栗ヶ沢バプテスト教会

2024-08-18主日礼拝説教

一羽の雀さえも

マタイ102831

木村一充牧師

 

 人生の歩みの中で、私たちはしばしば何かを恐れたり、不安を抱いたりすることがあります。たとえば、入学試験を間近に控えた受験生にとっては、首尾よく志望校に合格出来るかどうかは大きな不安の種でありましょう。もし、志望校に落ちたらどうしようか。それは小さくない問題です。また、社会人であれば、自分に与えられた仕事できちんとした成果が出せるかどうか、職場の人間関係をうまくこなしながら、チームの一員としてよいパフォーマンスを生み出すことが出来るかどうかが、大きな課題であることであろうと思います。一方、仕事を離れたプライベートな面でも、家族や友人関係について悩むこともあるでしょう。要するに、私たちは日々の生活の中でさまざまな不安や恐れを抱きつつ、それと向きあいながら生きているわけであります。

 しかし、本日お読み頂いた聖書の中で主イエスは「恐れるな」と語っておられます。このイエスの言葉は、主が12人の弟子たちを伝道の現場に送り出された時に弟子たちに向けて語られた言葉です。弟子たちをそれぞれの生活の場に送り込み、そこで主イエスが語られた救いの言葉、福音を語り告げるように促す際に、主イエスがもっとも心配なさったのは、弟子たちが怖がって伝道ができなくなることでありました。彼らを取り囲む人々には、まずは自分たちこそ神に選ばれた民であり、聖なる律法を与えられた特別な民族あるという誇り高きユダヤ人たちがおりました。次には、かつて地中海世界を学問と知識においてリードしていたギリシャ人や、また当時圧倒的な武力をもって地中海世界を制圧していたローマ人がおりました。そのような人々を前にして、イエス・キリストの福音を証しすることはたいへん困難なことであったに違いありません。しかし、主イエスは弟子たちに言われます。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」つまり、彼らが伝えようとする神の言葉は、真実であるということです。救いの言葉は、人に隠れ、陰でこそこそと伝えるようなものではないのです。だれかれを恐れることなく、大胆に自信をもって自分が信じ思うところを語り伝えなさいと主は言われる。臆病になってはいけないとイエスは言われるのです。なぜ、恐れてはいけないのか。それは、救いの問題は一人一人の存在そのもの、その人の魂の平安と深く関連した事柄だからです。神さまに対する信頼が心の深いところで揺るぎなく確かにあるとき、何を恐れる必要があるでしょうか。

 思い起こせば、信仰が与えられる前の私は、さまざまなことに対して不安を抱きっぱなしの日々を過ごしていました。どうやって生きていくべきかがわからなかった。自分に自信がないわけですから、周りの人を幸せにできるという自信もない。すべてにおいて中途半端で、不確かな手探りの日々を過ごしていたのです。しかし、信仰を与えられてからの私は、生きるうえでの目標、自信が与えられました。それは、すべてを主にお任せすれば、神さまは悪いようにはなさらないという確信です。本日の説教の冒頭に申し上げた恐れや不安についても、信仰があれば考え方が変わるのではないでしょうか。たとえ、受験で志望校に落ちたとしても、その学校でなければあなたの人生が真っ暗ということは、絶対にありません。たとえ、彼女あるいは彼氏に振られたとしても、他のいい人を見つければいいじゃないですか。また、たとえ仕事でうまくいかなかったとしても、切り替えて次の場面で頑張れればいいじゃないですか。

 「学問のすすめ」という本を書いた福沢諭吉という人は、別の本で男子にとって一番の幸いは一生をとおして一つの仕事をやり通すことができることだと述べたといいます。(今の時代は、男子も女子もないかもしれません)しかし、私はどのような仕事にどれくらい長くつくかということは、今の時代はこだわらなくてよいと思います。むしろ、大切なことは、どのような仕事に就こうとも、そこで自分が輝くことです。自分が輝くためには、夢や目標が必要です。仕事はあくまでも、その夢や目標をかなえるための自分の主体的責任で選び取るステージであります。今から40年余り前に、大学を卒業して西南学院の神学部を受験し、牧師として立とうと決意した時、そのことを勧めてくださった出身教会の松村秀一先生から「木村君、献身は男のロマンだよ」との言葉を頂きました。今の時代、この秀一先生の言葉は、語弊があるかもしれませんが、ロマンという言葉を聞いて心が奮い立ったことを思い出すのです。牧師の仕事に果たしてロマンがあるのか、信仰をもたない人はおそらく否定的でしょう。しかし、どのような困難な事態がおころうともそこに神の民と教会があれば、神さまはそこで驚くべき御業(みわざ)を起こしてくださいます。神学校時代に1年ずつ3つの教会を経験し、牧師となってからさらに3つの教会を経験しましたが、そこに神さまの憐れみと驚くべき神の愛の出来事を経験しなかった教会はひとつもありませんでした。「恐れるな。」と主イエスは言われます。たしかに、その通りです。恐れるべきお方は神お一人です。それ以外は恐れるに足りません。本日の31節で主は3度目に「だから、恐れるな。」とおっしゃっている。神さまを恐れることを知っている人は、それ以外のものは怖くないのです。死さえも怖くない。逆な見方をすれば、もしも私たちが「あれが怖い。これが怖い」と何かに対して常に恐れや不安を抱いているとすれば、それはまことの神を恐れることを知っていないということです。信仰をもっているのに、他方で不安や恐れをもって生きるということは自己矛盾ではないでしょうか。私たちは、何よりも先ず心から神を恐れることを覚えたいと思うのです。

 ここで注意すべきは、「恐れるな。」という主イエスの言葉は、私たちにやせ我慢を勧めているのではないということです。だれもが恐怖を抱き、膝ががくがく震えるような場面で、それをあたかもないことのように思って我慢しろ、とおっしゃっているのではありません。「とにかく頑張れ。強くなれ」と言われているのではないのです。そうではなくこの言葉は「慰め」の言葉です。私たちの生(せい)を足元から揺さぶるような出来事、ピンチに直面した時、そのような私たちを慰め、励ます主の言葉として「恐れるな。」という言葉が語られる。それは、旧約聖書の預言者イザヤが民に語りかけた次の言葉がと同じです。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。/あなたはわたしのもの。/わたしはあなたの名を呼ぶ。」(イザヤ431)どんな時にも、私があなたと共にいる。だから、あなたは一人ではないということです。

 本日お読み頂いた箇所の28節でイエスは言われます。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」たしかに、人間は暴力をもって肉体的には人を殺すことができます。しかし、その人の魂まで殺すことはできません。明治期に自由民権運動の旗手として活動した板垣退助という人が、ある時暴漢に襲われて死の危機に瀕した時、「板垣死すとも、自由は死せず」という言葉を言い残したといいます。たとえ、個人の肉体は死によって葬られても、その心の中にある信条や思想までは殺すことはできないのです。キリスト者とは、地上のどんな力や権力を恐れることなく、ただ神のみを信じる信仰に生きる存在です。この神だけが、魂を滅ぼすことがおできになるのです。「だから、恐れるな。」とイエスは言われます。恐れなくてよいように、神さまはこまかな点まで十分に配慮してくださるのです。その証拠として、主イエスは二つのものを例として挙げながら説明してゆきます。一つは「一羽の雀」そしてもう一つは「一本の髪の毛」です。

 一つ目の雀ですが、みなさん雀をご存じですよね。少年時代を香川の田舎で過ごした私にとって、雀が群がる場面は、ほとんど風景の一つでありました。稲の刈り入れの季節になると、こぼれたもみ殻をねらって電信柱に雀が大挙しているのです。その雀を、レンガで仕掛けを作ってつかまえたこともあります。焼き鳥にしたりはしません。そのまま逃がしてやるのですが、体温のぬくもりが手に残るのです。しかし、イエスの時代のパレスチナで雀は食材として売買されたようです。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。」とあります。1アサリオンとはデナリの16分の1、数百円です。並行記事であるルカの12章をみてください、6節です。(131ページです)ルカでは「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。」とあります。ルカの方が安いですよね。つまり、もう1アサリオン追加して2アサリオン出すと、5羽買えたというのです。ここで、5羽目はおまけです。それくらい、価値の低い、ただのサービス品として扱われた雀、「その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」と29節にあります。しかし、ギリシャ語の原文はそうではありません。原文は「その一羽さえ、父なしには地に落ちることがない」と書かれているのです。つまり、その一羽の雀が死ぬ時にも神が共にいてくださるというのです。一本の髪の毛についても同様です。私も妻から「あなた、髪の毛がずいぶん薄くなってきたわね」と言われてひそかに傷ついていますが、たった一本の髪の毛さえも神さまは数えていてくださるとイエスは言われる。一羽の雀、一本の髪の毛、どちらも取るに足りない小さなものですが、神さまはそれらをしっかりと目に留め、顧みてくださいます。ましてや、雀以上の存在である私たち人間を、神さまがお見過ごしになるようなことはない。だから、その命を御手(みて)の内に治められる神さまの憐れみと力を信じて、多少の困難や試練に遭っても、うろたえず恐れるなと主は言われるのです。

 本日の礼拝では、聖歌隊の賛美に『一羽の雀』が歌われました。何年か前、スウェーデンの歌手であるレーナ・マリアさんが来日したとき、西武池袋線の練馬駅の前にある練馬公会堂でコンサートを開いたことがありました。レーナさんは生まれつき両手がないというハンディをかかえておられる歌手の信仰者ですが、彼女はコンサートの途中で、何度も“I am happy.”という言葉を口にしていました。うそじゃないのです。心から喜んでいるのです。そのレーナ・マリアさんが得意としておられる賛美歌に、今日の賛美歌『一羽の雀』があります。その賛美も素敵な賛美なのです。私たちは、神さまから一羽の雀以上に覚えられています。そればかりか、神さまは私たちの名前を呼んでくださっているのです。そのことを覚えながら、日々を感謝して歩みましょう。「だから、恐れるな。」一羽の雀さえも顧みたもう神は、雀以上の存在であるあなたを愛し、あなたの人生を責任をもって持ち運んでくださるのです。

お祈りいたします。