栗ヶ沢バプテスト教会

2024-04-07 主日礼拝説教

キリストを伝える

Tコリント21-5

木村一充牧師

 

 新しい年度がスタートしました。今年は桜の花も例年より開花が遅れ、ちょうど今が見ごろのようです。入学式に合わせてお花見をしたという方も多かったかもしれません。その4月第一の週に与えられた聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙一、第2章であります。使徒パウロがコリントの町を訪れたのは紀元50年ごろのことで、この町はアテネの次にパウロが訪問した都市でした。地図でみると分かるように、コリントはバルカン半島とペロポネソス半島をつなぐ「首」ともいうべき接点に位置する港町で、半島の右側がエーゲ海、左がイオニア海となっています。コリントは、地中海を航海する船がこの二つの海を最短距離で往来するためにはなくてはならない港であり、立地がよいためにローマ軍の駐屯基地として、ローマ皇帝カエサルがこの町を選んだのでした(BC44年)。

 使徒言行録によりますと、パウロはこの町のプリスキラとアキラという夫婦の家に住み込んで、天幕張の仕事をしながら福音を語ったと書かれています。神をあがめるテテオ・ユストというギリシャ人改宗者の家庭集会から信徒の輪が広まってゆきました。コリントは、当時人口60万人を擁する地中海最大の港町であって、教会にはさまざまな人が集まりました。人口のおよそ3分の2が奴隷であったとみられることから、教会の中も同じような比率で奴隷が占めていたと思われます。奴隷と言っても結婚もできたので、召使いと言ったほうがよいかもしれません。コリント教会はパウロが去ったあとも、順調に成長を続けていました。パウロの次の牧師はアポロで、彼は雄弁家として知られ、いわゆる言葉の人であったようです。また、ケファ(ペテロ)もやってきて、教会の指導者となりました。本日の手紙の1章に、クロエという人物が出てきます。クロエは当時エフェソ教会の信者であって、コリントにも事業所を持っている実業家であったようです。家には多くの雇い人がいて、エフェソとコリントの間を行き来する従業員もたくさんいました。その一人からコリント教会の実情を聞き、さらにコリント教会の信徒たちからいくつかの質問を受け取ったこともあって、本日の第一、第二の手紙を書いたのであります。

 実は、パウロが去った後のコリント教会には、いくつかの問題が生じていました。その中でもっとも深刻な問題がすぐ前の1章に書かれています。それは、教会員たちの間で分争、分裂(スキスマ)が見られるようになっていたということです。教会の中に分裂があるということは、それぞれの意見や語ることが違っていたということです。正しい情報交換やコミュニケーションが成立せず、一つの方向に向かうことがなかなかできない。エネルギーのロスが生じていたのです。これは決して他人事ではありません。具体的に言うと、めいめいが「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロにつく」「わたしはケファに」などと言い合っているというのです。ここに名前が挙げられた3人、すなわちパウロ、アポロ、ケファといった指導者たちは、それぞれ立派な人物で、教会の分裂には何の関係もない人たちでした。3人の間に何か争いがあったわけではありません。彼らの知らない間に、コリント教会の人たちは彼らの名前を自分たちの争いに利用したのです。たとえば、「わたしはパウロにつく」と唱えた人たちの中にはパウロと一度も会ったことがない人がいました。つまり、特定の指導者の名前を借り、その人を祭り上げて、実際には自己主張を行っていたのです。では、それぞれの分派はどのような人たちが構成していたのでしょうか。

 まず「わたしはパウロにつく」と主張した人々ですが、彼らは主に異邦人(ギリシャ人)から成る人々でした。彼らはパウロが説いた「律法からの自由」を誤って理解し、救われたからには何をしてもよいのだという考え、放縦主義的な考えに陥っていたと考えられます。確かにキリスト者は自由な者として召されています。しかし、自由には責任があります。宗教改革者M.ルターが言うように、自由な者でありつつもキリストの奴隷として、キリストに倣う者となるべく召されているのです。二番目の「わたしはアポロにつく」と主張した人々は、アポロの知性に惹かれた人たちであったと考えられます。アポロは雄弁家であり、聖書に精通した人でした。彼はエジプトのアレキサンドリア出身です。アレキサンドリアは、当時ユダヤ人人口がもっとも多い都市で、知的活動が盛んであり、聖書研究の中心地でありました。アポロにつくと主張した人たちは、キリスト教をどこか哲学として知的に理解しようとしていた人たちだったとみられます。最後の「わたしはケファにつく」と唱えた人たちは、ユダヤ人グループだったと考えられます。そもそも、ケファという名前がヘブル語の名前です。(ギリシャ語ではペトロ=岩です)彼らは、キリスト教に改宗したユダヤ人であって、キリスト者になった後もなおモーセの律法を守るべきであると考えていた人たちでした。ちょうどペトロがユダヤ人キリスト者たちに気兼ねして、異邦人たちとの共同の食事に難色を示したように、コリント教会の信徒たちの中にも律法を重んずるユダヤ人キリスト者がいたのです。以上、指導者たちの名前を借りて分派を形成した人たちのほかに、「わたしはキリストにつく」と唱えた人たちがいたと書かれています。この派に属する人たちは、特定の指導者の名前を傘にして自己主張するほかの人たちを非難する中で「自分たちだけが真のキリスト者である」と主張した人たちであったと見られます。彼らの誤りは、自分たちがキリストに属すると唱えたことではなく、キリストが彼らに属するかのように振舞ったことでした。これらの推定に従えば、以上4つのグループ全てが、神ではなく人間の思いで分派を作り、自分たちの主張こそ正しいと言い張ったことになります。西南学院大学神学部時代に、新約学の青野先生から「くれぐれも、教会において自己絶対化することがないように気を付けなさい」と教えられました。相対化の視座を持つ、自分と違う意見を持つ人を認める、それらはキリストの体を立てるための要諦であります。

 教会は神によってなっているのであって、人によるのではないということを思わされた経験があります。前任教会で私は長く協力牧師をつとめておりました。2007年秋に前任牧師が他教会に移り、教会は主任牧師不在となります。次の牧師を選ぶための招聘委員会が組織されました。その招聘委員会が教会員に対してアンケートを募ったのです。「どのような方を、次期牧師として招聘したいか」というアンケートです。いろいろな回答がありました。明るくて面倒見が良い方、気軽に話しかけることができる方、愛情深い方、コミュニケーション能力が高い方、聖書の知識が深い方、できれば英語も話せたほうがよい。幅広い人脈を持っている、健康的な方など、まあまあいろいろな要求がありました。会議で司会をつとめていた人がその結果を見て言いました。「こんな牧師はいない」と。ただ、そのアンケートの中で、一人次のように答えられた方がいました。「たとえどのような方がお見えになろうとも、私はその方を当教会の牧師として迎え、感謝してこれまで通り信仰生活を続けてゆきたいと思います」と。私自身は、この方のご意見に一番近い考えを持っていました。結論から申せば、誰が牧師であろうともびくともしない教会でなければいけないのです。江戸時代が長く太平であったのには理由があります。それは、徳川家康が将軍の後継ぎは長男とすると決めたことが大きかったと言われます。一人一人の能力や個性は千差満別です。しかし、後継ぎを好みでみたらこれを巡って争い合い、お家騒動となります。それを避けるために、家康は次の将軍は長男がなると定め、これを支える者として目付、老中の制度をととのえました。誰が将軍になってもびくともしない体制を作り上げたのです。教会も同じです。他の誰でもないキリスト第一の教会でなければならないのです。

 本日お読み頂いた聖書の箇所で、パウロは初めてコリントの町を訪れ、神の奥義を語ろうとする時に「優れた言葉や知恵を用いませんでした」と述べています。多分、その前に訪れたアテネでの失敗が大きかったのだろうと私は思います。使徒言行録の17章によると、アテネではアレオパゴスの丘で哲学者たちと議論し、彼らの言葉を使って伝えようとしました。彼らが知っている詩人の言葉を引用するなど、知的・哲学的に語ろうと努めたのです。しかし、それは失敗に終わりました。その苦い体験から、もう二度と同じ過ちは犯すまいと思ったのでしょう。イエス・キリストのことを伝えるのに優れた言葉は必要ありません。イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外何も知るまいとパウロは決心したというのです。私も講壇から色々なことを語ってきましたが、伝えたいことはただ一つです。聖書が語っている神さまはすばらしいということ、その神を信じることで人生が白黒テレビからカラーテレビになるくらい豊かになるということです。ギリシャの神は悲しみ、痛むことができない神でした。完璧な神であって真、前、美のすべて兼ね備えたイデアの神でした。だから、彼らには神が十字架につくことなど考えられなかった。しかし、聖書の神はそうではありません。共に苦しみ、われわれと伴に歩んでくださるお方です。言葉が肉となって宿ってくださるのです。

 ある放蕩者の飲んだくれが、イエス様と出会い、回心してイエスを主と信じる者になりました。それを見た未信者の友だちが、あざ笑ってこう尋ねました。「イエスが水をぶどう酒に変えたなどという話を君は本当に信じているのかい」と。回心したその人はこう答えたといいます。「イエスが水をぶどう酒に変えたかどうかは、僕にとってはどうでもいいことなんだ。ただはっきりしていることは、我が家では酒が家具に代わったんだよ」そうです。信じることで生き方が変わるのです。信じるとは神の力を受け入れることです。知識は努力して得るものですが、信仰はただ恵みとして受け取るものです。御言葉(みことば)を受け入れる心の柔らかさを持ちたいと思うのであります。

 

お祈りいたします。