栗ヶ沢バプテスト教会

2023-03-19 主日礼拝説教

 

ペトロへの祈り

ルカ 2231-19

木村一充牧師

 

 私たちは今、教会の暦上でレントと呼ばれるキリストの受難と死を覚え、慎み深く過ごす40日間を過ごしています。受難節あるいは四旬節とも呼ばれるこの期間は、同時に私たち自身の罪を悔い改め、自らを低くし、まことの神への立ち返りを求める神の御心(みこころ)を深く心に刻む期間でもあります。この40日間は、もともと教会の初期の時代においては復活祭に洗礼を受ける人々、つまり洗礼志願者のために設けられた期間でした。イエス・キリストの弟子となることを志願する人々は、キリストが十字架につけられ死んで葬られるという苦難の道を歩まれたことを思い起こし、その死によって自分の罪が贖われたことを心に刻むために、しばらくの間、節制と禁欲の期間を過ごしました。その期間は、当初は40時間という短い時間だったといいます。しかし、やがてそれが6週間に延長されます。4世紀になってローマ皇帝コンスタンティヌスによりキリスト教が公認されると、受洗者の数が激増して一人ひとりに対しての十分な準備が行き届かないようになりました。そこで、それまで求道者のみに課していた復活祭前の節制の習慣を全信徒に対して求めるようになります。それが受難節(レント)の起源でありました。

 本日お読み頂いたルカによる福音書22章は、主イエスが弟子たちと過ごした最後の夜、弟子たちと過越の食事をとった場面が書かれているところです。レオナルド・ダビンチの絵にもある『最後の晩餐』として知られる場面です。主イエスは、ここでご自分の死を予告され、今後ぶどうの実からとったものを飲む事は決してあるまいと語られ、今後二度と再び過越の食事に与かることはないとだろうと弟子たちに話されました。まさにイエスが世を去られんとする間際のことでした。それは弟子たちにとっても信仰の生涯における一大事であったに違いありません。しかし、そのような決定的な時間の中で、弟子たちの信仰は揺さぶられていました。ユダは、愛する主を銀貨30枚でユダヤの神殿当局、イエスの敵対者たちに売り渡そうとしていました。続いて、弟子たちの間ではだれが一番偉いだろうかという議論が起こりました。なぜ、このような序列をめぐる論争が起きたのか。それは、彼らが神の国が近づいていると信じたからです。主イエスが王座に着かれる時がそこまで来ていると彼らは思った。だから、主が王座に着かれた時のナンバー2,ナンバー3は誰かと彼らは考えたのです。さらにシモン・ペトロの裏切りの予告へと話しは進んでゆきます。しかし、これらのことは決して他人事(ひとごと)ではありません。私たちの信仰生活もそうです。何事かが起ころうとしている、人生の一大事に直面しているというその時その人の本性(ほんしょう)が現れるものです。そのようなとき、サタンの誘惑がここぞとばかりに襲い掛かってくるのです。弟子たちは、まさに正念場に立たされていたのであります。

 もうだいぶ前のことになりますが、以前勤めていた会社に入社したとき、最初の数日間、研修で一部屋にカンヅメの日々を過ごすという期間がありました。その研修の最後に社長研修というのがあって、採用面接の際にお会いした社長から直々に仕事への姿勢について教わる機会がありました。社長はその研修の中で次のように話しました。「私は、これからのみなさんの働きについて大いに期待をしています。しかし、申し訳ないが、皆さんのことを信じるまでには至っていない。皆さんのことが本当に分かるには、今後510年と仕事を一緒にやるなかで、仕事上の困難を共に乗り越えるという経験をしなければいけないと考えている。その覚悟をもって、私についてきてほしい」と。当時は、まだ上場もしていないベンチャー企業でしたがその通りだと思いました。教会もそうではないでしょうか。信仰の危機にどう向き合うか。そこで信仰が問われるのであります。

 「『シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。・・』」(31節)イエスはそう言われます。名前を二度呼ぶ、それは限りないイエスのその弟子への愛情の表れです。あのマルタとマリアの物語が話された場面でも、イエスは「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩んでいる」と語られ、マルタへの親しみの感情を示しておられます。主イエスはペトロに向かって、サタンがお前の信仰をふるいにかけることを神さまが許可したよ、と言われるのです。どういうことでしょうか。サタンとは私ども人間を神から引き離そうとする悪の力のことです。世の中には、このような悪の力が確かに存在します。しかも、そのサタンは信仰の厚い人、いわゆる霊的な指導者と目される人を優先的にその標的に選んで、襲い掛かって来るのです。主イエスがそうでした。荒野で4040夜に渡って断食した時に、サタンが現れてイエスを誘惑しました。空腹になり、弱っておられる時に誘惑を受けたのです。サタンとは、このように私たちの隙を狙ってやってくるものです。油断も隙もありません。あたかも人格を持つ者であるかのように、巧妙に極めて抜け目のない仕方で、私たちを神さまから引き離そうと、始終付け狙っています。使徒パウロも、第2コリント書11章で「サタンでさえ光の天使を装う」と述べていますね。気をつけなければなりません。信仰に躓き、サタンが勝利の凱歌をあげるようなことがないように、常に祈り、霊的に武装するよう心がけたいのであります。

 「小麦のようにふるいにかける」とはどういう意味でしょうか。今日(こんにち)私たちがスーパーで買う小麦は真白い粉ですが、イエスの時代のパレスチナで収穫される小麦はくすんだ緑色でした。一部に殻も混じっていました。それを、ちょうど精米屋が米と糠・もみ殻を分けるように、網のはられた箕を用いて振るい分けたのです。聖書のほかの箇所では、洗礼者ヨハネがこの箕のことを話題にしています。「『・・手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払わられる。』」(マタイ312)とあるのは、審くために箕を使うというのです。殻の方は焼かれると洗礼者ヨハネは言っています。精米屋は食べるためのお米、白米を残そうとしますが、サタンはそうではありません。もみ殻が目当てです。善に対して疑いをかけるのです。この人は人前では良く振舞っているが、本当はどうだか分からない、しおらしい顔をしていても、実際はもみ殻に過ぎないではないか、サタンはそのように悪意をもって人を(はす)に見て、隙あらばこやつをもみ殻にしてやろうと機会を窺うのであります。今、弟子たちの代表であるペトロはサタンによって揺さぶりを受けようとしています。なぜ、ペトロなのでしょうか。それは、ペトロが弟子たちの筆頭格であり、リーダーだったからです。ペトロには直情的なところがあり、物事に対してじっくり時間をかけて判断する慎重さに欠ける面がありました。しかし、キリストに従う信仰においては、人一倍熱いものがありました。ほかの11人の弟子たちを引っ張っていく力があったのです。そのペトロがサタンによる誘惑に負けてしまうことになるのです。実際、このあと彼は大祭司カイアファの中庭で、三度も「私はそんな人は知らない」とイエスを否認します。

 しかし、本日の31節の御言葉(みことば)で私たちが注意したいのは「『(サタンは)…神に願って聞き入れられた。・・』」という表現です。サタンの誘惑は、神からお許しを受けたものだと聖書は言います。サタンがその人の魂に目掛けて働く時には、神さまから許可を得ると言うのです。サタンがどれほど執念深く、しぶとく、巧妙に隙を狙ってやって来たとしても、そこには神の管理と支配があるということです。悪魔の勢力は結局のところは制限されています。なぜか、それはサタンも神の手の内にあるからです。どれほどサタンが猛威を振るおうとも、所詮サタンという獅子は檻の中に入れられています。それがキリスト教の世界観です。では、なぜ神さまは創世記の時代から悪の存在を認め、そのままに放っておかれたのでしょうか。創造の初めから悪の勢力を絶滅せしめ、それを根絶やしにするということを、神さまはなぜなさらなかったのでしょうか。それは、人間が進歩を促すためにはそのようにしたのでは為にならないと神さまがお考えになったからではないでしょうか。人間には歴史が必要です。失敗の体験が、かえって人の進歩に寄与するという例は山ほどあるのです。にもかかわらず、悪魔をいっぺんに全部取り除いてしまえば歴史も進歩も発展もなくなってしまいます。私たちは、そのことを神の摂理として、むしろ感謝して受け入れてゆきたいのです。確かに、ペトロはこのサタンの誘惑の罠に陥り、サタンに絡めとられたかに見えました。しかし、この後ペトロはサタンの力に完膚なきまで打ちのめされ、イエスを見捨てて神から離れてしまったでしょうか。いいえ、そうではありません。使徒言行録2章を見てください。主の十字架と復活を経験した後、ペンテコステの日のエルサレムで、大勢のユダヤ人を前にしてペトロは説教をし、それを聞いて3000人もの人が悔い改めてバプテスマを受けたではありませんか。なぜ、ペトロは立ち直ることが出来たのか。それが本日の32節の主イエスの次の言葉に示されます。「『・・しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。・・』」イエス様が、ペトロの信仰が無くならないように、十字架につけられる前夜という危機の最中におられたその時にも、ペトロのために祈ってくださったからです。このペトロの姿こそ弱き弟子たちの姿であり、さらに私たちすべての信仰者の姿であります。主はとくにペトロのために祈る必要を感じられました。この第一の弟子、ペトロに短所はあるものの、ペトロでなければできない働きがあることを知っておられたからです。キリスト教信仰は、他者のために具体的に祈るということを大きな特徴とする信仰です。確かに、自分自身が苦しみや病から解き放たれることを祈り願う面もあります。しかし、それと同時に、あの人のために、この人のために懸命に祈ることをするのです。それはイエス様が、そのようにこの私のために祈ってくださるからです。私たちの人生は山あり、谷ありの人生ではないでしょうか。泣きたいときもあります。しかし、そのような時には教会全体でその人のために祈ろうではありませんか。

 聖書の信仰の素晴らしい点は、神さまが私たちの失敗や挫折を受け入れてくださるという点です。一度失敗したら、それで終わりではないのです。もう一度立ち上がるチャンスを与えて下さるのです。「『・・だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。』」という主のお言葉通り、立ち直るその時を待ってくださるのが神さまです。私たちも、そのような神さまの愛の眼差しの中で生かされています。故に、同じ過ちはもう犯しません。たとえ、主を否認するようなことがあっても、今はイエス様の祈りにより再び立たされて、兄弟のために、友のために祈る者になるのです。主の祈りによって立ち直ったペトロは、私たちのお手本であります。

お祈りいたします。