栗ヶ沢バプテスト教会

2024-06-02 主日礼拝説教

からし種のたとえ

マルコ430-32

木村一充牧師

 

 この朝お読み頂いたマルコによる福音書4章には、主イエスが語られた神の国のたとえが書き記されています。神の国とは、神が王となってこの世界を支配されることを意味します。それはすなわち、神の意志が天において成るように、地上においても完全に行われること、すなわち全世界が神の意志を受け容れ、神の意志に従って生きるようになることであります。神の国はいまだ来ていません。それゆえ、私たちはこの日が来ることを祈り願いつつ、神の御心(みこころ)に従って、各々が遣わされた場所で精いっぱい生きるのであります。では、この神の国とはどのようなものであるか。イエスは、それを説明するために「たとえ話」を用いられました。イエスの時代に、たとえを用いて神の国を説いた教師はイエスのほかにはいませんでした。たとえによって神の国を説き明かすということにおいて、イエスは傑出した能力の持ち主であったわけです。たとえとは、ほかの言い方をすれば比喩のことです。比喩には、直喩と隠喩という二つの種類があります。直喩とは、ストレートに言い表す表現方法です。たとえば、「あの子は、リンゴのような頬をしている」という言い方がそれです。それに対して隠喩とは遠回しに言う言い方です。「あの人は風邪を引かない人だ」というような言い方です。イエスが語られた神の国のたとえは、あとの隠喩のほうに近かったかもしれません。なぜなら、この章の前のほうの4章の10節以下を読むと、弟子たちを含めて人々がイエスの語られたたとえの意味が分からず、イエスにその意味を尋ねたと書かれます。もう一度解説してもらわないと分からなかったわけです。

 本日の30節以下の「からし種のたとえ」は、直前の「成長する種のたとえ」と一緒にワンセットで読んだほうが分かりやすいかもしれません。主イエスは、神の国とは農夫が畑にまく種のようなものだと言われます。26節以下を読みましょう。「また、イエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり…」とあります。ここで語られている要点は、第一に人間の無力さということです。農夫が種を成長させるのではありません。生命の神秘、種が成長する力は、神さまによって与えられたものであるということです。かつて、ノーベル生理学賞を受賞した京都大学の山中教授によって発見されたIPS細胞について、本で学ぶ機会がありました。IPS細胞を用いて人体の中の臓器をトカゲのしっぽのように再生させることができるという夢のような話です。これを臨床の現場に生かせたら、移植手術なしで弱った臓器を蘇らせることができるかもしれません。しかし、このIPS細胞で精子と卵子を作り出すことは出来ないといいます。人間の手で命を作り出すことは出来ない。生命が地球より重いと言われる理由はそこにあるのかもしれません。さらに、昔NHKの教育テレビで人間の臓器の働きをシリーズで解説する番組を見たことがありました。その回では、肝臓の働きを紹介していました。今でも記憶に残っています。肝臓は、人の下腹部の右側、胃の後ろに肋骨に守られるような恰好で位置する臓器です。大人のものは11.5キロで、臓器の中では一番大きく、体重のおよそ50分の1の重さだといいます。この肝臓の働きを数えてみると、何と500くらいあるそうです。肝臓はひと言で言えば、体の中の工場です。ここで、体に有害な毒素を解毒して体に有害な薬やアンモニアなどを、尿素などの無害なものに変えたり、血液中のアミノ酸や糖分を分解したりして、グリコーゲンなどの栄養素を作り出します。胆汁を作ったり、代謝に必要な働きを一手に引き受けたりするといいます。この番組で覚えていることは、もしも人の肝臓の働きを科学の力、人間の力で肩代わりしようとしたら、東京湾の沿岸に何ヘクタールもの用地を借りて工場を作らなければならないこと、それだけでなく、そこで生じる廃棄物の処理のために、かなりの広さの廃棄物処理工場が必要になるということでした。その番組を見ながら、神さまは驚くべき方法で人間の命を造られました。しかも、「見よ、それは極めて良かった」と創世記1章は書いていますが、すばらしい作品として人間を作ってくださったのだ、ということを知りました。その工場としての働きを、私たちが寝ている間さえも担ってくれているというのです。

 今日の聖書の箇所で言えば「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、」とありますが、人間の場合とまったく同じですね。それが、「ひとりでに実を結ばせる」つまり、人間の側の努力や工夫なしに「ひとりでに」芽を出し、実を結ぶ。神の国もこれと同じだといいます。私たちは神の国の到来を妨げることは出来ます。現に、戦争をしたり、神が造られた美しい自然を破壊したり、北極や南極の氷を溶かしたりしている。しかし、神の国を創造することは出来ません。救いや命を作り出すことは出来ないのです。私たちに出来ることは、むしろすでに神から与えられたこの命や自然、地球を守ることです。神から受けたものを、大切に管理して次の世代に渡すこと、そのためにも神の御心(みこころ)に従って生きることが求められているのです。

 

 そこで、主イエスが語られた二つ目のたとえ「からし種のたとえ」に入ってゆきます。このたとえでは何が語られているのでしょうか。ところで、「からし種」を皆さんは想像できますか。高速道路のサービスエリアでフランクフルト(ソーセージ)を買って食べたご経験があると思います。その際に、ケチャップと辛子、マスタードを調味料としてかけますが、あの辛子(マスタード)の中につぶつぶが入っているのを見た経験があると思います。からし種とは、あのつぶつぶのことです。前の教会の初代牧師夫人は、聖地旅行が大好きで、これまでに7回もイスラエルを旅したことがあるという人でした。飛行機代は息子さんたちが出してくれたそうですが、あるときこのからし種をお土産に持ち帰られたことがありました。手のひらに置いて、見ると本当に小さいのです。ふっと吹けば、飛んでしまうほどの軽さです。ところが、そのからし種を地にまくと、種は小さいのに、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作るほどの大きさになると言うのです。しかし、パレスチナの風土に詳しいエレミアスという新約学者の指摘では、このからし種が成長したとしても、せいぜいメートル程度の高さにしかならないといいます。空の鳥が巣を張るほどの大きさにはならないというのです。だとすると、ここには誇張があります。なぜ、イエスはそのような誇張をしたのでしょうか。それは、ホラを吹いてでも神の国の広がりの大きさを訴えたかったからです。吹けば飛ぶような種から始まった神の国であっても、最後には、空の鳥が葉の陰に巣を作るほどのびっくりするほどの大きさになる。主イエスはそう言いたかったのです。

 旧約聖書のエゼキエル書を読みますと(エゼキエルは紀元前6世紀の半ば頃、バビロン捕囚が起きた時代に、民に交じってバビロンに捕らえ移された人物です)、彼は17章の23節でイスラエルの民が再び捕囚の地から解放されて祖国に戻り、国家を再建することになるという預言を語ります。その際に、再び立てられるイスラエルの国家は、高い山にそびえるレバノン杉のようになると預言しています。そして、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになると述べるのです。同じくダニエル書でも、天にまで届くほどの高さの木が立っていたというネブカドレザル王がみた夢を、ダニエルが夢解きをするという話があります。高い木が旧約の時代の国家のシンボルでした。イエスも、当然それらの話を知っていたでしょう。ところが、イエスは神の国の広がりを語る時、レバノン杉のような巨木ではなく、からし種という小さな種によるせいぜい3メートルほどの高さの植物、32節で言われる「野菜」をそのシンボルとして用いるのです(マルコやルカは「木」と表現しています)。

 しかし、ここに主イエスの眼差しの特徴があります。神の国の広がりを視野に入れながら、イエスが、現実に見つめておられたのは、からし種と言う極めて小さな植物でした。それはすなわち、イエスが宣べ伝えようとした神の国は、ユダヤの社会において、弱く小さい者、罪人と呼ばれ、ユダヤの社会でのけ者にされたような人々のものであったことを示しています。そのような人々こそ、真っ先にそこで救いへと招かれるのだとイエスは語られました。すなわち、主イエスの言われる神の国は、弱く小さくされた人々の救いが成るところ、福音が受けいれられるところだったのです。それが、レバノン杉がイエスによって使われない理由です。私たちの信仰も、小さなところから始まりました。しかし、いつかそれは大きなものへと成長してゆきます。50年余り前、この栗ヶ沢の地で蒔かれた福音の種を、倦まずたゆまずまき続け、人々に心の一休みができる日陰を提供できる教会となりたいと思うのであります。

 

お祈りいたします。