栗ヶ沢バプテスト教会

2024-05-05 主日礼拝説教

神の言葉に生きる

Tテサロニケ213

木村一充牧師

 

 この朝与えられた聖書箇所であるテサロニケの信徒への手紙は、使徒パウロが第2回伝道旅行において、トロアスの港からエーゲ海を渡ってギリシャの地に足を踏み入れ、最初の開拓教会であるフィリピの教会に次いで二番目に訪れた町、テサロニケで立ち上げた教会の信徒にあてて書き送った手紙です。テサロニケという名前は、あのアレクサンダー大王が、自分の腹違いの妹である妻テサロニカの名前からつけた名前でした。パウロがこの町を訪れたのは紀元49年ごろでした。地図を見ていただくと分かりますが、テサロニケはフィリピから海沿いに街道を歩き、西に100キロほど行った港町です。東方と西方をつなぐ交通の要衝として栄えたこの町は、パウロの時代には人口20万人を擁する都市として、マケドニア地方でアテネにつぐ大きな町でした。使徒言行録17章によりますと、パウロはこの町で、三回の安息日にわたってユダヤ人のシナゴーグに入り、「メシアは必ず苦しみを受け、復活することになっていた」「この方こそ、わたしが伝えているイエスである」と論じました。このパウロの宣教を聞いて、神をあがめるギリシャ人やかなりの数の主だった婦人たちがイエスを信じ、パウロたちに従ったと書かれています。テサロニケの地での伝道は、驚くほどの大成功を収めたのです。しかし、このパウロの成功を見て、ユダヤ人たちは妬みや怒りを覚え、民衆を巻き込んで暴動を起こさせます。二人が寝泊まりしていたヤソンという人の家を襲い、ヤソンを捕えて町の当局者のもとに連れて行き、「世界中を騒がせてきた連中が、ここにいます。ヤソンがこの二人をかくまっているのです」と言って、パウロのテサロニケの地での活動を妨害し、二人がこの町にいられないようにしたのであります。

 初代教会の信徒たちは、多くの迫害のもとで信仰生活を送らねばなりませんでしたが、当時の迫害者の中で一番の迫害者はユダヤ人でした。ローマ帝国は、統治下に収めた国家や民族が信奉する宗教に対して比較的寛容でした。それに対して、ユダヤ人は自分たちが信じるユダヤ教の教え、モーセの律法を、キリスト教徒たちが否定することに我慢がなりませんでした。そこで、クリスチャンたちを共に礼拝をささげていた会堂から追放したり、その日常生活を脅かしたりする手段まで講じました。たとえば、商取引の相手から外すということをしました。ユダヤ教もキリスト教もともに旧約聖書を正典としているにもかかわらず、イエスをメシアと告白するかどうかで決定的に訣別してしまったのです。

 こういうわけで、パウロの一行はテサロニケでの伝道の大成功にも関わらず、そこに長く滞在することができませんでした。パウロはテモテとシラスを後に残し、一人でアテネに逃れることになります。今、パウロは、この手紙をコリントから書いています。パウロはテサロニケ教会の教会員のことを思い起こし、いつも神に感謝しているとこの手紙の冒頭の1章で書きます。それだけでなく、この手紙の中で、パウロはテサロニケ教会の信徒たちを誉めています。1章の6節以下を読みましょう。(右のページです)「そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。」すごいですね。わずか三週間の間しか、パウロはテサロニケで福音を語ることができなかったのです。それなのに、テサロニケ教会の信徒たちの信仰は、現在、すべての信者の模範になるほどだといっています。また、彼らも御言葉(みことば)を語り伝える働きをしたようですが、それに対しては何も付け加えることはないと書いているのです。私も礼拝の後に成人科のクラス、CS分級に出席することがありますが、解説を担当されたリーダーの方から、「今日は先生が来てくださったので、何かあったら付け加えてください」と言われることがあります。しかし、パウロの目から見て、テサロニケ教会の信徒たちの語る言葉は、その必要が全くないというのです。パウロとテサロニケ教会の信徒との間に、これほど大きな信頼関係ができていたのです。信仰を分かち合う者相互の関係は、かくあるべきだと思わされます。この信頼関係は、共にユダヤ人からの迫害という困難な事態を経験するということの中から、生まれたのではないでしょうか。キリスト者相互の信頼関係は、共に重荷を負い合うという体験によって、強固になるのです。

 実は、パウロはテサロニケ教会をできるだけ早く再訪したいと願っていましたが、叶いませんでした。2章の後半に、サタンに妨げられたためと記されています。病気だったのではないかと見られます。そこで、代わりにテモテをテサロニケに派遣します。その後の消息が次の36節以下に書かれています。テモテは嬉しい知らせを携えて帰ってきました。テサロニケの信徒たちがパウロに対する好意を失っていないこと、彼らもパウロにしきりに会いたがっているというのです。このような知らせを聞くことは伝道者冥利に尽きることではないでしょうか。わずか数週間だけの牧師と信徒の関係だったのに、まるで何年も付き合いがあったかのような関係が築かれ、またお会いしたいと言うのです。パウロは嬉しかったでしょうね。私は、この秋10月に浜松バプテスト教会の特別伝道集会の講師としてお招きを受けていますが、私のことを推薦してくださったのは、西南学院神学部時代に1年間奉仕した福岡バプテスト教会の牧師夫人でした。彼女がその後、浜松教会に移られ、私に再会したいとの思いから、今回私を推挙されたというのです。わずか1年の奉仕でしたが、40年以上前のことを覚えていてくださったのです。

 パウロの語った言葉がテサロニケの信徒たちの心を刺し、彼らの信仰を成長させたのはなぜでしょうか。それが、本日お読み頂いた聖書の御言葉(みことば)から明らかになります。213節bを読みましょう。「なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。」テサロニケの教会員はパウロの語った言葉を、人間の言葉としてではなく神の言葉として聞きました。語る人の性格や個性、あるいはそのときの表情も含めて、それを語らせたのは神さまだと思って受け入れることをしていたのです。そうするためには、謙遜でなければなりません。また心が平らかでなければなりません。近藤勝彦という東京神学大学の学長をされていた先生(教義学専攻)は、ある時の説教でこう語っておられます。「もしも、私たちが神の言葉としての説教を神の言葉として聞くことができないというとき、多くの場合、私たちは、神の言葉ではなく自分自身の言葉を聞いている」「そのような時、私たちは自分自身に向かって『静まれ、黙れ』と言わねばならない」と。その通りだと思います。そうやって、私たちの心を神さまに向けるのです。今、祈祷会では創世記を学んでいます。先週は、創世記41章からヨセフがファラオの夢解きをする箇所を読みました。七頭の太った艶やかな牛を、醜いやせ衰えた七頭の牛が食べ尽くしてしまうというファラオが見た夢の意味を、誰も説き明かすことが出来なかった時、給仕役の長は、かつて自分が獄に入れられていた時、侍従長ポティファルの家で奴隷として仕えていた若者が、自分の見た夢を見事に解きあかし、その言葉通りになったことを思い出しました。そこで、その若者(ヨセフ)のことをファラオに申します。そうして、ヨセフは王の前に連れてこられました。ヨセフがファラオの前に出た時、王は「お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだな」と語ります。するとヨセフは「わたしではありません。神がそうなさるのです」と答えるのです。ファラオはヨセフの個人的な能力、夢解きのスキルだけを求めました。しかし、ヨセフは「夢を解くのは神だ」と述べることで、自分ではなく、その賜物を与えてくださった神さまを誇り、神の名をあがめたのです。

 テサロニケの教会の信徒たちも同じでした。週ごとの礼拝や祈りの場で語られるメッセージを聞きながら、伝道者であるパウロ個人ではなく、パウロを遣わした神さまを説教者の背後に見ていたのです。そして本日の聖書の御言葉(みことば)の最後の文章でパウロは言います。「事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」「現に働いている」と訳される元のギリシャ語には「エネルギー」という言葉の動詞形が使われています。御言葉(みことば)がエネルギーになっているということです。私たちも、そのような聞き方をしたいのです。みなさん、御言葉(みことば)がエネルギーになっていますか?神の言葉を聞くとは、御言葉(みことば)を聞き流すことではありません。そうではなく、御言葉(みことば)に生きることです。パンだけで生きるのではなく、神の言葉によって生き、豊かな実りある人生を歩みたいと願うのであります。

 

お祈りいたします。