栗ヶ沢バプテスト教会

2024-03-10主日礼拝説教

上にあるものを求めなさい

コロサイ31-4

木村一充牧師

 

 本日の聖書箇所は、コロサイの信徒への手紙31節以下です。キリスト教信仰、すなわちキリストの福音がこのコロサイ地方に広まったのは、異邦人伝道に献身した使徒パウロが第3回の旅行でエフェソに滞在した2年の間であったと考えられています。このエフェソでの開拓伝道によって、エフェソ教会にエパフラスというコロサイ出身の人物が導かれ、神を信じる者となりました。コロサイはエフェソから約200キロ程東にある内陸の町です。エフェソは当時アジア州最大の港町だったため、ここを訪ねることも多かったのでしょう。彼はパウロの伝える福音を聞いてキリスト者となり、やがて、出身地であるコロサイの人々に伝道して教会を設立したとされています。その当時、コロサイはラオディキアやヒエラポリスに比べて、さほど大きな町ではありませんでした。ユダヤ人の数も少なく、教会の中は異邦人が多数を占めていました。この教会は、ギリシアやヘレニズム文化に染まった非ユダヤ人が多数派を占めていました。このような場所で福音を宣べ伝えることは容易ではありません。ギリシア人は知識や真理を求めることに貪欲な民族です。哲学やさまざまな思想が幅を利かせていました。しかも、ギリシア神話からもわかるように、さまざまな神々がいると考えられていました。週報にも書きましたが、当時の地中海世界を支配していたヘレニズム文化は、知識や理性、あるいは哲学に基づき、ギリシア風に生きることを良しとする文化であります。そのようなヘレニズム文化圏のなかで、唯一神を説くキリスト教の信者は圧倒的に少数派だったのです。教会の中には、異教的な文化が入ってきました。ちょうど、我が国の教会の中に、仏教的な文化や思想が入って来るのと似ています。たとえば、教会員となって新しい人との出会いやつながりが生まれた時に「ご縁があって、こちらの教会の一員となることができました」と表現したり、あるいはキリスト教の葬儀でも「○○さんのご冥福をお祈り申し上げます」と、ついつい表現することがあるのです。(ちなみに「冥福」とは、冥土での幸福という仏教の用語です。)これとまったく同様に、ギリシア文化圏にある地方で伝道することは、異文化と戦うこと、異端と目されるような誤った教えと戦うことを意味しました。本日のコロサイ書の28節に「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。」という勧告の言葉が書かれていますが、まさにこのギリシア哲学こそ、パウロがアテネで教会を建てることができなかった最大の原因、最大の障害となったのです。

 以上のことを前提として、本日の3章の御言葉(みことば)に入ってゆきます。「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。」とあります。パウロはコロサイの信徒たちに対し「あなたがたは、キリストと共に霊的に復活させられた」と述べています。今月の第5週、331日はイースター礼拝の日ですが、パウロは、あなたがたエフェソ教会のメンバー、一人一人がすでにキリストと共に復活させられているのですよ、と語りました。考えてみればそうです。バプテスマとは、全身を水の中に沈めて、ひとたびはおぼれ死ぬことです。そうして、そこから引き上げられ、生き返る。すなわち、死んで甦る出来事を指し示す儀式です。(前任教会では、この全浸礼がいやだと言う人がおりました)そのように、キリスト者はすべてキリストと共に古き自分に死に、新たな命へと復活させられているのです。それなのに、なぜ過ぎ去ったこと、地上の事柄に執着し、思い煩いの中で過ごすのかとパウロは言うのです。私たちは、古い自分に死んで、聖霊によって新しく生まれ変わった存在です。今、私たちキリスト者がこの世にあって生きているのは、以前の罪深い生がそのまま継続しているのではなく、そこに終止符が打たれて、復活の命、キリストの命によって私たちは生かされているのです。先日の信仰入門クラスでも、このことを確認しました。キリスト者とは生まれ変わったものであり、これからは礼拝を生活の中心に据えて歩んでゆくのだということを確信した次第です。だとすると、キリスト者にとって「上にあるものを求める」とは新しい命を生きることになります。それは、決して「もう少し高尚な生き方、高いレベルの生き方をする」ことではありません。そうではなくて、「ただ主のみを見上げて、心を高く上げる」ということです。明治から大正期にかけて、わが国の教会の黎明期とも言える時代に活躍した、日本基督教団富士見町教会の初代牧師植村正久(まさひさ)という人がおります。この牧師は、教会を訪ねてきて洗礼を志願する人を対象にした入門クラスにおいて「キリストは今、どこにおられるか?」と必ず聞いたと言います。みなさんならどう答えますか?もしかしたら、「キリストは、わがうちにおられる」と答える方もいらっしゃるかもしれません。もちろん、それが間違っているということではありません。しかし、新約聖書ではヘブライ人への手紙8章がその答えを書いています。「キリストは、今や天に上げられ、大いなるお方(神)の玉座の右の座に着いておられる」とへブル書は書くのです。キリストが天に上げられ、神の右の座に着いておられる。つまり、「上」とは主イエスがおられるところ、天の父なる神の玉座の右側、そこがコロサイ書がいう「上」であります。別な言い方をすれば、キリスト者とは見上げるべきお方を持っている人のことです。(うつむ)いてうなだれ、がっくりと肩を落とすのではありません。そうではなく、歌の文句ではありませんが、「上を向いて歩こう」です。すなわち、目を天に向けて、たとえ今は困難なこと、苦しいことや悲しいことのただ中にあるとしても、それはいつまでも続くことではない。必ずや神さまは、いつか良いことを起こしてくださるに違いないと自分に言い聞かせ、心を奮い立たせるのです。それが信じるということです。

 しかし、このように上を見あげて生きるとき、捨て去るべきものがあると本日の聖書は言います。それが5節以下に書かれています。それは、「みだらな行い」「不潔な行い」「情欲」、「悪い欲望」や「貪欲」です。これらの「欲望」や「所有への執着」が私たちを神から引き離す力、すなわち偶像になると聖書はいうのです。ちなみに「貪欲」と訳されているもとのギリシア語(プレオネクシア)の意味は、語源的には「多くを持とうとすること」という意味です。所有への執着は、そのまま地上へのものへの執着につながります。上を見なくなるのは当然のことでしょう。このような貪欲を「捨て去りなさい」とパウロは5節で言います。「捨て去りなさい」とは穏やかな訳し方で、原文では「殺しなさい」と書かれています。じっさい以前の口語訳聖書ではそう訳されていました。「不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい」このように強い表現で訳しているのです。キリスト教が広まる前の地中海世界は、性的に大変堕落していました。そのような中で、ユダヤ教とキリスト教は一夫一婦制を原則とするきわめて清潔な夫婦関係を説きました。だから、キリスト教は特に女性たちに受け入られるということがありました。本日の箇所の次の段落の7節以下で、こう記されます。「あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい

 本日の聖書が説くこのような勧告の言葉を読んで、みなさんはどう思われるでしょうか。さすがは聖書と言うだけあって、いいことを書いている。清く正しく清潔に生きよ、と説くコロサイ書の教えは、全くもってその通りであって、私たちもそうでなければいけない、アーメン、と何の抵抗もなく心の深くに、ストンと落ちる仕方で御言葉(みことば)が入って来る、と思いますか。そういうかたもおられるでしょう。しかし、それとは反対に、本日の御言葉(みことば)通りに生きることなどとても自分にはできないと、感じるかたもおられるのではないでしょうか。特に「怒り」や「憤り」を捨てなさいと言われても、怒りや憤りのない人など一人もいないのではないか。何か事あるごとに、怒りや憤りで心が沸騰するというのが、私たちの現実ではないか。そのような私どもにとって、本日の聖書の言葉は、従うにしてはハードルが高すぎるのではないか、そういう疑問も湧いてきます。しかし、大切なことはそのような私たちがキリストの出来事を通して罪が赦され、救いに入れられ、キリストの復活の命に与かっているということです。そのことを心に深く刻みたいのです。教会に集う私どもは、キリスト者になったからといって、「完全な者」になったわけではありません。なお弱さや破れを抱えています。しかし、パウロはそのような弱さを抱え合う者がともにキリストの体を担うことによって、より深くキリストの愛を知るようになると言うのです。それがキリストにある成長だとパウロは言うのです。エフェソの信徒への手紙の中でパウロはこう書いています「こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、…(略)むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます」(エフェソ41415

 何十年も信仰生活を重ねながら、自分の中にある罪、頑なさが少しも軽くなっていない。自分が少しも砕かれていないことを思い知らされ、情けなくなってくることがあります。誰しもが、そのように感じることがあることでしょう。しかし、私たちの欠点やそこから来る悩みよりも、私たちが「キリストと共にあり、キリストのもの」とされていることのほうがはるかに重要です。なぜなら、キリストに結ばれることで、私たちはキリストの恵みとその支配のもとに置かれ、復活の命を頂いているからです。神さまの愛を知る者とされているのです。

 まだ持っていないものを求めなさいというのではありません。すでに与えられているものを求めなさいと聖書は言うのです。それは、バプテスマによって与えられた新生者=新しく生きる者としての命です。地上の物、かつて自分を不自由にしていたさまざまな価値観やしがらみから、私たちは解き放たれました。罪の赦しを与えられ、神との和解が与えられたのです。これまでのように、地上のものに一喜一憂し、心を乱されることはない、上にあるものを見上げることができる生活が始まったのです。聖化がそこから始まっています。「日々新たにされる生活」が始まっているのです。だから、上にあるものを求めましょう。うつむかずに、天を仰いで生きよう。それが本日のメッセージです。

お祈りいたします。