栗ヶ沢バプテスト教会

2024-04-14 主日礼拝説教

主イエスの御手

マルコ525-34

木村一充牧師

 

 この朝与えられた聖書箇所はマルコによる福音書5章の25節以下で、ここには12年間の間、出血で苦しんでいた一人の女性の癒しの物語が書き記されています。12という数字は、本日の箇所の前後に登場する会堂長ヤイロの娘の救いの出来事の中で癒された娘の年齢と一致しています。この12という数ですが、ユダヤの慣例では、女の子は12歳で成人した女と見なされました。ユダヤではこの数字は完全数であり、十分に長い期間という意味を持ちます。彼女は、女性の中にときどき見られる婦人病の一つで苦しんでいたのであります。この病気は、彼女にとって肉体的な苦しみであっただけにはとどまりません。旧約聖書のレビ記15章によりますと、期間を過ぎても出血がやまない場合、その期間中ずっとその女は不浄であると書かれています。この律法は、本来は女性の立場を守るための定めでありました。ところが、やがて浄・不浄を選り分けるための基準として用いられました。具体的に言うと、このような女は礼拝の場に出席できず、友人たちと交際をすることさえも禁じられたのです。彼女は精神的にも苦しんでいたのであります。

 この病気を治すために、彼女は考えられる限りの手段を尽くしました。評判のよい医者を探し求め、考えられる限りの治療方法を実践しました。タルムードというユダヤのラビたちが口伝で残した律法の解釈集の中にも、この病気に対する治療方法が11項目にわたって書かれているといいます。その多くは、強壮剤のようなもの、栄養剤を飲むことを勧めているのです。彼女も恐らくそれを試してみたことでしょう。しかし、なかなかよくならなりませんでした。主イエスに出会うまでの彼女の状態を、本日の福音書は次のように26節で書き表しています。「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」彼女がどれほど落ち込んでいたことか。何とかしてこの病気から解放されたい、何か良い方法はないだろうか。彼女がどれほどこの病気のことで苦しんでいたか、私にもよくわかります。私もまた、体調不良で苦しんでいたことがあるからです。

 前任教会の主任牧師として働き始める数年前から、(50歳前後のことですが)私は首の痛みに悩まされていました。一番ひどい時は、痛くて後ろを振り向くこともできないのです。家の近くの病院で診てもらうと、頚椎の何番目かの骨と骨との間が狭くなって、首を動かす時に神経を刺激しているのが原因だといいます。整体をするために機械で首を引っ張ったり、ぶら下がり機でしばらく逆さまになってみたり、いろいろと手を尽くしましたが無駄でした。あるとき、その情報を聞きつけた一人の牧師夫人がある病院を紹介してくださいました。当時は、藁にもすがりたい気分でしたから、さっそく私はその病院で診てもらうことにしました。6月のことだったと思います。その少し前に、私は務め先の会社で健康診断を受けていましたので、念のためにその結果一覧表を持っていったのです。診察室に入って事情を話すと、近所の病院でやってもらった内容と同じ処置がとられました。レントゲンを撮って、診てもらったわけです。ところが、その病院ではせっかくだから検査もやりましょうということで、CTスキャンをやろうという。更に、血液検査もやろうというのです。健康診断を受けて、血液検査のデータは手元にあるのです!しかし、こちらは病人ですから勧めに従うしかありません。長時間の診察を終えて、最後に会計の窓口に立つと、恥ずかしいことに持ち合わせが足りなくなったのです。手元の1万円余りを更に超える額でした。私は本当に恥ずかしくなりました。「長時間にわたる診察で時間を費やし、さまざまな検査をしたあげく、診察費用が足りなくなるほどのお金をかけながら、何の役にも立たず、かえってますます悪くなるだけであった」とは、まさに私自身のことです。ですから、私はこの女性の気持ちがよくわかるのです。苦しかったことだろうと。さて、この首の痛みですが、前任教会で牧師として働いているうちに、だんだんと良くなっていきました。今は、ほとんど自覚症状がありません。神さまに祈っているうちに治ったのです。

 話を元に戻します。この女がイエスの噂を耳にしました。主イエスが大勢の病人を癒し、次々と中風の人や片手の萎えた人を元の健康な体に回復させ、更に、悪しき霊に取り憑かれた人からその悪霊を追い払っておられるという話を聞いたのです。同じマルコ福音書の310節に「イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せた」と書かれています。この御言葉(みことば)にあるように、彼女も「今までいろいろやってきたけれど、全部だめだった。しかし、このお方であれば、わたしの病気を癒してくださるかもしれない。わたしも他の人のように、イエスという方に賭けてみよう!」そう思って、イエスに従う群衆の輪の中にそっと紛れ込んだのでした。当時のユダヤの社会で、彼女はさんざん「汚れた者」という言い方をされていました。そのため、彼女は正面からイエスの前に進み出るということができませんでした。後ろから、そっと衣の裾に触ったのであります。イエスの時代に高名なラビや教師たちは、衣の四隅に「(ふさ)」の付いている長い服を着ました。(インターネットで検索するとみることができます)民数記15章に書かれているこの衣服は神に選ばれた者としてのしるしでした。この衣服をイエスも着ていたと思われます。彼女が触れたのは、この「房(ふさ)」でありました。

 すると、どうでしょう。この女は出血がすぐに止まって病気が癒されたことをその体に感じたというのです。彼女は救い主であるこの方に触れることで、清くされたのです。イエスは、自分の体から力が抜けていくのを感じて「わたしの服に触れたのはだれか」と言われました。後ろからそっと触れるだけで、主イエスは触れた人がかと言われたのです。彼女にしてみれば、大勢の中の一人で分かるはずがないと思っていたでしょう。弟子たちも同じでした。これだけの群衆の中で、「『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」と彼らも言うのです。ここには大きなメッセージがあります。神さまは、私たち一人一人に大勢の中の一人(one of them)として出会われるのではなく、ただ一人の私(only one)として出会ってくださるということです。礼拝において、私たちは神さまと一対一で出会うのです。礼拝は厳粛であり、静粛にして捧げるものです。この会衆の中に大きな悲しみや問題を抱えている方がおられるかもしれません。その方にとって、今日の礼拝は決定的な「時の点」(the time point)なのです。20歳の時、私は初めて常盤台教会の礼拝に参加しました。200人近い会衆の中に紛れ込んで、神の言葉にすがりつくように耳を傾けて礼拝を捧げました。そして、しばらくの間は祝祷が終わるとすぐに、報告を聞かずして席を立ち、会堂の外へ出ました。礼拝の緊張感を保つためにそうしたのです。当時の私は意固地でした、自分は人と会うために教会に行くのではない、ただ神さまと出会うために礼拝に出るのだと思っておりました。それは徐々に変えられていきましたが…。

 当時のユダヤでは、病人が尊いお方の体の一部にでも触れることができれば、その病は癒されるという民間信仰、ちまたの言い伝えがありました。現代のわが国にも、これに似たような民間信仰があります。健康祈願、安産祈願のために、どこどこに行ってご神体にふれたり、そこの何々を買ったりすればいい、という言い伝えです。彼女が信じていたこともそうでした。それは現代では、知識人たちから大部分迷信として笑い飛ばされるような科学的根拠のない言い伝えです。そのような信仰は、いわゆる「ご利益信仰」としてインテリのキリスト者たちから批判されるものです。しかし、イエスというお方はご自身のもとにやって来る民衆の信仰が、どれほど功利的、すなわちご利益宗教的であろうとも、その願い求めに正面から向き合い、その願い求めを満たそうとするお方でした。あなたの願い求めはレベルが低いから、わたしには聞こえない。聞く耳などない、とは決しておっしゃらないのです。いいじゃないですか。教会の神さまを信じたら、こんないいことがあったと話される方に、「そうですか。それは良かったですね」と言ってあげましょうよ。現に私自身も、先ほど申しましたように、神さまの教会で働くようになって首の痛みが治ったのです。それをご利益信仰と言ってあざ笑うようなことを、イエス様は決してなさらないと私は信じております。

 「わたしの服に触れたのは誰か」そう言って、主イエスは辺りを見回されました。ここには、ただの一人も見逃すということをなさらない神の愛が示されています。女は自分の身に起こった救いが主イエスの御業(みわざ)によるものであることを知り、恐ろしくなって震えながら主の前にひれ伏したとあります。わが身に起こった救いの出来事が、喜びの業(わざ)以上に恐れの事柄となったというのです。私はここでもう一つのメッセージを聞き取ります。現代は、神さまに対する恐れの感情を無くしてしまった時代です。何をしてもへっちゃら、無感覚になっている時代です。しかし、神さまを信じるとは、どのような事柄の中にも神の力と神の支配が働いていることを認めて、神を恐れることではないでしょうか。何か大きな苦難や痛みを経験した時にだけ、神を恐れるのではありません。逆に、救いの出来事を経験したときにも恐れるのです。こんなこと、人間にはできないよね、というようなことが信仰生活の中には起こります。そのときに、感謝と同時に恐れをもって神さまにひれ伏す、それが礼拝者としての私たちのあり方です。そこで、ご自身の前に出て震えながら跪いている女を前にして主イエスは言われました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。」彼女の信仰は、もしかしたら小さな取るに足りないご利益信仰だったかもしれません。だから恐れが大きかった、とも言えます。しかし、ここで大切なことは彼女が、救われたいと思って、律法の定めを破ってでも、主イエスの衣服に触れたということです。もしも、衣に触れなかったらこの癒し、この救いは起きませんでした。皆さんの中に、今心から願い求めているものがありますか。その時は祈ってください。祈るだけでなく、求めているものがありそうなところに足を運んでください。この女性のように、手で触れるという行動でそれを表現してください。そうでなければ、事柄は起きません。20歳のとき、下宿のおばさんに場所を尋ね、教えてもらった教会に私は足を運びました。まさか、その時自分が今の自分のようになるとは思いもかけませんでした。そして、私は今の自分を喜んでいます。こちらの教会で皆さんとご一緒に礼拝できることを喜んでいます。神さまは、思った以上のことをされるお方であると深く思わされるのであります。

 

お祈りいたします。