栗ヶ沢バプテスト教会

2024-08-11 平和祈念礼拝説教

善をもって悪に勝つ

ローマ12: 19-21

木村一充牧師

 

 今年もまた敗戦の月、8月がやってきました。わが国がポツダム宣言を受諾し、連合国に無条件降伏することを決定したのは1945年の8月のことでした。あの時から79年という長い年月が経過したわけです。それゆえに、先の大戦を実際にその体で体験し、今それを私どもに語り伝えることができる「戦争の語り部」たる人も少なくなってきました。しかし、どれほど年月が経とうとも、この国と世界が経験したあの第二次世界大戦の悲惨さ、傷跡は消えるものではありません。815を今週の木曜日に迎えるに当たり、あのような戦争を日本と世界が二度と繰り返さないために、私たちが聖書から読み取るメッセージを、この朝皆さまと共に分かち合いたいと思います。

 本日お読み頂いた聖書箇所、ローマの信徒への手紙12章の17節でパウロは「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」と述べています。「悪に悪を返す」とは「やられたらやり返す」ということです。これが世の中の常識です。実際、福音書が書かれたとみられる紀元1世紀の終わりごろ編纂されたマタイ福音書の5章にも「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。」という主イエスの言葉があります。誰かから害悪を受けた場合、他人から何かの被害を被った時に、受けた害悪と同等の害悪をもって相手に報復しなさいというのが、当時の刑法原則でした。これは有名なハムラビ法典の一条文だと言われています。このような条文は、古代における野蛮な刑罰を象徴するものだと考えられてきましたが、本当はそうではないのです。つまり、この規定は、倍返しのような過剰な報復を禁じる条文であり、同等の報復に留めておくことで際限のない報復合戦を防ぐという積極的な狙いがこの中にあるのだ、というのがこの法律の正しい解釈です。このハムラビ法典は、罪刑法定主義という刑法の根本的な原則、つまりどのような行為が犯罪に当たるのか、またそれに対する処罰はいかほどにすべきか、の両方に関して、それら決めるのは法律だという近代刑法の原則の生みの親になったと言われているのです。つまり、ハムラビ法典の定めは、この当時、諸国民の手本となった法律だったのです。

 ところが、本日のローマ書で使徒パウロはこの「同害報復」の定めを否定し、悪に対して善をもってこれに応えなさいと勧告するのです。これは多くの人にとって非常識な言葉であり、浮世離れした教えと思えることでしょう。しかし、キリスト者はこの聖書の教えに立つように求められているのです。それはなぜか。それは、罪深い人間は自分が受けたものと同じだけ仕返しをする、と言ってもそこに人間の思い、罪の思いが入りこんでくるからです。今回のイスラエルとハマスとの戦争、ガザ地区への空爆の原因となった事態を思い起こしてください。最初のころ、去年の10月始めに報道されたことは、ハマスによるイスラエル人の人質問題でした。しかし、人質問題は氷山の一角にすぎません。問題の根底にはパレスチナ問題、すなわち、1947年のイスラエルの建国とそれによるパレスチナ原住民との争いという現実があります。加えて、イスラエルとアラブ諸国との間の民族的、宗教的な対立があります。1947年以来、何度も戦われた中東戦争は、今なお終わっていないのです。ハムラビ法典は、同害の報復を定めることで、際限のない争いが終わることを目論見ました。しかし、同害報復の法律では、戦争は終わらないのです。

 イエスというお方もそのことを十分に分かっておられたはずです。先ほどのマタイ福音書の5章で『目には目を、歯には歯を』という言葉を紹介されたあと主は言われます。「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」右の頬を打つとは、平手打ちを受けること、つまりビンタをされるということです(方言ではないですね)。先週の祈祷会でも言ったのですが、多くの人は右利きですから、誰かがあなたの右の頬を打とうとすると、手のひらを翻して打つか、または手の甲で打たねばなりません。恐らく後者でしょう。つまり、手の甲で打つことで相手を侮辱するのです。ところが、主イエスはそうやってあなたの右の頬を打たれたら、次は左の頬も出しなさいと言われました。今度は手のひらを使った強烈なビンタを受けることになります。みなさん、そんなことが出来ますか?イエスは、ここで何を言われているのでしょうか。多くの人はここで「非暴力」が語られていると解釈します。しかし、そうではない。抵抗の放棄がイエスのメッセージではない。悪に対して抵抗しないというのではなく、さらに相手に悪を起こさせる機会を提供することで、逆に、その悪を飲み込もうとすることが言われているのです。受身的、受動的な忍耐ではなく、悪を背負いこむことで相手に不正や悪を断念させる、そのような積極性、能動性が語られているのです。つまり、不正に対するお返し、返礼を正義の行為で指し示すことによってするというのです。

 それは人間の領域を超えていることでしょう。あの十字架の上で、自分を罪に定めた人々を前にして「父よ、彼らを御許しください。彼らは自分が何をしているか分からないのです」と祈られたとように、罪を犯した人のために祈るというキリストの姿が思い出されます。自分が被った害悪に対して、復讐することで解決するのではなく、善をもって悪に報いるということ。平和を実現するために、ただ忍耐するということ以上に、善なること、良いことを示して、相手を変えていきなさい、とイエスは言われるのです。教会はこれをするために、武器をもって戦うのではなく、祈りで戦うことを2000年間続けてまいりました。

 平和を作り出すために何が大切なのでしょうか。それは、私たちの正しい判断力、良心(conscience)を研ぎ澄ましておくということだと思います。それに基づいて行動するのです。この「良心」について、NHKの番組『心の時代』に登場した小塩節というドイツ文学者の話をして、本日のメッセージを終えることにします。小塩さんのお父さんは松本で牧師をされていた方でした。小塩さんは東大で学んだのち、ドイツに留学し、勉強の合間にダッハウというナチスの強制収容所を訪ねたといいます。そこで、深くドイツに失望しました。もうドイツ語の勉強なんかやめてしまおうと思って荷物を片付けようとしていた時、ちょうど同じ時期にドイツにいた海老名弾正牧師の娘さん(だったと記憶しています)から誘われて、日曜日の午後、教会の礼拝に出席したというのです。その夕礼拝で、講壇に立った平信徒の説教に心を打たれました。その人は、ナチスの時代にドイツがやった悪行のすべてを、自分たちドイツ国民がやった事柄と捉えて、悔い改めを呼びかけるメッセージでした。講壇に立った人物は大学教授でしたが、何とその人自身、かつては牧師として、ナチスの政治に反対し、強制収容所に入れられたことのある人だったというのです。小塩さんはそこでドイツ人の良心というものに触れ、もう一度ドイツ語を学び直そうと、改心したというのです。

 これを聞いて、私は深く感動いたしました。先の大戦で、かつてわが国がアジアの国々に対してやったことも大変な暴力であったに違いありません。そのことを私たちは忘れてはなりません。戦争の被害者としての側面ばかりが報道されますが、加害者であったことも事実です。その事実をしっかりと認識し、正しい判断力と良心を身に着けることが大切です。イエス・キリストを信じる信仰に基づき、人間の思いではなく神による平和がこの世界になるよう、祈り続けてゆきましょう。

お祈りいたします。