栗ヶ沢バプテスト教会

2024-09-01主日礼拝説教

主は、わが羊飼い

詩編2316

木村一充牧師

 

 この朝お読み頂いた詩編23編は、旧約聖書の中でも最も有名な詩編の一つです。海外の映画や文学作品の中でも、この詩はとりわけ頻繁に引用される詩であり、とくに葬儀の時には、司祭や牧師によって必ずといって良いほど朗読される聖書箇所です。本日は、この詩編23編を第1週の短い説教の時間のなかで、噛みしめながら読んでまいりたいと思います。

 詩人は、ここで自らを一頭の羊とみなし、主なる神をその羊を導く羊飼いに譬えて、神のなさる御業についての思いを綴ってゆきます。この詩のように主なる神を羊飼いと呼ぶことは、当時の旧約聖書の民の中では、むしろ珍しいことでした。なぜなら、当時のユダヤの社会において、羊飼いという職業は羊という大変手間のかかる動物を相手にして、一年中休むことなく、雨期であろうとも乾期であろうと、雨が降ろうと風が吹こうと、24時間つきっきりで羊の面倒をみて過ごすという生活に耐えることができる人の就く職業であり、安息日に礼拝を守ることもできない、貧しく身分の低い人がつく仕事と見なされたからです。そのような羊飼いを、主に譬えることは勇気がいることでした。旧約聖書のほかの箇所を読むと、主なる神を人格として呼ぶ際には、「王の王」とか「万軍の主」とか「裁き主」という具合に、一般の人が軽々しく近寄ることができない存在として表現されます。或いは、「岩」とか「砦」とか「盾」という具合に、確固としてゆるぎない存在としてシンボリックに、象徴的に表現されています。しかし、本日の詩編では、主は羊飼いと呼ぶことで、神を自分の手の届かない恐るべきお方としてではなく、常にわたしのそばにいて養い育て、助け導き、守ってくれる身近な存在として描かれるのです。

 では、1節から読みましょう。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」この二つの文章はそれぞれヘブル語のたった2文字から成り立っています。まず前半の「主は羊飼い」は「アドナイ・ローヒ―」という二つの言葉です。「主、わたしの羊飼い」という二つです。アドナイと読む言葉は、原文ではヤハウェと書かれていますが、この神聖な4文字をユダヤ人は発音せずに「アドナイ」と呼びました。「ローヒイ」は「私の羊飼い」という意味です。ヤハウェ、わが羊飼いと書くことで、主なる神とこの私との親密な関係が言い表される、とても印象的な詩文になっています。今の新共同訳聖書で「私の」という言葉が抜け落ちているのは残念なことです。(以前の口語訳聖書は、主は私の羊飼いであって」と原文に忠実に訳されています)

 後半の「わたしには何も欠けることがない」も2文字のヘブル語から成っています。(ロー、エヒマール)直訳すると「ない、わたしに何かが欠けること」と書かれています。面白いですね。わが国の俳句と似ています。「降る雪や、明治は遠くなりにけり」この短い17文字で、作者は万感の思いをこの句に込めています。本日の詩編もこの俳句と似ています。主が私の羊飼いであるから、自分にはすべてが満たされているということ。主が羊飼いとして側にいてくださるのなら、それ以上のものは要らないと言っているのです。このような信仰に生きる時、人は人生のほとんどの場面で不満を抱くことなく、平安でいられるのではないでしょうか。

 2節を読みましょう。「主はわたしを青草の原に休ませ / 憩いの水のほとりに伴い」この二つの文章は同じ内容、同じ事柄を表現しようとしています。それは、主がよい羊飼いであるから、私たちは心からの安らぎを与えられ、安全・安心のうちに草を食べ、水を飲むことができるということです。週報の巻頭言にも書きましたが、サバンナで生きる草食動物たちは、ふつう草原で腹ばいになって休むということをしません。皆さん、シマウマやガゼル(小鹿)たちが草原で腹ばいになって休んでいる場面をYouTubeやテレビで見たことがありますか?私は一度もありません。とくに羊は小心な動物であり、外敵に狙われているような場所では、恐怖心ゆえに地面に横たわったりすることはありません。もちろん、お腹が満たされていない時は、たらふく食べるまで牧草を求めて動き回りますから伏したりしません。さらに、体調不良の時や病気の時には、それが治るまで牧場で伏して休んだりはしません。ですから、羊が青草の原で休むとは、それらのすべてのマイナス条件が取り除かれている状態を示しているのです。

 さらにそのあと「憩いの水のほとりに伴い」とありますが、雨の少ないパレスチナ地方で、羊が安心して水が飲める場所を確保するということが、どれだけ大変なことであるかを想像してほしいのです。水飲み場に連れて行くまでに、勾配のきつい谷間を下っていくこともしばしばでした。羊を脱水症状から守るために、羊飼いはそれぞれの季節に、どこに水飲み場があるかを熟知していなければなりませんでした。しかも、羊はたいへん気弱な動物ですから、外敵に狙われていることを察知すると、羊はおびえて水を飲まなくなるのです。もしも、その水があのオリンピック会場のパリのセーヌ川のように病原菌がいっぱいいる水だとすると、羊はたちまち病気にかかってしまいます。ですから、羊たちが安心しておいしい水を飲み、そこで憩うということが実現するためには、羊飼いは羊が谷間に落ちないように安全に導き、猛獣たちを追い払い、しかも、きれいな水飲み場へと誘導してやらねければなりませんでした。詩編の作者は主なる神が、和たちの人生にもそのように安全と安心を与えて下さるお方だと告白しているのです。

 続いて3節です「主はわたしの魂を生き返らせ、御名の故にわたしを正しい道に導かれる」(関根正雄訳)

わたしの魂を生き返らせ」とは、神によって私たちが魂の復活を経験すること、すなわち新たな力を与えられるということです。神を信じる者は荒涼たる人生の行路にあって疲れて倒れそうになる時も、主によって力付けられるのです。それはなぜか。詩人は「御名の故に」といいます。すなわち、神が神でいましたもうが故に、神の名において、我らを救い、我らを正しい道、すなわち義の道に導いてくださるというのです。2011年、あの東日本大震災があった年の8月、私たち家族は東北地方を旅しました。無牧だった山形教会を訪ね、また盛岡教会に東京北ブロック牧師会からの義援金を手渡すために車で出かけたのです。石巻に入り、あの大川小学校の近くを通ったとき、津波の被害がどれほど大きかったかを、この目で見て取りました。原発のある女川市を通り過ぎ、次に気仙沼に向かおうという時、我々はある半島を通過することになりました。途中でT字路に出くわし、どちらを選ぶかということになりました。搭載していたカーナビは旧くて使い物になりませんでした。そこで、ままよと片方の道を選んで車を走らせたのです。ところが、しばらく走ると見覚えのある景色が目に入った。何と、私たちは半島を一周して元の場所に戻ってきたのです。そこで、今度は別の道を選び、正しい道を走ることができました。途中のコンビニで道路地図帳を買ったことは言うまでもありません。

 私たちの人生の歩みもそうではないでしょうか。道に迷う時、主が私の牧者であるから、私たちは道を踏み外すことなく、正しい道、義の道を歩むことができるのです。そうです。救いが神の御名の故であり、私たちの行いの故ではないからこそ、詩人は次の4節で、有名な次の言葉を記します「死の陰の谷を行くときも / わたしは災いを恐れない。」と。「死の陰」と訳されているヘブル語は、旧約聖書に20回ほど登場します。多くの場合、それは「深刻な闇」という意味で使われ、進退窮まった絶体絶命の状態のことを指しています。死の危険にさらされるようなピンチ、危険な状態という意味です。しかし、たとえその途中で「深刻な闇」に包まれようとも、全能の主が私の羊飼いであるがゆえに、主が指し示された道を歩んでいるならば、神さまが助けてくださる。安心できる方向、安全な道へと導いてくださると詩人は確信しているのです。その理由は「あなたがわたしと共にいてくださる」から、と詩人はいいます。

 後半の「あなたの鞭、あなたの杖 / それがわたしを力づける。」とはどういう意味でしょうか。自らを羊と見立てるこの詩人は、決してサディスティックな感覚の持ち主だったわけではありません。ここで鞭と訳されるヘブル語(シェイベット)は、猛獣を追い払うために羊飼いが常備していた唯一の武器、棍棒のような防具でした。また、杖とは羊飼いが群れから迷い出そうになっている羊を、群れに連れ戻すために用いた、先端にフックが付いた棒状の道具でした。羊はひどい近視で、10メートル先の動物が羊か狼かがわからないため、この鍵のついた棒で制御されて、群れの中に戻ることができたのです。「あなたの杖がわたしを力づける」とは、そのように、神の確かな守りと導きの下で、羊が神から離れずに歩むことができるという意味です。

 5節からは、場面が変わります。砂漠で強盗に追いかけられた旅人が、天幕(テント)の中に逃げ込むという場面設定です。すると、天幕の主人が彼を保護し、もはや一切の危険を免れることができることになるのです。当時の西アジア地方では、砂漠で強盗などの敵から襲われた旅人が、誰かの天幕の中に逃げ込んだら、もはや彼を追及できないというルールがあったと言います。天幕の主人は、彼を保護するだけではなく、追いかけて来るその敵の前で、豊かな宴を開いて、その旅人のために食事のもてなしをするというのです。その際に、油を頭に注ぐとは最高級のもてなしの行為です。その芳しい香りが好まれました。また、杯とはぶどう酒を注ぐ器のことですが、そのような食卓には最高級の料理、つまりごちそうが並べられました。主なる神様は、砂漠で敵に襲われ、命からがらになって助けを求める私たちに、杯が溢れるほどのぶどう酒を注ぎ、もてなしをしてくださると詩編の作者はいいます。主の家に留まるとは、ヤハウェの客となり、その恵みともてなしを受けるということです。私たちも、そのような祝福にあずかるべく主なる神から招かれています。敵があなたを追いかけるのではありません。恵みと慈しみがあなたを追いかけるというのです。以上のように、詩編23編は一貫した神の祝福と慰めを説く詩編であります。

 

お祈りいたします。