栗ヶ沢バプテスト教会

2024-03-03 主日礼拝説教

喜び躍る礼拝

詩編11819-28

木村一充牧師

 

 3月になり、少しずつ寒さが緩み気温が上がる季節となりました。おとといの金曜日(31日)はNCC世界祈祷日礼拝に出席するために、教会員の方と福音ルーテル稔台教会に行ってまいりました。今年はとくにパレスチナのために祈るという礼拝で、ちょうど今イスラエルがハマスに報復してガザ地区への攻撃を行っているニュースで世界中が心を痛めている、そのさ中の集会となりました。当日は93名の方が礼拝に出席されましたが、今回は、事前に届けられるはずの祈りの冊子が届かず、私どもはコピーを使って礼拝に参加したのです。帰りがけに、稔台教会の人に聞いたところ、今回の対象国がパレスチナということで冊子が足りなくなり、急きょ1000部ほど追加印刷をすることになったということでした。教会には、遅れて届けられることになるだろうというのです。その意味でも忘れられない礼拝となりました。

 その3月第1週に与えられた聖書の箇所は、詩編118編であります。この詩編118編は、113編から始まる一連の主をほめたたえる歌の最後に置かれている詩である『賛美の歌』」と呼ばれ、宗教改革者のマルティン・ルターが特に愛した詩編であるといいます。この『賛美の歌』、すなわち詩編113編から118編までの詩文の中では「ハレルヤ」という言葉が繰り返し登場します。「ハレルヤ」とは「主をほめたたえよ」というヘブル語です。詩人はこの歌を通して、「神さまは恵みと憐れみに満ちた、感謝すべきお方である」と繰り返し告白するのです。聖書の神さまはどのようなお方でしょうか。新約聖書のヨハネの手紙では「神は愛である」と記されています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」この言葉で知られるように、「神は愛である」と新約聖書は述べています。では旧約聖書では何と言っているでしょうか。それが本日の詩編118編に書かれています。それは「主は恵み深く、慈しみ深いお方である」ということです。だから「ハレルヤ」と言って神を讃えるのです。しかし、信仰者でありながらも神に感謝することが少ないことを思わされます。人生がなかなか自分の思い通りにいかないからです。何かと思い煩うことも多い。しかし、本日の聖書は、たとえそうであろうと、厳しい現実の中にも神さまの慈しみは現れている。神の恵みは豊かに注がれている。だから、その恵みを数え、神に感謝して歩もうと呼びかけているのです。

 本日お読み頂いた19節の前の部分を読むと、詩人はいくつかの試練を経験し、そこをくぐり抜ける体験をしていることが分かります。まず5節です。「苦難のはざまから主を呼び求めると/ 主は答えてわたしを解き放たれた。」ある人は、苦難と訳されるヘブライ語の原語「閉じ込められたところ」を「牢獄」と見て、この詩人はかつて牢獄に入れられていたが、今はそこから解放され自由の身になったのだと解釈します。しかし、関根正雄という人は、この苦難のはざまとはむしろ重病、つまり重い病気のことを指しているように思われるといいます。その重い病気から神さまが解放してくださったと読むのです。私自身の経験を思い出します。今から11年前の201333日は、今日と同じように日曜日でした。しかし、前の週か風邪で扁桃腺を腫らせ、39度台という熱のままその日の礼拝で説教を語ったのです。次の日に板橋の誠志会病院で診てもらった結果、その日に肝臓の数値が悪いということで、そのまま東大病院に入院することになったのです。その月曜日は私の誕生日だったのですが、誕生日にに入院するという最悪の事態になりました。入院してからの私はひたすら病院食を食べたのです。そうすると、熱が下がり、数値が元に戻ってよくなったのです。そして1週間後の月曜日に退院できたのです。特別な投薬も診察もなく、ひたすら食事を食べてよくなった。あとで、診察結果を読ませていただくと、お医者さんも「なぜよくなったのかよく分からない」と書いていました。しかし、とにかく病気は癒されたのです。私は、それ以来体には十分気をつけています。この詩人も、重い病気の苦しみから解放されたと言っているのです。

 さらに13節からはこうあります。「激しく攻められて倒れそうになったわたしを/ 主は助けてくださった。/ 主はわたしの砦、わたしの歌。/ 主はわたしの救いとなってくださった。」「攻められる」とか「砦」という言葉から分かるように、詩人はこの時戦場で戦っていたのかもしれません。私たちの人生もある意味で戦いです。たとえば、会社ひとつを取ってみても、企業として生き残るために厳しい競争社会のなか、少しでも優位に立つための戦いをしながら活動しているのです。仕事の世界には勝つか負けるかの戦いがあることも事実です。この詩人は実際の戦いの中で「激しく攻められて倒れそうになった」というのです。これは決して他人事ではありません。私たちも、時に倒れそうになることがあります。しかし、その時何が起こったでしょうか。次のページを見て下さい。「主はわたしの救いとなってくださった」というのです。主の右の手が高く上がったと詩人は言います。右の手とは、神さまの力が現れるところです。その右手が上げられたとは、勝利したということです。詩人は激しい戦いの中で倒れそうになったのですが、神さまが助けて下さり、死なずに済んだというのです。続く18節で詩人は感謝の言葉を述べます。「主はわたしを厳しく懲らしめられたが/ 死に渡すことはなさらなかった。」神さまは、時に病気や苦難を通して、私たちを訓練し、謙遜な者としてくださいます。詩人はそのことをむしろ、神さまの恵みの御業ととらえ、主に感謝しているのです。

 こうして本日の19節に入ります。「正義の城門を開け/ わたしは入って主に感謝しよう。」礼拝するために神殿に来た人が、神殿の門を通って入ってゆきます。激しく攻められ倒れそうになった人、病に撃たれ苦しみの淵にあったこの人が、今や義の門を通って神を礼拝する者とされ、そして主こそわが救いだと告白しているのです。今、ここで捧げられている私たちの礼拝においても、実は同じことが起こっています。礼拝に出たくても健康上の理由でどうしても出席できない、ということがあります。何週間もお顔を見ないと、あの人はどうしたのだろうか、大丈夫かしらと心配することがあります。そして、心配していた人が久しぶりにお見えになると、一緒に喜ぶ気持ちになる。つまり、ここでともに礼拝をささげることができるということが大きな喜びなのです。

 礼拝とは、神さまを私の主として告白する行為です。祈りを通して、賛美を通して、献金を通して神さまこそが私の救い主です、と告白しているのです。説教も同じです。説教を聞くねらいは、神についての知識を学ぶというよりも、イエス・キリストこそが私たちの主であることを知ることです。頭で理解するというより、ハートでわかることです。そして、それが分かったとき、礼拝を喜び、躍り上がるようになるのです。「今日こそ主の御業の日。/ 今日を喜び祝い、喜び躍ろう。」礼拝はお祝いです。祝祭、つまりお祭りですから、私たちは喜びの衣装を着て、礼拝に臨むのです。

 西南学院神学部時代に、ひとつのエピソードを聞きました。ある年の秋、西南学院全体でキリスト教強調週間に一人の牧師を招いたときの話です。この牧師は、講壇でサックスを演奏しながら、自身が神さまを信じるに至った経験談を説き明かすという方でした。高校生の教室を訪ね、ご自分の経験を証しとして語ったそうです。すると、一人の男子高校生が、話のあと、やってきてこう尋ねたというのです。「先生の信仰に至ったご経験はよくわかりました。ただ、キリスト教にはカトリックとプロテスタントがあって、両者は長く対立し、戦争までしています。それはどう考えたらよいでしょうか」これを聞いて、先生は「それを知っても意味がない」と答えたと言います。救いは自分の事柄なのです。救いが本当に喜びの事柄になるように、神さまを知ることが必要なのです。日曜ごとの礼拝を心から喜び、躍るような思いで神をほめたたえたいと願うのです。

お祈りいたします。