栗ヶ沢バプテスト教会

2024-02-18 伝道開始記念礼拝説教

福音のためならば

Tコリント916-18

木村一充牧師

 

 本日の礼拝は「伝道開始記念礼拝」と銘打って捧げる礼拝です。週報の巻頭言にもお書きしたように、今から55年前1969年の29日、当教会の初代牧師鍛治田武先生の牧師就任式と派遣式が市川教会で行われました。その3年前の1966年から、柏市の光ヶ丘団地の蓑原善和さんのお宅で始まった家庭集会が市川教会の伝道所として開設され、次の年1967年の1月から洋裁店の2階を会場として、日曜礼拝がささげられるようになったと『伝道開始40年の歩み』に記されています。教会の草創期に、家庭集会や子どもたちのための日曜学校の責任者として支えてくださった蓑原さんは、今も九州の福岡バプテスト教会の教会員としてご健在でいらっしゃいます。手元の40周年記念誌には、初代牧師おつれあいであった鍛治田みどり夫人の寄稿文に次いでその蓑原さんの文章が掲載されています。初めに、その文章をそのままお読みいたします。

 伝道開始40年を心からお慶び申し上げます。「狸に伝道するような所でした。」新しい伝道拠点、栗ヶ沢を見に来連盟の先生が、このように報告されたと聞きました。造成中の土地は見渡す限りぬかるみ、長靴でも入れず、多分あの辺の遠くから眺めた印象としては、もっともな感想だったことでしょう。光ヶ丘が「ほこりが丘」と言われていた時代、栗ヶ沢は人家もなく畑と林、夜は真っ暗で怖く、せりや土筆を摘みに来た所には、ウサギの糞が落ちていました。まさに、狸が住むには本当によい環境でした。

 蓑原さんは、このように書いておられますが、55年前のこの場所は畑と林だけの場所を造成する途中にあり、まさに開拓伝道と呼ぶにふさわしい場所であったと思わされるのです。1969年の1月、光ヶ丘伝道所は連盟直属の伝道所になり、2月に、初代牧師鍛治田武先生が市川教会より派遣され、着任されます。明るく元気な先生のもとで、教勢も伸び、1970年に総工費804万円で旧会堂が建設されました。古い会堂の写真を見ると、屋根には十字架がそびえ、道路に面する植え込みに「栗ヶ沢バプテスト教会」の看板が見えます。一目で教会とわかるこの建物を見て「ここに教会が立っている!」と誰もが認識できたことであろうと思います。蓑原さんは、この文章の後半で庭に木を植える予算がなかったため、光ヶ丘の自宅から白樺の木を27本移植したと書いています。その当時は「白樺のある教会」というだけで、だれもが分かってくれたそうです。教会の名前を「栗ヶ沢教会」とするか「しらかば教会」とするかで、みなで議論したことも、今となっては懐かしい思い出ですと、寄稿文の中に書かれています。

 本日お読み頂いた聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙一の916節以下です。パウロはここでコリント教会の中での自らの伝道者としての立場を弁明しています。異教社会、神々で溢れていたギリシャ、ヘレニズム世界のただ中にあったこのコリント教会は、パウロにとって多くの伝道上の困難を抱えていた教会でした。いちばんの問題は、教会の中の論敵たちがパウロの使徒職、つまり使徒としての資格に疑問を抱いたことでした。当時、使徒と呼ばれていた人物の代表者はペトロです。生前のイエスの弟子として、イエスという方と共に生き、寝食を共にして一緒に伝道の働きを担ってきたペトロを筆頭とするイエスの12弟子たちこそ「使徒」と呼ばれるに値する人物であると、当時評価されていました。ところが、パウロはどうか。彼はもともとファリサイ派のユダヤ人であり、キリストの教会を迫害し、ステファノというエルサレム教会のリーダーの殉教の死にも、加担したとみられた人物です。しかも、彼はユダヤの律法によってではなく、「ただ信仰によってのみ」人は義とされると説きました。ユダヤ人キリスト者にしてみれば、そのようなパウロは信用できないと考えたのです。それは仕方なかったかもしれません。さらに、当時の教会はパウロのような巡回伝道者を教師として迎える際に、有力な使徒、或いはエルサレム教会からの推薦書の提出を求めました。それが、いわば「身元保証書」のような役割を果たしたのです。「推薦書があるから、この人は教師として受け入れて問題なかろう」と考えられたわけです。私も、40年余り前に西南学院神学部に編入で入学するに当たって、出身教会の牧師である松村秀一先生に推薦書を書いていただいております。入試では、聖書の問題の方がまったくと言ってよいほどできなかったのですが、何とか合格できたのはこの推薦書のおかげだったと今でも信じています。パウロの時代もそうだったのです。しかし、パウロはこの推薦書を持っていませんでした。それはそうです。パウロはかつてアンテオケ教会でペトロと衝突し、喧嘩別れのようなかたちで訣別しています。パウロは、エルサレム教会との関係もよくありませんでした。推薦書を書いてくれる人はいませんでした。ある意味で、パウロは、伝道旅行をしていた当時(言い方はよくないですが)、エルサレム教会からみればいわば「異端児」だったのです。本日の91節で「わたしは使徒ではないか」(原文のニュアンスは「わたしは使徒ではない、とでも言うのか」です)と書かれているのは、そのような背景があるからです。さらに、本日の箇所で問題になったのは、パウロがコリント教会で募った献金をめぐる誤解でした。この献金は、エルサレム教会への募金としてパウロが行く先々のギリシャの教会で募ったものですが、コリント教会の人たちは、それをパウロが自分の懐に入れていると言い出したのです。これを聞いたパウロは、福音を宣べ伝える者がその福音によって生活の糧を受け取ることは当然の権利であると言いつつ(914)、しかし、コリント教会の信徒たちからの、このような中傷をさけるために、自分はコリント教会から一切の経済的支援を受けなかったと書き送るのです。

 パウロの苦労がどれほどであったことか、私は心からパウロに共感します。今、コリント教会の中で彼は、牧師としての資格が問われ、かつ献金の用途まで疑われているのです。それでも、パウロは伝道者としての誇りと使命を失うことはありませんでした。本日の16節でパウロは述べます。「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。」「そうせずにはいられない」と訳されている箇所は、原文では「なぜなら、強制の力がわたしに課せられているからです」と書かれています。パウロにとって福音を語ることは、強いられた恵み、強いられた恩寵なのです。もし、福音を告げ知らせないならば、自分は災いだ、とさえ彼は言います。パウロをこのような使命感へと駆り立てた「福音」とはいったい何だったのでしょうか。福音と訳されるギリシャ語は「ユーアンゲリオン」といいます。「よい」という意味を持つ「ユー」に「アンゲリア」(=ニュース、音信)という意味を持つ単語が結びついてできた言葉です。ゆえに英語では「Good News」と訳されます。かつて、不治の病と言われた結核が、今ではストレプトマイシンという薬のおかげで治るようになりました。この薬の発見は私たちにとってGood newsです。或いは、深い雪山で遭難した人が、寒さの中で眠らないように励まし合っている中、救助のヘリコプターが到着したとします。そこから救命用の梯子が降ろされたとしたら、それはGood news です。もともと、ギリシャではこのような使信を伝える者のことをアンゲロスと呼びました。英語のエンジェルの語源になった言葉です。アンゲロスとは戦争の勝利の知らせを、自分の国に走って伝える伝令のことを指しました。

 ギリシャは山が多く平地が少ない地形のため、都市国家同士が戦争をする時に、町から遠く離れた広場や海で戦いました。マラトンの戦いは有名ですね。その結果を自分のポリスに走って持ち帰る役目を担ったの

が、このアンゲロスでした。彼が伝えるメッセージはただ一つ、「わが国は勝ったぞ!」です。負ければ、

彼が帰ることはありません。戦死するか敵国の捕虜になるかのどちらかです。だから、伝令が帰ってくることが、すなわち勝利でした。この伝令が帰るや否や、町中は歓呼に包まれたことでしょう。自分たちの国が征服されずに済むのです。じつは、聖書の中でもこれと同じことが起こっているのです。イエス・キリストが勝利されたということです。人間の罪、死の力に対して、絶望や不信、虚無やニヒリズムの脅威(脅かし)に対して、主イエスは勝利されたのです。こうして、福音に生きる者はイザヤ書にある次の言葉に依り頼んで生きるようになるのです。「恐れるな。…わたしはあなたの名を呼ぶ。…わたしの目にあなたは価高く、貴く…わたしはあなたと共にいる」(イザヤ431,4,5)コリント教会で、パウロは懸命に戦っています。彼は、ギリシャという異教社会の中で、十字架の言葉を携えて、人々に神の愛とキリストによる神と人との和解を受け入れるように勧めます。そのために彼は、ユダヤ人にはユダヤ人のようになり、律法を知らない人には律法を知らない人のようになりました。弱い人に対しては弱い人のようになり、すべての人に対してはすべての人のようになったといいます。そのように人々に寄り添い、一人一人のその人のように生きようとしたというのです。何とかしてその中の幾人かでも救うためにそうする、というのです(22節)。

 教会は何のために立っているのでしょうか。パウロがここで語っている通りです。イエス・キリストによる救いを人々に知らせるためです。「この人による以外に救いはない」ということを指し示すため、この方の復活の証人として、私たちは礼拝に集められているのです。弟子たちの前に姿を現わし、40日にわたって神の国のことを話された主イエスは、使徒言行録の1章で、地上で最後にこう語られて天に上げられました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(言行録18)。「地の果て」とは地球の裏側にあるような遠い国のことを指しているのでしょうか。そうではないはずです。極めて身近な、手を伸ばせば届く生活空間こそ、私たちが遣わされている所であって、そこが地の果てです。全世界に出て行くとは、教会の外へ足を踏み出すということなのです。そこが、私たちの日常における礼拝の場所です。

 先週の金曜日に行われた「賛美歌を歌う会」に、新しい方、新来者の方が2名見えました。初めて参加された方が都合3名あって、15名で持った集会はとてもよい集会でした。賛美歌221番、バッハのマタイ受難曲にも登場する「血潮したたる」を賛美しました。賛美歌には、私たちの心を静める不思議な力があることをみなで実感しました。私たち一人一人は、弱く小さく、欠点や破れを抱えた存在です。しかし、「神さま」と呼ぶことができるお方がおられることを私たちは知っています。主の名を呼び求める者に、神さまは「恐れるな!わたしはあなたの名を呼んだ。わたしはあなたと共にいる」と、いつも呼びかけてくださるのです。使徒パウロが、2000年前に福音のために生きたように、私たちも福音のために力を尽くす者になりたいと思うのです。

お祈りいたします。