栗ヶ沢バプテスト教会

2024-06-09 主日礼拝説教

父の胸元で安らぐルカ1619-30

木村一充牧師

 

 この朝お読み頂いたルカによる福音書1619節以下は、「金持ちとラザロ」という小見出しが付けられた主イエスのたとえ話が記されているところであります。主イエスが語られたさまざまなたとえ話の中で、ただ一つ、死後の世界のことが語られているたとえ話、それが本日のたとえです。ここに登場する二人の人物において、主イエスはそれぞれの人物の信仰がどうであったかを問題にしておられません。それだけに、この物語をどう理解すればよいかについて、読者の見解が分かれるのであります。ある人はここを次のように読みます。すなわち、この世で贅沢に暮らし、遊びほうけていると、いつか死んだときには地獄に落ちる。反対に、このラザロのように、生きている間は良い目に遭わず、貧しさと病の中で見捨てられているような者でも、神は決して見棄てたもうことなく、やがて天国では幸せに過ごす。だから、今貧しさの中にある者も、やけっぱちにならず、来世に対する希望をもって生きなさい。主はここでそうお語りになっているのだと読むのです。しかし、この話はそんな単純な話ではありません。

 およそ聖書の中で、富んでいることは即悪であり、逆に貧しいことは即善であるという考えはありません。むしろ、その逆に富は神の恵みと顧みの結果であり、貧乏であることは神のさばきのしるしであると考える人もいました。たしかに旧約聖書の箴言の224節を読むと、それを支持するような御言葉(みことば)があります。「主を畏れて身を低くすれば、富も名誉も命も従ってくる」――けれども、新約聖書のなかでイエスは、このような旧約聖書以来の伝統的な富の理解、つまり信心深く過ごせばその見返りとして富が与えられるという、富をめぐる応報的な理解をされませんでした。むしろ、イエスにおいて「富」と「貧」は逆転します。イエスは「貧しい者はさいわいだ」と言われます。さらに「富んでいる者が神の国に入るのは難しい」とさえおっしゃいました。このような逆転がなぜ起こったのか。それは、イエスにおいて、神は苦しむ者の側に立たれる神であるという考えがあったからです。しかし、そこにおいて間違ってならないことは、富んでいることが悪であると考えることです。救われるためにすべての者は貧しくならねばならないということではない。そうではなくて、神は貧しい者を助けることを通して、富める者にも本当の救い、解放を指し示しているのです。すなわち、富だけを頼みとし、それに心奪われて富の虜となり、神を見失ってしまう人間の弱さを戒めておられる。富は決して神ではないということです。その意味で、貧しき者を助けるということを通して、神は富める者にも貧しい者にも平等であります。すなわち、イエス・キリストの福音は、すべての人を富からも貧しさからも自由にし、今自分に与えられたものを喜び、感謝して生きる道を指し示すのです。もっと言えば、富める者がその富を貧しい者のために用いること、それが福音の精神であります。

 そこで、本日の金持ちとラザロのたとえの話に入ってゆきます。ここに、一人の金持ちが登場します。彼は、紫の衣やきめの細やかな麻布を着ていました。それらは、大祭司が身に着ける着物を指しており、当時の成人男子の平均的な一日の賃金、日当の80倍に相当したといいます。かりに日当1万円とすると、およそ80万円ということになりますね。しかも、彼は毎日を贅沢に遊び暮らしていました。モーセの十戒の第四戒には「安息日を覚えて、これを聖とせよ」とあります。この戒めでは、6日の間は何であれ働きなさいと書かれています。ところが、彼は毎日贅沢三昧にふけることで、十戒に反する生き方をしていたのです。一方、この金持ちの門前にラザロというできものだらけの貧しい人が横たわっていました。施しによってしか生きるすべを持たないこのラザロは、金持ちの食卓から落ちるパン屑で腹を満たし、命を繋いでいました。ちなみに、イエスの時代の食卓には、ナイフもフォークもありません。人々は手を使って食事をしていました。その際に、富豪の家では、パンがナプキンの代わりに使われ、一度手を拭いたパンは捨てられました。ラザロが口にしたのはそのパンだったのです。しかも、このラザロのもとに、人々から嫌われていた野良犬がやってきては、全身のできものをなめる始末だったとあります。つまり、ここでは、一方でお金持ちの典型である人が登場し、もう一方で、貧乏人の典型であるラザロを登場させている。イエスはこのたとえ話で、意識して両極端の人を登場させているのです。注目すべきは、後者、貧しい人の典型であるこの人にラザロという名前がついていることです。新約聖書の中のイエスのたとえ話に登場する人で、名前が付いているのはこの人だけです。この貧しい人が格別に大事にされているのです。このたとえ話が言わんとすることの一つは、信仰が隣人の貧しさと非常に深い関係を持っているということです。ただ、教理を受け容れたり、まじめな生活を送るだけではない。あなたは隣人の貧しさ、困窮、痛みとどう関わるかが、問われているのです。

 やがてこの貧しい人ラザロは死に、天使たちによってアブラハムの側に連れて行かれました22節に「宴席にいるアブラハムのすぐそばに」とありますが、ギリシャ語の原文に宴席という言葉はありません。今の新共同訳には翻訳者の想像が入っていますが、原文は「アブラハムの懐に」連れて行かれたと書かれています。イスラエルの族長たちは今もなお天上で生きているという信仰がユダヤの人々の間にあったのです。一方、金持ちも死んで葬られました。ラザロの時にはなかった「葬られた」という言葉があることから、ラザロの時にはなかった葬儀が、この金持ちには立派に行われたことがわかります。物語はここから、核心部分に入ります。金持ちは陰府に落ちました。陰府(よみ)と訳されるもとのギリシャ語は「ハデス」です。地の深いところという意味で、仏教でいうならば地獄です。そこで炎に苦しみながら、ふと見上げると宴席にいるアブラハムとラザロが見えました。(ここも原文に「宴席」はありません)自分は火炎の中で苦しんでいるのに、天国にはアブラハムの胸に憩うラザロがいたというのです。

 そこで金持ちは大声で言います。「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。」ラザロを遣わしてわたしの舌を冷やしてくださいと頼むのです。この金持ちは、地獄に落ちてもなお自分中心でした。まるで、ラザロを召使い(使い走り)のように使おうというのです。彼は地獄の苦しみの中でも、ラザロへの見方を少しも変えません。もしも、地獄というものがあるならば、そこは自己中心の国ではないでしょうか。この金持ちの訴えを聞いたアブラハムはこう答えています「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。」自分中心の心と神の国との間には、大きな隔たりがあって、到底それを乗り越えることはできないのです。これを聞いた金持ちは、この時初めて他人のことを考える気持ちが芽生えてきました。彼は、このことを知らない5人の兄弟たちのことを思ったのです。しかし、ここでも、彼は再びラザロを使おうとします。ラザロを実家に派遣して、兄弟たちに「こんなところに来ることがないようにとよくよく言い聞かせてほしい」と頼むのです。地獄に落ちてもなお身勝手であることから抜け出せない。この金持ちの陥っていた問題状況を、私たちは他人事(ひとごと)として片付けられるでしょうか。

 ウイリアム・バークレイという英国の神学者は、このたとえ話を解説するに当たって、金持ちが陰府(よみ)におちた原因について、この金持ちが貧しいラザロに対して何もしなかった、つまり不作為の罪を犯したことにあると説明しています。しかし、私は週報の巻頭言にも書きましたが、この金持ちが庭先でこのラザロがパン屑を食べることを許していたことから考えて、貧しいラザロに対する施しの精神のようなものを、少なくとも持っていたと思うのです。まったくなにもしなかったわけではない。しかし、彼が決定的に手放すことができなかったものは自己中心的な考え、自己絶対化の思いでありました。神と人に向き合うことにおいて、彼は傲慢だったのではないだろうか。だから、天国で父アブラハムの胸元に憩うラザロをみても、自分のほうがまだ上だと思っているのです。このエゴイズムを捨てない限り、神の国に入ることは難しいと主イエスは言われます。自分はあの人を愛している、自分はあの人のことを思いやっている、といいながら、本当は自分のことを第一に考えているということが起こりうるのです。

 この金持ちが「自分の5人の兄弟たちのために、ラザロを遣わしてください」と頼むのを聞いて、アブラハムは「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。」と答えました。モーセと預言者たちとは、聖書のことを指しています。聖書、すなわち神の言葉に聞くことで十分ではないか、とアブラハムは言ったのです。しかし、金持ちはこれに抗って言います。「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。」と。聖書だけではだめだというのです。死んで甦った証人がいけば分かると言いたのです。化けの皮が剥がれましたね。うわべでは、どんなに憐み深くふるまっても、神の言葉を根底で信じることができなくて、どうやって悔い改めることができるでしょうか。

 ラザロとは、ヘブライ語の「エレアザル」から来ています。「神は救い給う」という意味です。しかし、この名前は、もう一つのヘブライ語に由来すると可能性があります。「ローエザル」です。それは、「救いなし」という意味です。私たちが、ただ神の言葉にのみ信頼し、そこに希望を見出しているならば、私たちもラザロと同様に、天上で父アブラハムの懐で憩う者となるでしょう。しかし、神の言葉に聞き従わないならば、私たちは死後の世界に希望を持つことができなくなります。「ローエザル」になるのです。私たちが結局のところ何に依り頼んで生きているかで、私たちのこの世の生き方のみならず、後の死に方も大きく変わるのです。本日のたとえ話は、そのことを暗示しているように思われるのです。

 

お祈りいたします。