栗ヶ沢バプテスト教会

2024-04-21 主日礼拝説教

モーセの十戒」出エジプト記201-7

木村一充牧師

 

 この朝は出エジプト記20章から、モーセに率いられてエジプトを出たイスラエルの民が、三ヶ月目にシナイの荒野に入った時の出来事が書き記されています。そこにはシナイ山がそびえていました。現在の地図のシナイ半島の南部にある標高2293メートルのこの山(アラビア語でジェベル・ムーサ;「モーセの山」の意)のふもとには、長さ4キロ、幅1キロに達する広い谷間があり、イスラエルの民がキャンプを張るのにちょうどよい広場がありました。この山が十戒を授けられる場所となったのです。思い出して頂きたいのですが、出エジプト記3章に描かれていたモーセの召命の記事、すなわちモーセがミディアンの地で羊飼いをしていた時、羊の群れを追って燃える柴の向こうから語りかける主の声を聞き、出エジプトの大事業をおこなうようにと命じられた場所、それがこのシナイ山でありました。主なる神はモーセにこう言われています。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。…あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」(出エジプト記31012)。今、このシナイの荒野に立ちながら、モーセはあの時の主の言葉を思い出していたのではないでしょうか。

かつて、紅海の奇跡、また荒野における天からのマナの奇跡を人々に経験させながら、主なる神がイスラエルの民をこのシナイ山に導いてこられた大きな目的は、ここで彼らとの間に契約を結ぶためでありました。神はイスラエルの民を、鷲がその翼に乗せるようにここまで持ち運んできたのであります。すぐ前の195節にはこう書かれます。「今、もしわたしの声に聞き従いわたしの契約を守るならばあなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる。」創世記で主なる神は、信仰の父と呼ばれたアブラハムとの間で契約を結ばれましたが、今度は民族、または国家としてのイスラエルと契約を結ぼうとされます。但し、その契約を結ぶに当たって、イスラエルに対して一つの大切な条件が提示されました。それは「わたしの声に聞き従う」(195)ことでした。全世界は神さまのものです。すべての民は神によってつくられました。そのすべてが「高価で尊い」存在です。しかし、その中でも神と契約を結ぶ民は、神さまにとって特別なものとみなされます。彼らには三つの特権が授与されると出エジプト記は言います。

 その第一は、契約の民は神さまにとって「宝」になるということです。神と契約を結ぶ民は、神さまにとって特別な宝の民とされる。もともと、この「宝」という言葉はかつてダビデ王が神殿建設に当たってささげた金銀について用いられた言葉でした。所有者にとって特別に価値の高い財産のことを指しています。このことは旧約時代のイスラエルにだけに当てはまるものではありません。新約聖書における教会の民も同じことが言えます。もともと教会という言葉そのものがギリシャ語でエクレシア、つまり「召し出された者」という意味を持つ言葉です。私たちもまた、神さまから特別に呼び集められた者、復活のキリストの証人として生きる使命を帯びてこの世から召し出されている者なのです。

 契約の民の第二の特権は「祭司の王国」とされることです。祭司には、神の神殿などの聖所において礼拝をつかさどり、また神と民との仲介者としてとりなしの祈りをささげるという特別な使命がありました。イスラエルは神と契約を結ぶことによって、神とほかの民族との間の仲介者となって全世界にいる他の民族を導くためにとりなしの祈りをささげる使命を託されました。しかし、現代のイスラエルはその使命を忘れ、異民族に対してミサイルや爆撃機による攻撃を加えるという神の民としてあるまじき行為を行っています。選ばれた民としての賜物や特権を、ぜひ世界平和のために活用してもらいたい、それが私個人の切なる願いであります。第三の特権は「聖なる国民」とされることです。これは、イスラエルの民が他の民族と違い、彼らだけ聖なる罪のない民となる、ということではありません。そうではなく、むしろ罪深い民であるにもかかわらず、神さまとの契約によってその罪を赦された者であることを、人一倍自覚する民となるということです。そのように聖なる者とされた民は、悔い改め、生き方を方向転換し、神のために自らをささげる民となるのです。それは、新約の私たちキリスト者もまったく同じです。私たちもキリストの血によって聖別され、第一ペトロ29が言うように祭司の王国に属する者とされています。それゆえ、私たちキリスト者もまた、神と人との執り成しをおこない、全世界の人々のために祈り、それによって人々に神の愛を伝えるのであります。

 主なる神と契約を結ぶに当たって、以上の主が語られた言葉をモーセは民の長老たちに伝えました。すると民は何と答えたでしょうか。198節をお読みください。「民は皆、一斉に答えて、『わたしたちは、主がかたられたことをすべて行います』と言った」・・どう思いますか?主の言葉に従うことは、それほどたやすいことでしょうか。そうでないことを出エジプト記は示しています。現にモーセが山から下りて来るのが余りにも遅く、待ちきれなかった民はアロンのもとに集まり、われわれに先立って進む神々を造ってくださいと訴えます(32章)。彼らは金の子牛を鋳造して、それを自分たちの神にして礼拝をささげるのです。目に見える神を拝もうとする人間の弱さがここにあります。それは決して他人事ではないのです。

 そこで、いよいよ20章に入ってゆきます。ここにはモーセの十戒と呼ばれる戒めが書かれています。十戒は、大きく二つの内容から成り立っています。初めの4つは、神に対する人間の向き合い方、義務と責任が記されます。後半の6つは人間の人間に対する義務と責任が記されています。前半は垂直方向に関する戒め、後半は水平方向に関わる戒めと言えるかも知れません。信仰生活では、このタテの関係と横の関係が、車の両輪のようにどちらも良好であることが大事です。神さまとの関係はとても良いけれども、隣人との関係はボロボロだというのではいけないのです。ところで、この十戒には他の律法の戒めにはない特徴が、三つほどあります。それに触れておきます。第一に、この十戒だけ神が直接、その御声(みこえ)をもって語られた戒めであるということです。これを聞いた民は恐れ、モーセに「あなたがわたしたちに語ってください。そうでなければ、わたしたちは死んでしまいます」と訴えています。第二に、十戒だけが神の指によって石の板に書き刻まれました。そして、第三にこの十戒だけが、契約の箱の中に置かれました。イスラエルの民が旅をする際には、神の箱がその先頭を進んでいきました。神のご命令と道徳を示したこの律法が、イスラエルの民の政治と生活の中心であることを神がお示しになったのです。現在のわが国の政治がこれと大きく離れたものになっていることは残念なことです。

 十戒の第一の戒めは次の通りです。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」これはイスラエルの民が、天地万物の造り主でありイスラエルをエジプトから導きだした神以外の何者をも、礼拝の対象としてはならないということを定めた戒めです。神以外のものを神とする、それは神ではない偶像を拝むということです。人類は昔から、目に見えるものを偶像として拝む習性がありました。アブラハムの時代に、人々は月を神として拝んでいました。月神を拝んでいたわけです。エジプトでは、太陽神が崇拝の対象となりました。日本は今でも地方では、死んでしまった先祖を神としてまつる習慣が残っています。一方で、心の中で思う事柄が神以上に大切になってしまうと、それも偶像となります。お金、財産、地位や名誉、学歴やこの世の快楽が神以上に大切にならないよう、私たちは気を付けねばなりません。時には、他ならぬ自分が絶対だと思い込むことがあります。注意しなければいけませんね。

 二番目の戒めは、4節の言葉です。「あなたは、いかなる像も造ってはならない」以前の口語訳聖書ではこの4節は「あなたは自分のために刻んだ像を作ってはならない」と訳されていました。こちらが分かりやすいかもしれません。これは、神を形にして表現してはならないという戒めです。なぜ、聖書では神を姿かたちで表現することを禁止しているのでしょうか。それは、神が霊なるお方であり、形のないお方だからです。先ほどのモーセの召命の出来事を記す出エジプト記3章でもそうでした。主がモーセに語りかけられたとき、神は燃える柴の向こう側から、何の姿を見せることもなく語りかけられました。聖書の神は万物の創造主(つくりぬし)であられる神です。初めであり終わりである方、アルファでありオメガであるお方です。無限であるその神を、木や石や金属で現わすことは、神を有限な、やがては朽ち果てる神におとしめることになります。と同時に、それは人間が神を作り上げることを意味します。造られたもの、被造物である人間が、創り主である神を造ることなどできるわけがありません。だから、神を形で現わすこと、神を像にすることを聖書はかたく禁じるのです。日本人は偶像を拝むのが好きな国民であって、お寺や神社へのお参り方々、大仏や菩薩像や蛇やキツネなどの彫刻、偶像を見て拝むということをします。しかし、それは所詮人間が造ったものにすぎないのです。聖書の神は、息をしない神ではありません。神の息である聖霊を、今も天から注いでおられる神であります。死んだ神ではなく、生きておられる神であり、出来事を起こされる神なのです。先週の金曜日に賛美歌を歌う会が行われましたが、新しい方が4名お見えになり、18人の参加者がありました。神さまが生きて働くお方であることを強く思わされた事でした。

 三番目の戒めは7節です。「主の名をみだりに唱えてはならない」という規定です。主の名前を軽々しく口にしない。神さまの名前を聖なるものとせよ、とは主の祈りの最初の祈りで私たちが唱える言葉です。イスラエルの人にとって名前は非常に大切なものでした。「名は体を表す」とはわが国の諺ですが、ユダヤでは特にそうでした。それは、神さまにおいても同様でした。そこでユダヤ人の読者を予定する福音書記者マタイは、神という言葉を安易に使うことを避けて、マルコ福音書の「神の国」という言葉を「天の国」「天国」という表現に言い換えたのです。

 さて、主の名を軽んじることなく、主の御名(みな)を崇めるにはどうすれば良いでしょうか。それには、神さまを信じる者が、神に喜ばれる生活をすることです。人々の前で良い証しを立てることです。信仰をもって生きているあの人はすばらしいと思っていただける。つまり、私たちの生き方を見て神さまがすばらしいお方であることを写し出すのです。私たちが神の言葉に従って生きることで、人々の間で神の御名(みな)が崇められるように、神さまを喜ぶものでありたいと思うのであります。

 

お祈りいたします。