栗ヶ沢バプテスト教会

2024-06-16 主日礼拝説教

神に従いなさいヤコブ41-7

木村一充牧師

 

 本日お読み頂いたヤコブの手紙は、新約聖書の正典として組み入れられるに当って、厳しい試練を受けた手紙であります。たとえば、三世紀の半ばごろに活躍した著作家テルトリアヌスという人は、聖書から非常に多くの引用をした作家として知られる人物ですが、この人の作品の中には、ヤコブの手紙から引用聖句は一つもみられません。すなわち、AD250年ごろには、ヤコブ書は未だ公認された新約聖書の文書として扱われていなかった可能性が高いのです。このヤコブ書を正典として認めた人物は、これより後に登場した教父アウグスチヌスでありました。このアウグスチヌスによるお墨付きを得て、はじめてヤコブ書は新約聖書の正典の一つとして承認されたのであります。

 さらに時が流れ、16世紀の初頭にドイツで宗教改革者として活動したマルチン・ルターも、このヤコブの手紙を聖書の文書として評価しませんでした。ルターはその著書「新約聖書への序言」という本のなかで次のような言葉を残しています。「以上要するに、ヨハネ福音書とヨハネ第一の手紙、パウロの手紙、とくにローマの信徒への手紙とガラテヤの信徒への手紙、エフェソ人への手紙、ペトロ第一の手紙が、あなたがたにキリストを示す文書です。たとえ、あなたがたが他の教えを見もせず、聞きもしなくとも、これらの文書があなたの救いのために必要なすべてのことを教えます。これらと比較すると、ヤコブの手紙はまったくの藁(わら)の書簡です」と。童話の「狼と三匹の子ブタ」の物語でも、上の兄さんブタが建てた藁(わら)の家を狼は吹き飛ばしてしまいますね。それほど、取るに足りない、頼りにならない文書、それがヤコブの手紙だとルターは言うのです。ルターがヤコブ書を評価しない具体的な理由は次の通りです。すなわち、ヤコブ書がキリストの十字架と復活について全く語っていないということ、さらにこの手紙が、パウロがあれほど強調した「人は信仰によってのみ義とされる」という信仰義認の教えと正反対に、わざによる義ということを主張していることの二つです。二番目は具体的に、どこのことを言っているのでしょうか。今日の聖書のページを1枚めくって214節を読んでみます。(423ページをお開きください)こう書かれています。「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っているという者がいても、行いが伴わなければ何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。」この段落の最後17節を読みます。「信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」確かにこれを読むと、ヤコブは使徒パウロがローマ書で説いた「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく信仰による」(ローマ328)という命題と真っ向から対立しているように見えます。

 しかし、よくよく読んでみると、ヤコブ書とローマ書は、それほど正反対のことを言っているわけではないように思われるのです。なぜなら、「信仰による義」を強く主張したパウロは、同じローマ書の12章以下では、キリスト者のこの世での務めについて語っているからです。たとえば12章の冒頭で、パウロはめいめいが与えられた賜物(カリスマ)を用いて、神と人に熱心に仕えよと命じています。さらに、貧しい者たちを助け、旅人をもてなし、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさいと彼は言います。すべての人と平和に暮らし、たとえ人から(ひど)いことをされても復讐はするな。復讐は神がなさることだからと述べて、悪に悪をもって報いず、むしろすべての人の前で善を行うように心掛けなさいと言います。パウロは決して、律法、あるいは律法の精神である隣人愛を否定しているわけではありません。むしろ、愛の業を行いなさいと言っているのです。ローマ書でパウロが訴えたいことは、人が律法の行いを守ることで、つまり、義なる行為を重ねることで、人は自分で自分の救いを勝ち取ることができると考えてはいけないということでした。ユダヤ人は、この点で大きな過ちを冒していたのです。割礼を受けたから救われるのではない。律法を守ったから救われるのではない。そうではなく、救いとはただ神の一方的な恵みによって、律法の行いとは無関係に、無償で与えられるものである。大切なことは、その恵みを受け入れる、すなわち信じることだ。人は良い業を重ねることで救いを作り出すことはできない。人間は自分で自分を救えない。それは、泥沼に沈み、溺れそうになっている私たちが、自分で自分を引き上げることができないのと同じです。パウロがいう「信仰による義」とは、人間が神の前に於いて自分で自分を義とする態度の誤りを説く教えであり、信仰さえあれば行いは不要だということを説いた教えではないということです。

 ヤコブは、ローマ書に記されるパウロの信仰義認の教えが、パウロ亡き後の教会、とくに異邦人教会において間違って理解されていることを憂いていました。自分たちはイエス・キリストを信じてバプテスマを受け、神さまによって救われたのだから、何をしてもよいと考える人が現われました。一方で、自分は信じて救われたのだから、もはや何もしなくてもよいと考える人も出現した。それらに対する警告として、ヤコブはこの手紙をしたため、先ほどの2章の言葉を残したのです。信仰と行いの二つは、車の両輪のようなもので、一緒に回らなければならないと言ったのです。キリスト教信仰は、決して特別な思想ではありません。そうではなく、その人の行動を裏付ける力や行動基準になるものです。私は人を見る時に、その持ち物や富によってその人を評価したりはしません。私が見つめているものは、常に「裸の魂」です。その人が神の前でどう立っているか、隣人をいかに大切にしているか、何を大切にして生きているかを見つめています。一時的に口から出る言葉よりも、その人の生き方を見つめているのです。

 そこで本日の箇所に入ってゆきます。41節です。「何が原因で。あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。」実は、この翻訳では、原文のニュアンスが正しく伝わってきません。原文はこう書いているのです。「あなたがたの間にある戦争と争いはどこから来るのか。ここからではないか。すなわち、あなたがたの肢体の中にある、欲望を満たすために無給の志願兵となって戦う思いからではないか」今回のウクライナ戦争においてもロシアの理不尽な戦争に対して、手を上げて志願兵となる日本人が現われました。これは義のための戦いだというのです。ところが、ヤコブはそのような兵士の精神が私たちの中にもあると言います。それは、自らの欲望を満たすために他者との戦いに参戦する兵士の姿です。自分が欲するものを手にするためには、他の人との戦争も辞さないという姿です。私たちはそのような兵士を雇わぬよう注意しなければなりません。

 出エジプト記20章にモーセの十戒と呼ばれる10の戒律が登場します。主なる神がシナイ山で荒野を旅する民に対する神と人に対する関わり方を規定した戒めです。その最後、10番目の戒めがこの「欲望」に対する戒めでした。「あなたがたは、隣人の家を欲してはならない」この戒めには、7番目の戒めである「あなたがたは盗んではならない」と重なりあう部分があります。しかし、盗むなと言われる対象は主として動産、つまりお金や物品であると考えられるのに対し、第十戒では、同胞の経済生活の基盤となりうるあらゆる財が考えられています。具体的には、隣人の妻、男女の奴隷、牛や羊、ろばなどの家畜、その他、いわゆる不動産全般が想定されているのです。これらのものを、手段を選ばずに自分のものにしようとする思い、それが第十戒が禁じている「むさぼり」です。ここで注意すべきことは、快楽を求めて生きる生き方は自分を喜ばせる生き方だということです。自分の欲望を満たし、自分を喜ばすために手段を選ばないという態度、結果として人は恥ずべき行為をしてしまうのです。

 続く3節にこう書かれます。「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと間違った動機で願い求めるからです20代のころ、私は何度か宝くじを買ったことがありました。たまに1100円のくじで1,000円当てたことがありましたが、やがて買うのをやめました。それ以来、宝くじを買ったことはありません。恐らく、私がどんなに神さまに祈っても当たらないと思います。なぜなら、そのような祈りは利己的な祈りだからです。神さまはそれほど都合の良いおかたではありません。ところで、およそ私たちが神の前で祈るとき、その祈りの真の目的は何でしょうか。それは、最後には「あなたの御心(みこころ)をなさせたまえ」という事柄に尽きると思います。私たちの祈りが、もしも自分の欲望を満たすための祈りであるならば、神さまは聞いてはくださいません。中心を自分から神に置き換えなければ、祈りはかなえられないのです。逆に、祈りの中心を神に置くならならば、たとえ自分が願ったものと違うものが与えられても、それを神の御心(みこころ)と信じ、平安でいることができるのです。

 ヤコブは続く4節で言います。「世の友になることが、神の敵となることだとは知らないのか」ここでいう「」とは、神から離れている不敬虔なこの世を指しています。このあとのヨハネの手紙一、2章の16節にも同じような御言葉(みことば)すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです」があります。マタイによる福音書の山上の説教の中で、主イエスは「だれも二人の主人に仕えることは出来ない」と語られました。この世と向き合う私たちの態度を問われています。もし、私たちがこの世の事柄に身をささげ、そこにどっぷりとつかって心奪われるとすれば、私たちの主人はこの世になるでしょう。しかし反対に、この世の生活を神と人への奉仕の場と捉え、来たるべき神の国への備えとして受け止めるなら、その時、世は私たちの主人ではなく、むしろ神が私たちの主人であり続けるでしょう。私たちが、この世において神の僕として生きることで、たちは神を味方につけることができるのであります。

 私自身の人生を振り返ってみてもそうです。これまで、いくつかのピンチを経験しましたが、その都度、不思議と守られてきました。神さまに信頼して従うなかで得た確信があります。それは、神さまは決して、私たちの人生を悪いようにはなさらないということです。年を重ねて、体のあちこちがくたびれてきたとしても、神さまの慈しみとまことは少しも色あせることはありません。さらに神さまは、私たちの人生の最後においても、恵み深いお方であられます。そのことを信じて、神に従う者であり続けたいと思わされるのであります。

 

お祈りいたします。