栗ヶ沢バプテスト教会

2024-08-25主日礼拝説教

主にあって強くなりなさい

エフェソ61018

木村一充牧師

 

 本日の聖書箇所であるエフェソの信徒への手紙は、使徒パウロが第2回伝道旅行で最後の訪問先であるアジア州の都市エフェソで、開拓伝道によって立ち上げた教会の信徒たちに向けて、書き送った手紙です。このエフェソは、もともとギリシャ人によって立てられた植民都市でありました。このエフェソがパウロのアジア伝道の拠点となったのであります。ただ、この手紙が書かれた当時の小アジアには、さまざまな思想やキリスト教と異なる哲学が生まれ、教会の中は信仰的な混乱が生じていました。もともと、エフェソはアルテミスという豊穣の女神を祀る神殿が建てられていた町でありまして、地中海世界の各地からこの女神を拝むために多くの参拝客が訪れていました。すなわち、偶像礼拝が行われていたのです。その神殿には大勢の神殿娼婦たちがたむろし、風紀的にもたいへん乱れた都市でありました。それに加えて、紀元1世紀の半ば以降、ローマ帝国によるキリスト教徒への迫害も厳しくなっていました。そのような困難な状況下で、信仰の戦いを続けている信徒たちにむけて、パウロはこの手紙を書き送ったのです。この手紙が書かれた時代の少しあと、紀元1世紀の終わりごろに書かれたヨハネの黙示録にもこのエフェソの教会が登場します。すなわち、パトモス島に流されていた使徒ヨハネは、そこで天上のキリストからの声を聞き、小アジアにある七つの教会に主からのメッセージを巻物に書いて書き送るように命じられます。その最初に「書き送れ」と命じられた教会がエフェソの教会でした。「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」と黙示録には記されています。人々の間で、初めのころの愛が冷え、礼拝に参加する熱意もなくなり、下手をすれば教会から離れてしまいかねない。エフェソの教会の信徒たちは、そのような霊的な危機状態に陥っていたのであります。

 そのエフェソ教会の信徒たちに、パウロは本日の箇所610節でこう言います。「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」「主に依り頼み」と訳されている原文は単純に「主にあって」と書かれています。また、「その偉大な力によって」とある箇所の原文は「その力強い力によって」と書かれています。そして「強くなりなさい」は、受身形の動詞が命令法で書かれています。「強くされなさい」と訳すほうがよいでしょう。自分で強くなるというのではない、主にあって強くされるようにと言うのです。キリスト者の信仰の強さは、自分から濡れた雑巾から水を絞り出すように、自分から力を振り絞るのではありません。主イエスにあることから、すなわち主に繋がっていることから来るのです。私自身の出身教会である常盤台教会で、長く教会の役員を務めた私が尊敬するある方は、少年時代に松村秀一先生から教わった「どんなことがあっても、教会から離れてはいけない」という言葉をずっと忘れることがなかったといいます。その言葉に愚直なまでにその方は忠実に従いました。それが、その方の信仰の強さを養い育てたのであります。

 しかし、このエフェソの手紙は、なぜ最後の最後で、このように「強くされなさい」と言うのでしょうか。礼拝で語られる説教もそうです。最初に説教者が語る事柄よりも、最後に語られる内容の方が大切である場合がほとんどです。すなわち、この最後に語られている内容こそ、この手紙が何のために書かれたかを指し示しています。なぜ、強くなれとパウロは書いたのか。それは、信仰生活はこの世の誘惑と試練につねに脅かされているから、つまり信仰生活とは戦いだからです。13節に「だから、邪悪な日によく抵抗し」という言葉があります。今、政府与党内では新たな党首、総裁を選ぶための選挙を来月に控えて、これまでにない多数の候補者が名乗り出るという状況、いわゆる候補者乱立の状況の中にあります。その背後には、巨額な裏金問題と政治の刷新の要請がありました。パーティーなどで集めたお金を政治資金として会計報告しない。どこからどこまでが個人のお金で、残りのどこまでが公金なのか。入口も出口も不明朗なままで、数千万、下手をすれば億単位のお金が、「選挙のため」という名目で領収書なしに乱れ飛ぶ。この国で、国会議員の選挙でこれほどお金がかかるのは、結局のところ私たち国民がそれを求めているからではないでしょうか。選挙でお金がかかるのは当然だという見方が常識となっているのが、残念ながら今のこの国の実情であります。そのような政治を(はた)で見ながら、若者たちはこの国の政治にほとんど期待していません。先進国(G7)の中で、日本人ほど納税に対する嫌悪感、あるいは否定的な感情を持っている国民はないといいます。税金に対する理解や評価が低いという現実は、ほめられた話ではないでしょう。キリスト者もまた、このような状況のなかで日々の生活を暮らしています。神の国は、いまだ完全なかたちで到来しているわけではありません。神の国が来ていないということは、私たちが本日のエフェソ書が言う通り「邪悪な日々の中での戦い」を、なお戦ってゆかねばならないということです。

 この戦いの特徴が、続く12節に書かれています。12節「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」と言っています。「血肉」とは一人一人の具体的な人間のことです。教会に生きるキリスト者の戦いは、そのような人間、具体的な個人を相手にする戦いではありません。そうではなく、その人間を動かす背後の力、「暗闇の世界の支配者」「天にいる悪の諸霊」を相手にするものなのです。

 11節で「悪魔の策略」という言葉が登場しています。悪魔とは何でしょうか。私たちは、しばしば頭に角の生えた、あの人間の格好をした意地悪そうな顔をした悪魔の姿を思い浮かべますが、悪魔そのものが地上に存在すると聖書は書いていません。むしろ、サタンがだれだれの心の中に入ったと書くのです。その意味で、悪魔=サタンとは、私たちの中にある悪意が人格化したものだと考えたほうが良いでしょう。悪意というと抽象的なものですが、その悪意が人格化すると悪魔になるのです。旧約聖書のヨブ記を読むと、サタンが主なる神の相談相手になって、み使いたちの会議に出ている場面が描かれています。そうすると、サタンもみ使い、=神の子に近い存在だということになります。しかし、天使たちと違って、サタンは眼力が鋭い分だけ、悪意を持って物事を判断するのです。あの人はうわべでは人当たりがよく、評判のよい人格者のように見られているが、裏ではこうだろうと悪意をもって人を見るようになる。こうして、サタンが悪魔になるのです。かつて、サタンとは堕落した天使のことだと言われました。確かにそう表現することもできるでしょう。サタンも神の手の内にあるからです。それゆえに、神の国が到来するまでは、人間を脅かす「悪魔的な力」がこの世で作用することを、私たちは厳粛に認めねばなりません。人間の理性や科学、あるいは文明の力によって、この世のすべての問題が解決するというような楽観主義、科学万能主義では、人間の罪の問題は解決しないと聖書は見ているのです。実際、この世の中で起こるさまざまな事件や戦争を見ていると、人間の理性や知識が高められ、また科学や文明がどれほど発展・進歩しようとも、人間そのものが抱えている罪の現実は、2000年前と少しも変っていないように思うのです。相変わらず、人間は自己中心であり、隣人を愛することができず、互いに高め合うことなく、自分さえよければ人はどうでもいいというような行動をとっている。ロシアとウクライナの関係、イスラエルとハマスとの関係をニュース番組で見ていても溜息が出るばかりです。しかし、このことは他人事ではありません。私たちもまた、隣人との関係において自己主張ばかりを繰り返しているのではないでしょうか。信仰をもっていると言いながら、いつもサタンの誘惑に足元を掬われ、自分が神となり神の御心(みこころ)から離れてしまう。まさに、油断も隙もあったものではありません。

 そこで、パウロは14節以下でキリスト者を霊の戦いをする兵士(soldier)として表現しようとします。この戦士が身に着けるものは神の武具です。まず、「真理の帯」を腰につけよといいます。この帯は、兵士の上着をぐるりと巻く帯で、そこから剣をつるし、行動を素早く起こすことができるようにするものでした。次に「胸当て」が挙げられます。敵に剣で切りつけられた時、この胸当てが兵士の心臓や肺を守ってくれました。3番目は履物です。それは敵や障害物を踏みつける堅い軍靴ではありません。そうではなく、他の人々に平和の福音を告げ知らせるために使用される靴、サンダルのような履物でありました。そして、その次が盾であります。古代の戦争で最も危険な武器の一つをみなさんご存じでしょうか。それは、先端に火が付いた矢でありました。矢の先端は、樹脂のしみ込んだ布が矢じりに縛られ、そこに火が点されました。そのような矢が胸や足にささると致命傷にさえなったのです。これを防ぐ防具として、盾がありました。みなさん、かつて過激派と呼ばれる人たちの活動が盛んだったころ、機動隊が出動してこれを制御している場面がテレビで放映されたことを覚えている人がいると思います。火炎瓶などから身を守るために、機動隊はジュラルミンの盾を防具にして身構えながら、過激派を鎮圧しました。パウロの時代もそうでした。火のついた矢から身を守るために、張り合わせた二枚の木材からなる盾を防具として使ったのです。そして、最後は兜です。兜は頭を保護するためにかぶるものです。かつて、自分が救われた事実を決して忘れないように、記憶しておくために、兜で頭を守ったのです。

 キリスト者のこの世における霊の戦いは、このような重装備が必要だとパウロはいいます。神の武具なしに、戦いの前線に出たとしたら、相手からの攻撃で重傷を負って動けなくなるか、命を落としてしまうことさえあります。そのような危険から身を守るために、パウロは霊の剣、すなわち神の御言葉(みことば)を手にとりなさいと述べます。これは、防具ではなく、攻撃用の武器です。キリスト者の信仰の戦いは、定期預金のように一定の期間が経つと満期になり、利子がついて返ってくるような生易しい戦いではありません。そうではなく、日々の戦いです。その戦いに勝利するために、主にあって強くされましょう。イエス・キリストが十字架で勝利されたように、わたしたちも復活の主の力を頂いて勝利の人生を歩みたいと思うのであります。

お祈りいたします。