栗ヶ沢バプテスト教会 2024-07-21主日礼拝説教

神の威光を仰ぐ」詩編81-10

木村一充牧師

 この朝は、旧約聖書の詩編第8編を与えられた聖書箇所として、御言葉(みことば)から聞いてまいります。この詩編は礼拝の交読文としても採用されている詩編で、皆さまもこれまで何度かこの箇所を読み、あるいは耳にしたことがおありかと思います。この詩の構成を見てみますと、まず1節で、この詩の短い紹介がされます。この詩は、指揮者の指揮によって歌われた賛歌、つまり賛美歌であったということです。イスラエルの民は、神殿で礼拝をささげる際に、会衆をリードする指揮者のもとで、詩編にメロディーをつけて歌いました。1節に「ギティトに合わせて」と書かれていますが、その正確な意味はよく分かりません。紀元1世紀ごろに編纂された旧約聖書のギリシャ語訳聖書である七十人訳聖書によると、ここは「ブドウしぼりの歌に合わせて」と訳されています。ギティトとは、秋の収穫の時期に摘み取ったブドウの実を酒舟で踏む時に、民衆たちが歌った民謡のような歌を指すのかもしれません。これに続く2節前半の主を讃える言葉は、この詩の最後の10節とまったく同じ文章です。イスラエルの英雄ダビデの名を借りた詩人は、ここで「主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。」と告白しています。この、主なる神であるヤハウェの栄光を褒め讃える言葉を、まったく同じ文言で冒頭と終わりに置き、2節の後半から9節までの詩文を、サンドイッチのようにその中に挟む構造にしているのです。「神の御名は全地に満ちている」という言い方からは、主なる神の影響力がイスラエルだけでなく全世界に及ぶことが告白されています。この詩が書かれた時代の西アジア諸国の人々にとって、神とは何よりも自分たちの民族の神でした。つまり、おのが民族、おのが国家を守ってくれる最高の力の持ち主、それが自分たちの神だと信じていたのです。ところが、ここで詩人は主なる神の名前が全地に満ちることを願っています。神の威光と尊厳が、ひとりイスラエルの国家だけでなく、全世界に及びますようにと願っているのです。イスラエルの神、主の栄光は、限られた人の上にだけ輝くものではないと言っているのです。

 では、二つの同じ神賛美のあいだに挟まれている2節後半から9節までの詩文で語られている内容は、何でしょうか。それは、大きく二つあります。一つは、天地すべてのものを造られた主なる神が、圧倒的に偉大なお方であるということです。二つ目は、その神の偉大さに比べたら、取るに足りない弱く小さな存在でしかない人間が、神の特別な顧みの下で造られ、地上における神の支配の代行者とされているという現実です。神の創造の冠としての人間に、神はそのような特権を与えました。それは、人間が創造の秩序に基づき、神がお造りになったすべてのものの良き管理者となることを神が期待しておられるからです。詩人は、ここで天地万物の創造主である神の偉大さと、その神の意志にしたがって世界を秩序正しく治める人間の使命と責任を、二つ並べて強調しているのです。しかし、詩人はその人間と神との関係が決して創造の始めにおいてそうであったような「それははなはだ良かった」と言えるようなものではなくなっていることを悟っています。だからこそ、人間が正しい信仰を持つことによって神との関係を回復し、本来の職務を十分に行うことができる者となってほしいという願いを込めて、この詩を書いているのです。

 以上のことを前提として、3節以下を読んでゆきましょう。「幼子、乳飲み子の口によって。」という文章が、いきなり宙ぶらりんのかたちでここに登場しますが、ここは「幼子、乳飲み子の口に、あなたは力を与え、敵に備えたもう」と訳すべきだと関根正雄氏は言います。幼子や乳飲み子は人間の中でもっとも弱い者の代表です。そのような弱い存在である人間に、神さまは力を与え、敵の攻撃から身を守ってくださると、詩人は言うのです。私事ですが、いよいよ今週の火曜日に入院し、水曜日に足の手術を受けます。本当はイヤで嫌でたまらないのです。だから、これまで手術を受けずに先延ばしにしていました。ただ、私が足を引きずりながら歩いているのを見て、かつて私がバプテスマへと導いたある婦人が言うのです。なぜ早く手術を受けないのですか、と。痛いのがイヤだからです、と答えると「先生は、神さまは耐えられないような試練はお与えにならないと聖書に書いてあると、教えてくださったではありませんか。何を恐れているんですか。早く手術を受けなさい」と言いました。私の面目は丸つぶれです。神さまが守ってくださる!それを信じて強くなりなさい!乳飲み子、つまり赤ちゃんさえも神さまは守ってくださる。砦を築いてくださる。何を恐れているのか。本日の聖書の言葉を信じて、私は手術に向かおうと決意しております。

 続く4節を読みます。「あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。/月も、星も、あなたが配置なさったもの。」パレスチナは空気が乾燥しており、今でも夜の天体の美しさは格別です。天文学という学問がおこったのは古代バビロニアやエジプト文明の時代まで遡ると言われますが、天文学を意味する英語のastronomyは、星を意味するアストロンと法則を意味するノモスが結びついてできた言葉です。雨の少ない西南アジアやアフリカは、天体観測には絶好の場所だったわけですね。詩人はいま、昼の太陽の日差しではなく、夜の月、星を眺めてその美しさに心を魅せられています。「指の業」とありますが、これは、神が、ご自身の創造のわざをおこす拠点という意味です。そう言えば、子どものころ夏休みに毎晩のように見ていた北斗七星やカシオペア座を、私はもう何年も見たことがありません。大学生時代、東京出身の友だちを夏休みに何人か四国の我が家(実家)に招いたことがありました。ちょうどその時、我が家はお風呂の改修工事中で、それまでの五右衛門風呂からガスぶろに替える工事の最中でした。それまで使っていた五右衛門風呂が、家の前の庭に煉瓦やセメントで固定されて置かれていました。そこで、友人たちのために私がお風呂をわかして、露天風呂を体験させてあげたのです。そんな経験をしたことはないものですから、彼らはとても喜びました。しかし、彼らがお風呂以上に感動したのはその時見た夜空でした。ちょうど天の川が空一面に広がり、私自身も見たことが無いような美しい天の川がそこにありました。それは私のそれまでの人生で、一番美しい天の川でした。まるで、こぼれるような無数の星が天空にちりばめられているありさまを見て、このような美しい星をこれまで見たことが無いというのです。その星や月を配置されたのは神さまだと詩人は言います。そのような宇宙の広大さに比べると、私ども人間がいかに小さく弱く、ほんの数秒の鑑賞にも堪えないような存在であることかを思わされるのであります。

 そうして、これに5節と6節の言葉が続きます。「そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。/人の子は何ものなのでしょう」このあとに続く詩人の言葉は、おそらく次のようなものでしょう。私どもは、あなたの偉大さ、全能者であるあなたの前では、まことに取るに足りない、無きに等しい存在でありますのに…。しかし、神の前で何者でもない私ども人間であるにもかかわらず、詩人は続く6節で「神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ」たと言います。これが、本日の聖書の最大のメッセージです。主なる神は、ご自身の似姿として人間を造られました。人間はしばしば神に背き、罪を犯しては神の御心(みこころ)に反する行動を取ります。しかし、そのような人間であるにも関わらず、神さまはご自身の栄光と威光を人間に冠のように授与して、すべての被造物を治めるように人間にその管理を委ねたというのです。人間の責任は大きいと言うべきでしょう。

 使徒パウロはローマの信徒への手紙8章で「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志による」もの、(つまり神の意志によるもの)だと言います。それに続けて、「被造物だけでなく、“霊”の初穂、つまりキリストを知っているわたしたちも、神の子とされることを待ち望んでいる」というのです。私たちが本当の意味で、神の子となる。すなわち、神の前に乳飲み子のように従順になり、おのが力、おのが知恵によらず、神の御意志にしたがう者となること、それが管理者としての人間の使命であり、また責任であると詩人は述べるのです。

 今から10年以上も前になりますが、プラネットアース(惑星としての地球)という地球環境を題材としたNHKの番組を見ました。イギリス、アメリカの放送局と共同で地球の各地をめぐりながら、そこで生きる生物たちを取材、制作したシリーズのドキュメンタリー番組です。たとえば、ある回では南極の皇帝ペンギンの一生を題材としています。誕生から次の世代へと命をつなぐまでの期間、彼らに張り付いて観察し、その行動内容をカメラでとらえたものです。感動なしには見られません。南極の吹雪の中で、何千、何万というペンギンたちが体を寄せ合って寒さに耐えて厳しい冬を過ごします。この間に、メスが卵を産み、それをオス、つまり父親が温めるのです。母親はオスが卵を温めているその間、エサを求めて海に出ます。そして、お腹にエサをいっぱい貯めて帰ってくる。父親は、「ここにいるよ」というかのように、泣き声を出して合図します。そして出会い、ヒナをバトンタッチで母親に渡す。(10秒以内に渡さないとヒナは凍え死んでしまいます)今度は母親がヒナを温め、代わりに父親が自分とヒナのために海に出て、胃にエサを詰め込んで帰ってくる。そして母親と交代する。こんなことを23度繰り返してヒナを育てるのです。わたしは、この場面を見ながら、もしかしたら人間はペンギンに負けているかもしれないと思いました。幼児虐待、子どもの貧困、育児放棄などの悲しいニュースがしばしば報道されます。しかし、冬は氷点下40度にも達する南極の厳しい自然に比べたら、日本の気候や自然環境は、まるで天国のようではありませんか。私たちはペンギンに負けてはなりません。

 創世記1章によれば、神は御自分にかたどって人間を造られたと書かれています。英語では in the image of Godと書かれます。神のイメージ(像、印象)に似せて人間が造られたとは、人間だけは神を心のうちに思うことができるということでしょう。ギリシャのある詩人は「多くの力強き者が存在する。しかし、人間より力強い者は何もない」(ソフォクレス)と言いました。しかし、詩編8編の作者はそうは言いません。むしろ、人間の弱さの中に神の力が現れる。造られた者としての貧しさの自覚において、神の前の人間の尊さと責任があらわにされるというのです。その意味で、この詩は十字架の低みにおいて、神の栄光と勝利をあらわされたイエス・キリストの姿を指し示しています。私たちもまた、みずからの弱さや卑しさを認めつつ、しかし、そのような者の上に注がれる神の恵み、慈しみの大きさを感謝し、神から託された良き管理者としてのつとめを担うことの大切さを思わされるのです。

お祈りいたします。