栗ヶ沢バプテスト教会 2024-07-14主日礼拝説教

赦されて生きるルカ7:36-43

木村一充牧師

 この朝は、ルカによる福音書7章から一人の罪深い女の救いの物語を共に読みます。同じ7章の11節を見ますと、主イエスと弟子たちは、この出来事が起こる前に、ナインという町を訪れています。そこで、一人息子を亡くし、その遺体を棺に収めて町の人と共に野辺の送りをしようとしていた、あるやもめの一行と出会いました。これを見たイエスは憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われ、遺体の入った棺に近づき、そこに手を触れられて「若者よ、起きなさい」と声を掛けられます。すると、彼は起き上がってものを言いはじめたというのです。この話を聞いた人々は「大預言者が我々の間に現れた」と言ってイエスのことをほめ称えたのでした。

 先ほど司式者に読んで頂いた箇所は、この奇跡物語が綴られた後の記事でありまして、あるファリサイ派の人がイエスに一緒に食事をしたいと申し出て、イエスを自分の家に招いたところから話が始まっています。彼の名前はシモンといいました。シモンは、イエスのうわさを耳にしていたに違いありません。ファリサイ派とは「分かたれた者」という意味です。律法を厳格に守り、これに忠実に従うことにおいて、自分たちは一般の民衆とは違うという強い自負を持っていた人たちです。なぜ、そのような人シモンが、イエスを招く気になったのでしょうか。いくつかの推測があります。その第一は、シモンがイエスを崇拝していた、イエスのファンであったと考えるものです。第二は、シモンはイエスを自宅に招き、食事を共にするなかでイエスを訴える口実を見つけようとしたという見方です。はっきりとした悪意をもって、食事の際にイエスがおこなう振舞の粗さがしをしようとした、というのです。三番目は、以上のどちらでもありません。そうではなく、シモンは、折に触れてある程度名の通った教師や名士を招いて、会食をするのが趣味だったという推測です。これがいちばん当たっているかもしれません。高名なラビとして知られるイエスに貸しを作るという下心もあってか、シモンは、今回の食事会では、近ごろ民衆たちの間で評判になっている若いガリラヤ人を、ひとつ食事に招いてやろうと考えたわけです。

 そこで、今回の事件が起こりました。この町で罪深い女と見なされていた一人の女性が、食事の席についておられるイエスに後ろから近づき、泣きながら涙でぬれたイエスの足を自分の髪の毛で(ぬぐ)い、さらに、手に持っていた石膏の壺から香油をイエスの足に注ぎかけたというのです。「罪深い女」とありますが、彼女の罪がどのようなものだったかは分かりません。娼婦であったとも言われますし、あるいは何らかの不品行に関わっていたとも言われます。しかし、彼女の罪がどのようなものであったかは問題ではありません。いずれにせよ、彼女は自らの罪を自覚しており、それを赦して下さるお方を探し求めていたのです。38節に「後ろからイエスの足もとに近寄り」とありますが、当時のユダヤでは、フォーマルな食事に招待された客は、出された料理を前に、足を延ばして横になり、左ひじで体を支え、右手を自由に使えるかっこうで、料理を取って食べました。日本人のわれわれから見ると、すこし行儀が悪いと思われる姿勢ですね。しかし、それがフォーマルな食事のとり方だったのです。この女性がイエスの足元に近づいたのは、テーブルの前で横たわっているイエスに触れるのに、足が一番近かったからでした。この彼女の行動は、厳格なファリサイ派の人々の目には、とんでもなく非常識な振舞でありました。と申しますのは、ユダヤの婦人にとって神を結ばずに人前に出るのは、無作法もはなはだしいことだったからです。結婚の日に、女性はみな髪を結びました。それ以後、髪を結ばずに人前に出ることを決してしなかったのです。この女性が長く乱れた髪を公衆の目の前にさらしたという事実は、彼女にとってこの場面では、イエス以外の人は全く眼中になかったということを示しています。彼女は、それほどに自身の罪の赦し、救いを求めていたのです。

 最初の任地であった神戸教会で、たしか2年目の6月だったと思います。教会の付属幼稚園の主催による講演会が開催され、NHKのテレビ番組にも紹介されたパルモア病院の院長であった三宅廉先生をお招きしてお話しを伺いました。この三宅廉先生は産婦人科の医師でしたが、新生児にとって母親の母乳(おっぱい)がどんなミルクよりもその成長にとって大事だということを訴え続けてきたお医者さんでした。(ちなみに、我が家でも長女はこのパルモア病院で生まれています)たしかに、おぎゃーと泣いて生まれてきた赤ちゃんにとって、お母さんのおっぱいほどすぐれた飲み物はないであろうと思います。その話しが終わったあと、講演会に参加していた一人のお母さんが、先生に質問をされました。ご自分の小さな娘さんのことを打ち明けられました。生まれつき娘の体に障がいがあり、何とかならないでしょうか、と質問されました。先生は、「むずかしいと思う」と答えられ、そのお母さんに、現実を受け止める強い心を持つようにと励まされました。次の日曜日ですが、そのお母さんは礼拝に出席されたのです。その日は、私が説教の担当でした。説教が終わっていつものように信仰への招きをした。すると、彼女が席を立ち、小走りにかけよってきて、私の胸の中に飛びこんできたのです。私はびっくりしました。彼女は、三宅先生の言葉を聞いて、自分も強い心を持とうと決心されたそうです。周りの人の目など気にせず、ただ神さまにすべてを委ね、娘さんとともに前向きに生きてゆこうと決意したということでした。このルカ福音書を読むと、この女のとった行動と、このお母さんの行動が私の中で重なります。救いを求める魂にとって、救われんがために取る行動を人がどう思うかは、どうでもよいことないのです。

 しかし、これを見ていた主人であるファリサイ人シモンは思いました。「この人がもし預言者なら、自分に触れている女が、どんな人が分かるはずだ。罪深い女なのだから」(新共同訳は、「罪深い女なのに」と逆接に訳していますが、原文は順接です)

 本日の聖書が語ろうとするメッセージは、まさにこのシモンの態度の中にあります。ファリサイ人は、自分たちは神の戒め(律法)を守る正しい人間だと信じ込んでいました。ゆえに、他の人の罪を見てはそれ責めますが、自分の罪は認めません。神の前に悪かったと悔い改めることもしません。しかし、そのような態度は間違っているとイエスは言われます。それが、続くたとえから明らかになります。そのたとえはこうです。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」というものです。シモンは答えます「借りた額の多い方(500デナリ借りた人)だと思います(帳消しにしてもらった額の多い方だと思います)」シモンは、自分は50デナリを借りた人間のほうだと思っていたのではないでしょうか。ひょっとすると、自分は神に対して負い目(負債)などないと思っていたかも知れません。だから、この女性を見てこの女は罪深い人間だと指さすことをしているのです。しかし、考えてみてください。シモンの罪は小さくて、この婦人の罪は大きいのでしょうか。そうではありません。およそ、神の目から見れば、50500も変わらないのではないでしょうか。問題は、罪に対する意識なのです。

 ある少年院に務め始めた、大学を出たての教師がおりました。彼は、はじめのころは正義感に燃え、一所懸命に働いたのですが、少年たちは少しも自分を慕ってくれないし、また素行が良くなるわけでもありませんでした。彼は、次第に仕事に対する熱意を失い、ついには、どこか事務的に、おざなりに少年たちと関わるようになってしまったといいます。そのようなある日の夜、大変悪いことをした少年を前にして叱り、思わずその子を思いっきり殴ろうとしました。ところが、振りかざす拳を少年がよけた結果、拳が後ろの柱に当たり、大きなケガをしてしまいました。この教師は、その後部屋に帰って治療をし、休んでいたといいます。すると、その晩の遅くに先ほどの少年が部屋を訪ねてきて言いました「先生、手の方は大丈夫かい?」この言葉を耳にした時、この若い教師は悟りました。自分はこの子たちを愛していると思っていたが、それは傲慢の変形でしかなかったということです。今、こうして自分の方が心配され、愛される立場になった時、教師だからというのではなく、一人の人間として、自分は子どもたちの前でもっと謙遜にならなければならないということを悟ったというのです。他人事とは思えない話です。こう考えると、私たちの抱える罪とは、自分は正しい、自分は第一だと思う心の持ち方、すなわち自己絶対化の罪ではないでしょうか。だから、まるでシモンのように、自分のことは棚にあげて、人の欠点や罪に対して厳しく当たることになるのです。

 しかし、この婦人を見てください。彼女は「後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」のです。汚れた客人の足を洗うとは、当時、奴隷のする仕事でした。しかも、それを手ぬぐいではなく、自分の髪の毛で行ったのです。彼女は最初から最後まで、ひと言も語っていません。しかし、その行動からは、彼女の罪意識の大きさが見てとれます。その実を低くして身振りは終始一貫して控え目ですが、その捧げものは大きく、かつ高価でした。イエスはシモンに言われます。「この人を見ないか。」原文は「あなたはこの人が目に入っていますか」と書かれます。シモンはこの女性をまともに見ていなかったようです。「あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。」オリーブ油は歓迎のしるしでありました。罪の意識の大きい人は、神さまに対する愛も大きいということです。私たちは、神さまの前で誇るべきものを何一つ持っていません。しかし、私たちが何も持たず、霊的な乞食であることを知る時に、私たちは、神の愛を受け容れ、そのまま神と人を愛することができるようになるのです。私たちには高価な香油はありません。しかし、神の求めるささげものは打ち砕かれた霊であると、詩編51篇でダビデは言います。まず、神の前に謙遜になることから始めましょう。

 こうして最後47節でイエスは言われます。「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」神さまから多くを赦されていることを知る時、人は多くを愛することができると主は言われます。50500かを比べ合うのではなく、神の前に単独者として立ち、神さまから赦されていることを、深く悟る者になりたいのです。罪人の赦しのあるところに、キリストの十字架が立っています。そこから、キリストの愛をいただく信仰が生れるのです。

 

お祈りいたします。