栗ヶ沢バプテスト教会

2024-02-25主日礼拝説教

一粒の麦

ヨハネ1220-26

木村一充牧師

 

 この朝お読み頂いたヨハネによる福音書1220節以下では、ユダヤの最大の祭りである過越しの祭りを祝うために主イエスがエルサレムに上った際、礼拝にやって来た人々の中に何人かのギリシャ人がいたというところから話が始まっています。ギリシャからエルサレムまでは、直線距離でみても、1000キロを優に超えます。なぜ、彼らはここにやって来たのでしょうか。実は、古代地中海世界において、一番の旅行好きな民族はギリシャ人でした。彼らはフェニキア人同様に舟を使って、地中海各地の産物を取引するために移動しましたが、貿易という目的と同時に彼らは旅行そのものを好みました。ヘロドトスという歴史家がいますが、彼もまた存命中にギリシャからメソポタミア、クリミアやウクライナ南部、さらにフェニキアやエジプトまで旅したと言われます。その旅で得た知見をもとに「歴史」を書きました。ギリシャ人は、元来真理の探究者であって、真理を求めて哲学から哲学へ、宗教から宗教へとわたり歩くそのような民族だったのです。

 本来ユダヤ人の祭りである過越しの祭りに外国人である彼らがなぜ参加したのでしょうか。それはこの人たちがユダヤ教の教えに共鳴し、イスラエルの民と同じ神を礼拝しようとユダヤ教に改宗した人たちだったためではないかと見られます。実際、エルサレム神殿の庭には、これらの改宗した異邦人たちのために礼拝用のスペースが設けられていました。彼らはこの庭(異邦人の庭)で、礼拝をささげるためにやって来たのです。その機会を用いて、彼らはイエスの弟子の一人であるフィリポのところに来て「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と申し出ました。彼らは主イエスのうわさを耳にしていたに違いありません。ラザロを死者の中からよみがえらせ、盲人の目を開いたイエスというお方が、今年の過越しの祭りにもおいでになる。そんな噂を交わしている群衆の熱狂ぶりを横目に見ながら、自分たちも会ってみたいと思った。彼らは確かにユダヤ教に改宗してはいましたが、心の内では、どこか満たされない思いがあったのかもしれません。マンネリ化し、形骸化していたユダヤ教の形式主義に限界を感じていたのかもしれない。そのようにも思われます。ただ、彼らは直接イエスのもとを訪ねることをせずに、ガリラヤのベトサイダ出身の弟子フィリポに面会の希望を申し出ました。自分たちの側からイエスに直接声を掛けるのは畏れ多いと思ったのでしょう。そこで、仲介役としてフィリポを選んだ。ベトサイダ出身のフィリポを選んだのは、このベトサイダの町を再興した人物が、ヘロデ大王の息子のフィリポという王で、それはギリシャ名であり、この弟子フィリポもこの王の名前にちなんでつけられたギリシャ名だったため、彼らにとって近づきやすい存在だったのでしょう。

 しかし、フィリポはこの申し出を聞いて、いきなり彼らをイエスに引き合わせるということはせず、もう一人の弟子アンデレに事情を伝えました。アンデレは、主イエスのことを誰かに伝えるという働きを担うのに最適の人でした。皆さん、覚えていますか。ヨハネ福音書1章で、アンデレが自分の兄弟であるシモン・ペトロに「わたしたちはメシアに出会った」と告白して、ペトロをイエスに引き合わせた人物だったことを。その事からも分かるように、アンデレは人々をイエスのもとに導くという働きを担うのに最適の弟子であり、まさに「執り成しの人」でありました。バプテスト連盟の教会では聞いたことがありませんが、他派の教会にはこの伝道の働きを担うために「アンデレ会」という組織を作って、初めての方を教会に導くための受け皿としている教会があります。アンデレからみれば、主イエスがどのような人であるかが分かっていて、たとえ外国人であろうと主イエスが面会を拒まれるようなことはないと即座に思えたことでしょう。そのように、さまざまな理由で主イエスにお会いしたいと思っている人を主イエスのもとに導く働きが伝道です。そのための、専門的な知識が必要なわけではありません。福音を神学的に正しく、理路整然と語る必要もありません。人々を主イエスのもとに連れていくこと。具体的には教会に案内すること、それで十分なのです。皆さん、ぜひアンデレになってください。

 このアンデレとフィリポの申し出を聞いて、主イエスがお答えになった言葉が本日の説教題の言葉です。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」この言葉が語られた季節は、過越の祭りの時でしたから春3月から4月です。大麦の収穫が終わり、小麦の収穫が始まる頃です。小麦はギリシャ人にとっても、身近な穀物であり、パンの原料となりました。その一粒の麦が地に落ちることを「死ぬ」と主は言われます。そのように蒔かれて死ぬことがなければ、多くの実を結ぶことはできません。しかし、死ねば、豊かな実を結ぶのです。そのことを客観的な事実として語られただけでなく、ご自分のこととして語られたのです。この後の言葉を聞くと、それがご弟子たちへの勧告として、さらには、メッセージとして語られたことがわかります。一粒の麦は、食べてしまえばそれまでのことです。しかし、もしこれを地中に蒔けば、もはやパンの材料としては使えませんが、その麦から芽が出て、やがて多くの実を成らせることになります。それと同じように、主イエスが地上の王としてその命を用いたとすれば、その時代の人々が一時的に良い生活をすることができるかもしれませんが、それで終わりです。しかし、十字架に掛かって死なれるのなら、多くの人々を救うことになります。それによって、その時代の人々だけでなく、それ以後に生まれて来る人も含めて、主イエスと出会うすべての人を救うことができるのです。単にこの地上で良い生活をすることができるというだけではなく、永遠に神の国において生きるという、豊かないのちを頂くことになります。主イエスは、この時、ご自分の十字架上の死を、多くの人を死から命へと導く贖いのわざとして予告しておられるのです。この一粒の麦のたとえによって、主イエスは御自身の死が、無意味な死、犬死にとでも呼びましょうか、そうではなく私たちを罪から救い出す神の栄光が現わされる出来事だとおっしゃっているのです。

 先週の金曜日(223日)は祝日でしたが、恵泉バプテスト教会で西南学院神学部の寺園喜基先生の新刊「カール・バルトの教会教義学の世界」の出版記念講演会を兼ねた東京地方壮年会連合の研修会がありました。当日は冷たい雨の降るあいにくのお天気でしたが、100人近い方がおいでになりました。当教会からも複数の方がご出席くださり、実行委員として恐縮しながらも嬉しく思いました。私は、先生の講演のあとの質問者として3人の質問者の中で一番初めに質問に立ったのですが、そこで「バルトは、イエス・キリストの十字架の死をどのように捉えているか」ということを質問しました。内容の詳細は割愛しますが、寺園先生はこれに答えて「イエス・キリストの十字架の死は、父なる神の側から見て、勝利と言っても良い」とお答えくださいました。決して神の御子が罪の力に打ち負かされたのではない。そうではなくて、神から与えられた契約の成就として、十字架の出来事を読み取るべきだとおっしゃったのです。十字架は神の愛の出来事なのだと私は理解しました。イエス・キリストは勝利者として死にたもうた。それが、バルトの十字架理解だというのです。主イエスはここで、二人の弟子たちに「人の子が栄光を受ける時が来た。」と言われます(23節)。栄光を受けるという言葉を聞いて、私たちが思い浮かべるのはオリンピックで優勝者が金メダルを授与される時です。表彰台の真ん中に立って、カメラのフラッシュを浴びながら、拍手と喝采の中で栄誉をたたえられるのです。しかし、イエスというお方は表彰台ではなくされこうべの丘で、金メダルではなく茨の冠をかぶって十字架に上げられました。しかし、神はそのようにもっとも低い所に下られた神の御子の死なせることで、すべての人の罪と死を神ご自身が担われたのであります。そこに、神の勝利、神の栄光があるとヨハネはいうのです。

 聖路加病院の院長をつとめられた日野原重明という方がおります。この先生が、最も大切にしていたという御言葉が本日の「一粒の麦、もし死なずば…」という本日の御言葉(みことば)でした。「私を変えた聖書の言葉」という本の中で、日野原先生が、その消息を書いておられます。1970330日、羽田から、福岡空港に向かって飛び立った「よど号」が、日本赤軍によってハイジャックされました。私は知らなかったのですが日野原先生はこの飛行機に乗っていたというのです。この飛行機は、そのまま韓国の金浦空港に誘導され、4日間にわたって、韓国当局と日本赤軍の交渉が続けられたといいます。もし、交渉が上手くいかなければハイジャック犯は、胸の中に納めてあるダイナマイトを使うかもしれない。そうなれば、乗客の命が危ない。その緊張と不安の中で、日野原先生は、同乗したハイジャック犯の一人が持っていた「カラマーゾフの兄弟」という本を読みました。ドストエフスキーの代表作の一つです。その本の表紙に書かれていた御言葉(みことば)がこれでした。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。しかし、死ねば実を結ぶ。」日野原先生は、この御言葉(みことば)によって平安を与えられたといいます。やがて、交渉が成功し、無事日本に帰還できた日野原先生は、心配してくれた多くの方々へのお礼の中でこう述べました。「これから先、私自身に許された第二の人生が、多少なりとも、自分以外の人のために捧げられればと願ってやみません」と。この事件を通して示された本日のヨハネ福音書の御言葉(みことば)が、日野原重明先生に新しい人生を切り開いたのです。それは日野原先生だけでなく、私たちにも当てはまる言葉ではないでしょうか。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ1224

 25節の「自分の命を愛する者」とは、自分の命は自分だけのものであり、神さまから与えられたものであるということを認めようとしない人のことを指します。私たちの命の主人は自分ではない。神さまなのです。ゆえに、それを神さまが喜ばれるように用いるのです。そうすれば、人生は本当の意味で豊かになる。多くの実を結ぶのです。私たちの生きる意味は、究極のところ、そこにあるのではないでしょうか。自分だけを喜ばせたところで、そこに本当の満足や喜びがあるだろうか。どんな人であれ、その命が他者のために用いられる時にこそ、その人は輝くのではないでしょうか。それは、信仰のあるなしに関係ない事ではないでしょうか。レントの季節を過ごしながら、一粒の麦として地上の生涯を歩まれ、そして死なれたイエス・キリストというお方を思いながら、そこに示される聖書の真理を深く思わされるのであります。

お祈りいたします。