栗ヶ沢バプテスト教会

2024-04-28 主日礼拝説教

祈りの生活

ルカ111-4

木村一充牧師

 

 主イエスがあるところで祈っておられた時、弟子の一人がその祈りが終わるのを待ちかねていたかのようにこう尋ねました。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」イエスの時代のラビたちは、その弟子たちに日ごとに唱える簡単な祈りを教えることが習慣になっていたといいます。洗礼者ヨハネも、弟子たちにその祈りを教えたようです。そこで、イエスの弟子たちも御もとに来て、同じことをしてくれるように頼んだのです。弟子たちは祈る習慣を身に着けていませんでした。実際、新約聖書の中の4つの福音書において、弟子たちが祈る姿を描く記述は一箇所もありません。逆に、イエスご自身が祈る場面はしばしば描かれています。あのゲッセマネの祈りの場面では、主イエスが祈っておられる時に弟子たちは眠りこけているという姿が記されています。この時、主イエスはご自身の逮捕を目前にして、血のような汗を滴らせながら祈っておられました。それなのに、必死で祈られる主イエスのすぐそばで、弟子たちは眠りこけていたのです。

 しかし、このような弟子たちの姿は、実は、私たち自身の祈りに対する姿勢を映し出しているのではないでしょうか。私たちの中には「何を祈ったらよいかわからない」「祈れない」「祈りたくない」という負の感情が心を占めています。神さまに求めることをせず、自分の力に頼り、少しも祈ろうとしないのです。20歳の時、イエス様を信じる決意を教会の礼拝で言い表したあと、初めて水曜日の夜の祈祷会に出席した夜のことを私は覚えております。初めに牧師の短いメッセージがあり、次に、小グループに分かれて祈ることになりました。私はそれまでに一度も、人前で声に出して祈るという経験をしたことがありませんでした。隣りに座った人たちは、自分の番が来ると、それこそ、待ちかねていたかのように祈り始めます。しかし、私は自分の番が来るのをドキドキして脅えながら迎え、何を祈ったらよいかわからないまま、しどろもどろで祈りました。「この祈りを、主イエスキリストの御名(みな)によっておささげいたします」という定型句を口にすることも出来ず、どう祈り終えたらよいかも分からないまま、祈りを終えた。私の祈りのデビューはさんざんな結果で、お恥ずかしい限りでした。

 皆さんの中にも、祈ることに対する不安や障壁に似たものを感じている方がいらっしゃるかもしれません。しかし、それを恥じる必要はありません。ローマの信徒への手紙827節で使徒パウロは次のように言っています「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」と。祈りを知らない私たちのために、霊が執り成して下さるというのです。思えば、イエス・キリストというお方もまた祈ることに熱心であられました。なぜ祈る必要がない神の御子が、かくも熱心に祈りたもうたのでしょうか。それは、神が私たちを愛しておられるからです。キリストはあなたの魂を探し求めておられます。誰一人として、神から離れ、罪に陥り、滅びの中に入れられることをキリストは願っておられません。たとえ、この世のものすべてが、あなたを捨て去る時にもイエスさまはあなたを見捨てることなく、あなたのために祈り、あなたを守ってくださいます。そう考えると、教会に祈りがあるということは、教会に愛があるということです。主ご自身がこのように私どものために祈っておられるのに、私たちが祈らなくてよいでしょうか。それは、神さまからの祈りの援護、愛のラブコールに応えない人のようです。主が祈っておられるのは、私はあなたを愛している、あなたは一人ではないということを知らせる神の愛のわざ、愛の行動であります。

 このようなことを、恐らく少しも分かっていなかったであろう弟子の一人が「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」と求めました。ここで「祈りを教えてください」と訳される「祈り」は原文で名詞ではなく動詞の不定形、つまり不定詞が使われています。「祈る」行動を教えてくださいという意味です。つまり、祈りの定型、形式やお題目を聞いているのではありません。私たちは、ともすると、祈りが型にはまった定型化した祈りになりがちです。ユダヤ人の間で祈られるシェマがそうでした。「聞け、イスラエルよ」で始まる申命記6章の祈りを、ユダヤ人は礼拝や食事の際に決まって唱和しました。この言葉が、あまりにも定型化したために「シェマティック」という言葉が生まれ、「型にはまった」とか「形式化した」という意味になったのです。そのように祈りがお題目になってしまわないように気を付けねばなりません。下手をすると、主イエスがここで示された「主の祈り」も、単なるオウム返しとなり、形式化する恐れがあります。そうなると、主が教えてくださったこの祈りを祈る時ほど、わたしたちが祈っていない時はないということになります。けれども、考えてみると、この主の祈りは祈りの本質を指し示ていることが分かります。この祈りでは、まず初めに、神の名が崇められること、聖別されることを祈ります。続いて第二に、御国が来ますようにと祈る。三番目には、本日のルカ福音書にはありませんが、続けて「御心が天になるように地にもなりますように」と祈る。これらの祈りから分かることは、主の祈りは神中心の祈りであるということです。このような神中心の祈りを、私たちは主から教えられることなしに祈ることはできないのではないでしょうか。

 往々にして、私たちが祈る祈りは自己中心的な祈りになりがちなのです。あれをください、これをくださいと、してほしいことばかりを祈り願う。神さまの御心(みこころ)などそっちのけで、自分の願いを最優先にして祈る。しかし、イエスさまは何とおっしゃっていますか。「先ず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、それらのものは添えて与えられるであろう」と山上の説教で語られています。それらのもの、すなわち「何を食べようか、何を着ようか」という私たちの日常生活上の必要なものは、添えて与えられると聖書は言うのです。それなのに、添えて与えられる物を、私たちは最優先に祈り求めているのではないでしょうか。

 祈りは、私たちの生活を根底で支える信仰を養い、価値観を形成してゆきます。私たちの行動原理になるものです。聖書には「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」と言います。その通りです。私たちが大切だと思うものに、私たちの心が向かっていくのです。かつて、会社勤めをしていたころ、私の家内は私の収入に対する文句や愚痴をいっさい口にしませんでした。もし、それとは反対の妻であったら(稼ぎが悪いと愚痴を言う妻であったら)、私は良い仕事ができなかったと思います。それよりも、私の健康に気を付けてくれた。それを私は本当に感謝しています。経済的に満たされることは、家庭を築く上で第一の条件ではありません。お金はあるに越したことはありません。しかし、それ以上に大切なことは、今自分が置かれている場所を喜び、活き活きと生きることです。カトリックのシスターである渡辺和子さんという人がおります。彼女は『置かれた場所で咲きなさい』という本の中で書いています。かつての自分は、環境に対して文句ばかり言っていた。そんな時、ある宣教師から紹介してもらった詩の中でこの言葉と出会った。それで考え方を変え、それまでの文句ばかりの毎日を改め、前向きに肯定的に物事と向きあうようにした。すると、周りの人の自分への態度もそれまでとは明らかに違ってきたというのです。まず、私たちの生き方が整えられることが大事です。「神の国と神の義を求めなさい」と、イエスは言われますが、「神の義」とは神さまとの正しい関係を指します。その関係が整えられることによって、隣人との関係も良い方向に変えられるのです。祈りによって、第一のものが何であるかを気付かされるのであります。

 こうして、主イエスは本日お読み頂いた箇所の後半で一つのたとえをお話しになっています。それは夜中に友だちが訪ねて来るところから始まるたとえです。一口に友だちと言っても、大きく二つに分かれます。あなたのことを助けてくれる友達と、ここに出てくるように真夜中にやってきて、ほしいものをねだる友だちです。後者は、あなたが助けなければいけない友だちです。主イエスのたとえ話はそこから始まっています。あなたは、助けを必要としているこの友人を放っておくことは出来ませんでした。もう一人の友人のところに行って事情を話し、腹を空かせたこの友人のためにパンをくださいとねだるのです。あなたのこの願い求めを聞いて、もう一人の友人は最初は断っています。「面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。」と。しかし、あなたが余りにも熱心に願い求めるので、この友人は、家族全員が起きてしまうことを承知のうえで、あなたの願い求めを聞き入れてくれるだろうというのです。

 この二人目の友人こそ、私たちがその名を呼んで祈るべき神さまの姿だと、主イエスは言われます。8節に「しつように頼めば」と書かれていますが、原文のギリシャ語は「厚顔無恥なほど、あつかましく」と訳してもよい言葉が使われています。「恥知らずなほどの」祈りをすることによって、起きて何でも与えてくれるだろうというのです。皆さんは、神さまに対して恥知らずなほどの祈り、厚かましいほどの祈りを祈られたことがありますか。人間同士の間では、遠慮も気兼ねもあり、思うように自分の気持ちを打ち明けることができないかもしれません。さらには、自分の弱さや欠乏を他人に訴えるようなことは、プライドが許さないという人もいるかもしれないでしょう。しかし、神さまの前では遠慮は要りません。人間の目から見れば、ほとんど迷惑だと思われるような厚かましい祈り、願い求めであっても、天の父は聞いてくださると主は言われるのです。

 時には、私たちが祈り願った事柄とは違う答が神さまによって示され、与えられるということもあるでしょう。さらに、私たちが願い求めたものを、神さまが与えないということもあります。しかし、たとえ、願い求めが叶わない場合でも、神は私たちが願ったこと以上のものを備えてくださるに違いないと信じること、それが祈りの精神です。神さまは、我々の祈りを意地悪く拒み続けるお方ではありません。むしろ、万事を益としてくださり、愛と慈しみをもって、私たちを白髪に至るまで持ち運んでくださるお方です。そのことを信じて、神さまの前に、求め続け、探し続け、門を叩き続ける者でありたいと願うのであります。

 

お祈りいたします。