そのような者はまことの神殿をもつユダの王に比肩しうるような王ではないとホセアは考えていました。もっと言えば、分裂していた北と南が再び再統合することが、ホセアの心からの願いだったのです。ホセアはイスラエル王国全体の未来を見つめていたのです。

 そこで、いよいよ本日お読み頂いた本文に入ってゆきます。2節を読みます。「主がホセアに語られたことの初め。/主はホセアに言われた。/『行け、淫行の女をめとり/淫行による子らを受け入れよ。/この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。』」預言者が聞いた神の言葉は、驚くべき内容をもつ言葉でした。「姦淫の女をめとれ」というのです。第二コリント書71節で使徒パウロは次のように述べています。「愛する人たち、わたしたちはこのような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」すなわち、神を信じる者は神の前に自らを清く保つことに努めなさい、というのです。神は聖なる者であるから、礼拝する私たちも神のみ前に聖なる者となるように心掛けよというのが聖書の教えです。ところが、本日の箇所では、神が預言者ホセアに姦淫の女をめとり、与えられた子どもも受け入れよとお命じになるのです。とても神さまの言葉とは思えない物凄いご命令ですね。宗教改革者のカルヴァンは、これは作り話であり実際には起こらなかった、と解釈しました。しかし、カルヴァンのような理解をする人は今日ではそれほどいません。なぜなら、ゴメルにはディブライムという名の父親がいたことが記されています。このことは、ホセアの結婚が現実の話であったことを裏付けています。このゴメルという女性の姿は、実はそのまま主に背き、カナンの農業神である偶像の神バアルの信仰へと走ったイスラエルの民の姿を指し示しています。ホセアが結婚するように命じられた女性は、このようなバアルの神に身を捧げた女性でした。バアルの祭儀がイスラエル内で広く行われるにつれて、このような若い女性が多く登場したと考えられています。ゴメルは、そのような神殿祭儀のなかで性的に汚れた女性の一人でありました。ホセアは、この神のご命令に従いゴメルを妻として迎え、夫婦となります。ホセアの信仰は見上げたものだと思います。姦淫の女という言い方で表わされる事態、それは彼女の心が自分から離れてしまっているということです。そのような彼女を自分の妻として愛そうとした。そこにはホセアの大きな決断がありました。ホセアはこの主のご命令を喜んで引き受けた、つまり快諾したのではありません。そこには、とてつもない苦しみ、痛み、さらには悲しみや嫉妬心があったことでしょう。けれども、ホセアは神の言葉に従ったのです。なぜなら、このホセアの苦しみ、痛み、悲しみは、他ならぬ神が北イスラエルに対して抱いている思いだからです。神の言葉を語るという使命を果たすために、ホセアは自身の個人的な感情を飛び越えて主のご命令に従ったのです。イスラエルの預言者の中で、ここまでの行動をとった預言者は他にはおりません。

 愛という言葉はとても美しく聞こえのよい言葉です。しかし、私たちの実際の生活の中で、この愛の真価が問われるのは、私たちが苦難の中にある時、試練の時、泥沼に落ち込んで苦しみあえぐその時ではないでしょうか。人間同士の付き合いでも、一緒にいる時間が長くなればなるほど、相手の欠点や嫌な部分も見えてくるものです。しかし、愛はそこから始まるのです。

 さて、このゴメルとの結婚を通して、ホセアには3人の子どもたちが与えられます。3人の子どもたちに対して、神から名前が与えられました。それは北王国イスラエルの将来を暗示するような名前でした。最初の子は男の子でしたが、この子にはイズレエルという名前が付けられました。このイズレエルはサマリヤとガリラヤのちょうど中間地帯にある肥沃な平原であり、イスラエルの穀倉地帯とも呼べる平地の名でした。ただ、この平地を舞台として、北イスラエルの王たちは、繰り返し悲惨な流血をともなう事件を起こしました。しかし、今度はアッシリアが神の裁きとしてこの地を征服し、多くのイスラエル人の地を流すことになるだろうと主なる神は言うのです。二番目は、女の子でした。この子には「ロ・ルハマ」という名が与えられます。ロ・ルハマとは、打ち消しの言葉「ロ」に「憐れむ」という動詞の受身形が結びついてできた言葉です。「憐れまれぬ者」という意味になります。誰が自分の子どもの名前に「愛されぬ子」という意味の名前を付けるでしょうか。とくに父親にとって、娘が多くの人に愛される人間となることはとても大切なことであり、重要な関心事であります。ところが、神は真逆の名前を与えるのであります。これは、イスラエルの家に訪れる悲劇、すなわち王国の滅亡を暗示しています。三番目の子は男の子でした。与えられた名前は「ロ・アンミ」です。「わが民でない者」という意味です。主なる神は、もはや北王国イスラエルを契約の民と見なさなくなったというわけです。何とも、悲しくなるような神さまからの命名のされかたです。

 しかし、安心してください。神の言葉は、それで終わりではないとホセアは言うのです。それが、続く章の1節から節に記されます。「『あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)』と言われる代わりに『生ける神の子ら』と言われるようになる。」とホセアは告げるのです。イズレエルの地は栄光に満たされ、また女性たちも「ロ・ルハマ」ではなく、「ルハマ」(憐れまれる者)と呼ばれるというのです。

 ホセア書は、我慢と忍耐をされる神が、最後にはイスラエルの民をご自分の民として再び呼び集めてくださることを約束する希望の預言書です。612節には次のよく知られた言葉が登場します「さあ、我々は主のもとに帰ろう。/主は我々を引き裂かれたが、いやし/我々を打たれたが、傷を包んでくださる。/三日の後、主は我々を生かし/三日目に、立ち上がらせてくださる。」この三日目にというホセア書の言葉は、第一コリント書15章で使徒パウロが引用している復活の根拠となる聖句になっています。信仰生活も、そうではないでしょうか。しばしば神さまを忘れ、神から離れてしまう罪深い私たちを、神さまは決して見放しません。そうではなく、ホセアがゴメルに対してしたように銀貨と大麦という代価を払うような仕方で、買い戻してくださるのです。教会は、このような神の愛があるからこそ立つことが出来ます。たとえどのような試練や困難があろうとも、神の愛を信じ、神の愛に生きる時に、神さまは私たちを回復し、豊かな祝福へと導いてくださるのです。

お祈りいたします。