栗ヶ沢バプテスト教会

2024-06-30 主日礼拝説教

しもべは聞きますサムエル上31-9

木村一充牧師

 

 この朝お読み頂いたサムエル記は、イスラエルが未だ王を持たなかった士師の時代末期に登場した預言者サムエルの誕生にまつわるエピソードから始まり、サムエルからサウル、サウルからダビデへと続くイスラエルの指導者たちの系譜を綴っている二巻におよぶ歴史書です。サムエルの母親はハンナといいました。ハンナにはエルカナという信仰深い夫がいました。しかし、夫の愛と慰めを受けながらも、彼女には子どもができませんでした。ユダヤの社会にあって、神の祝福のしるしと見られていた子どもが与えられないことは、女性にとって最大の悲しみでした。不妊の女と呼ばれ、悲しみ・苦しみを背負っていたハンナは、主なる神の前で大いなる決意をもって祈ります。「万軍の主よ、もしもはしためのことを心に留めてくださり、男の子を授けて下さるならば、その子の一生を主におささげします」与えられたその子を主に捧げるというのです。彼女にとって、それはすべてを失うに等しいことでした。この祈りを、主なる神は聞き入れられ、彼女は男の子を産みます。それがサムエルでした。「その名は神」という意味の名をもつこの男の子は、乳離れする年になると、シロという当時の神殿があった所に住む祭司エリのもとに引き取られ、その家族と一緒に神殿に住み込みの身として、わが国で言えば、ちょうどお寺の小僧のようなかたちで育てられるのであります。

 息子サムエルを主の神殿にささげる日、エルカナとハンナは主の神殿で礼拝をささげました。このとき、ハンナは祈っています。その祈りが、サムエル記上2章に記されていますが、この祈りは新約聖書のルカによる福音書2章で、神の御子を宿したイエスの母マリアの祈り(マグニフィカート)と内容的にたいへん似通った祈りとなっています。2章の冒頭の「ハンナの祈り」と書かれる段落を見てください。「主にあって、わたしの心は喜び、主にあってわたしは角を高く上げる」とあります。「わたしの魂は、主をあがめ」と祈り始めるあのマリア賛歌と似ていますね。4節以下をお読みください。「勇士の弓は折られるが、よろめく者は力を帯びる。食べ飽きている者はパンのために雇われ、飢えている者は再び飢えることはない」勇者の弓が折られたり、食べ飽きた者がパンのために雇われたりするような「逆転劇」は、ふつう滅多に起こりません。しかし、ハンナはそのような逆転がわたしの中で起こったといいます。不妊の女としての悲しみや苦しみを経験した者が、神の恵みにより高く上げられたというのです。そうです。祈りとは、私たちが神の前に低くされ、自分には何の力もないと、認めるところから始まります。来月の下旬に、私は何十年ぶりかで全身麻酔による手術を受けます。自分で自分の手術をすることはできません。お医者さんにすべてお任せするしかない。ただ主に祈るしかありません。信仰に入る時と同じです。人はしばしば自分のこの世での成功や優位が、自分の力によるものだと考えがちです。そのように考えるから、貧しい者や弱い者を見下し、蔑むのです。しかし、それは大きな間違いです。すべての人に与えられた成功は、それを可能にした健康や才能も合わせて、すべて神から与えられたものなのです。弱い者を見下し、蔑むことは、自分に与えられている神の恵みに対する感謝を忘れた者の姿であるとハンナの祈りは教えているのです。

 こうして祭司エリの家で引き取られ、神殿での雑用係としての務めを果たしながら少年時代を過ごしたサムエルでしたが、祭司エリの家には大きな破れがありました。エリの息子たちが父親の職務を受け継ぎながら、神を侮り、主を知ろうとしなかったというのです。彼らの堕落ぶりは、このあと具体的に描かれています。彼らは神殿に捧げられる肉をめぐり、律法で定められた祭司の取り分を超えて力づくでほしいものを奪い取りました。具体的にいうと、神殿でささげられる動物の肉の脂肪分は主のものとして祭壇ですべて焼き尽くされ、残りから祭司の取り分を受けるという決まりだった。ところが、ホフニとピネハスの二人の息子たちは、それを無視して脂肪付きの肉を手にしたのです。そればかりか、こともあろうに彼らは幕屋に仕えている女性たちと寝るという破廉恥な行為をします。人が人に対して罪を犯した時、神が執り成して、赦してくださることはあり得ることです。けれども、人が神に対して罪を犯す時、ほかの人間はどうすることも出来ません。あの放蕩息子のたとえに登場する下の弟のことを思い起こしてください。弟は、父がまだ生きている間に父からの相続分を受け取り、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして全財産を失ってしまいます。すると、その地方を飢饉が襲い、彼は食べる物にも窮し始めた。そこで、地元の農家に身を寄せ、豚の世話をすることにしました。彼は、豚のエサを食べてでも飢えをしのぎたいと思うほどでしたが、誰も何もくれませんでした。そこで彼は本心に立ち返り、こう言います。「父のもとに帰ろう、そしてこう言おう。お父さん、わたしは天に対しても、またあなたに対しても罪を犯しました」ここで、「天に対しても」という言葉が先にきていることが大事です。罪とは、まず何よりも神さまとの関係の破れを指すからです。彼らは神と人との関係を執り成し、礼拝を通して主に仕える祭司でした。当然ながら、父親であったエリは息子たちを呼んで諭します。「なぜ、お前たちはこのようなことをするのか。主の前で罪を犯すようなことをしてはならない」と言ったのです。しかし、彼らは父の言葉に耳を貸そうとはしませんでした。主なる神は二人の命を絶とうとされていました。しかし、一方で、少年サムエルはすくすくと育ち、主にも人にも喜ばれる者となったと、サムエル記は書きます。エリの息子たちに厳しいさばきが宣告された。しかし、主なる神は、祭司エリの家を断罪することで終わらせようとはなさいません。エリは完全に神に捨てられたわけではない。サムエルが一人前になるまで、サムエルを育てなければならないのです。祭司の家とは、レビの部族から選ばれた血筋という意味です。12部族の中でも特別に神によって選び立てられ、土地を与えられることなく、幕屋、すなわち神殿で働く務めを受け継ぎました。ところが、エリの二人の息子たちは神を侮り、私腹を肥やそうとしたために先祖の家から切り離すと主は言われます(サムエル上231)。ただし、あなたの家の一人だけはわたしの祭壇から断ち切らないでおくと主は言われる。それがサムエルでした。こう読んでいくと、1章でハンナの祈りを聞き入れられた神さまの御心(みこころ)が分かる気がします。祭司エリの家は、信仰的に堕落していました。それを改め、息子たちを改心させる力が年を重ねていた祭司エリにはありませんでした。ゆえに、主なる神はこの祭司の家の後継者としてサムエルをお選びになったのです。

 この朝お読み頂いた聖書では、少年サムエルがある夜神殿で寝ていた時、主なる神の声をはじめて聞いた時のことが書き記されています。1節のbを読みましょう。「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。」とあります。サムエルはエリのもとで主に仕えていました。恐らく、毎朝早く置き、神殿の戸を開けて部屋の掃除をし、食事を作り、年老いたエリとその家族や宮もうでに来る人々のお世話をしていたのでしょう。雑用としか言えないような奉仕をすることも、主に仕えることです。しかし、そこには主からの直接の語りかけや、主の言葉がありませんでした。7節を読むとこう書かれています。「サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。」なぜ、サムエルは主を知らなかったのでしょうか。残念ながら、それは、サムエルがエリの影響を受けていたからだと思います。サムエルの前には、人生の大先輩である祭司エリが立ちはだかっていました。ところが、肝心のエリの家庭は荒れすさんだ状況にあり、人の目を暗くし、神への思いを失わせていました。エリは老齢になり、霊的な鋭さや、神の前に厳しく自らを律してゆくような指導力を失っていたのです。まさに、危機的状況だったのです。これは独り言ですが、私自身について、もしも日曜礼拝の説教で自分が神さまの救いや恵みの大きさを、生き生きと力強く語り告げることができなくなったら、その時は直ちに講壇の奉仕から身を引こうと思っています。まだ大丈夫だと思っているのですが、たとえば妻からの指摘があればその時は、言い訳などすることなく真剣に受け止めます。自分の声だけが神の声だと思うことなく、妻のみならず、すべての人の声に耳を傾けて素直に従おうと思うのです。

 祭司エリは、老齢になり、気力も体力も衰えていました。しかし、この夜の3度にわたる主からのサムエルへの呼びかけの出来事を傍で見聞きしながら、エリは、主なる神の声が自分にではなく、サムエルに直接語り告げられるようになったことを悟ったものと思われます。長く祭司の務めを果たすなかで、自分の時代はもはや終わった。エリはそう感じたかもしれません。事実、少年サムエルが聞いた主の言葉は、エリの家の裁きを告げるたいへん厳しい言葉でした。サムエルはこのことをエリに伝えることを恐れます。祭司エリは、主なる神が少年サムエルに語られた言葉の中身をおよそ予測できていたと思われます。サムエルを呼んでこう言っています。「お前に何が語られたのか。わたしに隠してはいけない。お前に語られた言葉を一つでも隠すなら、神が幾重にもお前を罰してくださるように。」このようにサムエルを諭すエリの姿を見ると、エリの側でもそれ相応の覚悟ができていたに違いありません。現にサムエルが主から告げられたことの一部始終を話すと、エリは「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように。」と答えるだけでした。

 これは拍子が抜けるほど、あっさりした言葉です。手心を加えてほしいと言うでもなく、自分の罪に対する弁解の言葉も一切ありません。息子たちのせいで自分の祭司としての生涯はさばきで終わる。しかし、その責任は息子たちにある、自分が悪いのではない、と弁解したりしません。すべては自分の責任だ。それを問われる神こそ本当の神だ。それでこそ私の神だとエリは言います。これこそ、真実の悔い改めではないでしょうか。このときのエリの気持ちを表してみましょう「わたしは、40年にわたって主に仕えてきた。わたしの生涯はさばきで終わるような人生であったが、それでもひたすら主に仕えて生きることができた。すべては真実なお方である主の手に委ねよう。主がみこころにかなうことをしてくださるように」エリの人生において、少年サムエルから主の言葉を聞いたこの時の姿こそ、生涯で最も美しい姿だったのではないでしょうか。「しもべは聞きます。主よ、お語りください」これが神に従う者の姿です。わたしたちは、しばしば「僕は語ります。主よ、お聞きください」というふうに祈ります。しかし、言葉は神の側にあるのです。"神の前に身を低くして、主よ、お語りください"と祈る。本日の聖書は、その姿勢を私どもに求めるのです。

お祈りいたします。