栗ヶ沢バプテスト教会

2024-09-08主日礼拝説教

イエス・キリストの名によって

使徒言行録3110

木村一充牧師

 

 この朝お読み頂いた使徒言行録3章は、ペンテコステの日に聖霊を注がれたイエスの弟子たちによる最初の奇跡の業が、書き記されているところです。それは、ペトロとヨハネが生まれつき足の不自由な男性を起き上がらせるという奇跡でした。それが起きたのは、午後3時のことでした。二人が、祈るために神殿に上っていった時のことです。当時、敬虔なユダヤ人は一日に3度静まって祈る時を持ちました。午前9時、昼の12時、そして午後3時の3度です。エルサレム神殿の近くに住む人たちは、この時間に神殿の境内にやってきました。そこで祈ったのです。祈りをとおして自身の罪を悔い改め、神の御心(みこころ)に従う者となるように祈る。あるいは、貧しい人や弱さの中にある人を思いやる心を持てるよう祈りました。愛の業に生きることができるように、祈りました。そのような祈りがささげられる時間に合わせて、一人の足の不自由な人が「美しい門」のそばに連れて来られ、その入り口近くに置かれました。神殿に祈るためにやってきた人々から施しを乞うためです。「生まれながら」と訳されているギリシャ語の原文は、「母の胎にいた時から」と書かれています。文字通り生れる前から足が不自由であったと書いているのです。

 2節を読みましょう。「すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日『美しい門』という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。」「運ばれる」「置く」、このような表現からわかることは、この男がまともな人間としてではなく、まさにモノとして扱われていたことを示しています。彼は生きる意味や価値のないモノとみられていたのです。新約聖書が伝えようとする救いは、私たち一人一人が本来の人間性を取り戻すことができる出来事です。イエスというお方と出会い、このお方を知ることで、私たちは本来あるべき自分、本当の自分を回復することができます。私は、かつて一人の宣教師が、彼が遣わされたその国のある刑務所で、囚人たちに神の言葉を語り伝えるという奉仕をしたときに、彼が監獄で開口一番に語ったという言葉を忘れることができません。その刑務所では、囚人たちがそれぞれ番号カードを名札代わりに身に着けさせられていました。何かの用で呼び出される時、その番号で呼ばれたといいます。「囚人番号、5番と9番。今日はお前たちが食器の片づけ当番だ!」などと命令されていたのです。しかし、この宣教師は講壇に立ち、御言葉(みことば)を語り始めた時こう言いました。「わたしは、今日ここにいる皆さんを番号でではなく、名前で呼んでくださる方をご紹介するために、ここにやってきました。その方はイエス・キリストという人です」と。

 この美しい門に置かれていた生まれつき足の不自由なこの男は、施しによって生きていました。それはただ命をつなぐための金銭でした。彼は、食べるためにそうしていたのです。しかし、彼は本当をいうと生きてはいませんでした。生きながら死んでいたのです。この男がペトロとヨハネと出会うことでどう変わったのでしょうか。換言すれば、どのような仕方で、この男と二人の弟子たちとの関係性が変わっていったかを3節から6節までに登場する「見る」という動詞を比較することで、確認してみましょう。まず3節です「彼は、ペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て」とあります。この「見る」は景色として見るという意味です。英語でいうと「see」になります。シーソー(ギッコンバッタン)のsee です。つまり、3節の時点ではこの人にとって二人の弟子は、ただの景色でした。施しさえ貰えれば、だれでもよかったわけです。ところが、続く4節で、ペトロは彼に言います。「わたしたちを見なさい」英語でいうと「look」です。自分たちの顔つきや表情まで見なさいという意味になります。なぜ、ペトロは自分たちを見なさいと言ったのでしょうか。それは、(私の推測ですが)彼らの顔が輝いていたからだと思います。私は皆さんにお聞きしたいのです。皆さんの顔は輝いていますか。教会に通い始めたころ、先輩のクリスチャンの方からよく言われました。「木村くんは真面目そうだから、言っておきます。私を見ないで、神さまだけを見るようにしてくださいね」と。しかし、それがキリストの復活の証人であるキリスト者の姿でしょうか。そうではなく、このペトロのように「わたしを見なさい」と言うべきではないか。この男は、こうしてペトロとヨハネの輝く顔を見ました。そして、最後5節です。「その男が、…二人を見つめていると」とあります。この「見つめる」とは、神経を集中させて相手を凝視するという意味を持つ「見つめる」です。この足の不自由な男は、はじめは景色として見ていた二人を、いつの間にか自分に決定的な出来事を引き起こす人として見るようになっていたのです。

 しかし、考えてみてください。この男が求めていた一時的な金銭は、使ってしまえばそれでおしまいです。ペトロはそれが分かっていたのでしょうか。この男の期待を裏切るような返事をしました。「わたしには金や銀はない」そう言った。ところが、それで終わりではありません。これに続けて、次の言葉を放ちました。「しかし、私が持っているもの、それをあなたにあげよう」(原文ではそう書かれています)長いヨーロッパの教会の歴史の中で、教会は実に多くのものを持ってきました。立派な教会の建物がそうです。たとえば、修道院が開設されると、地元の有力な貴族から土地の寄進があり、修道院はそこからとれる農産物で潤っていました。修道院ではワインや薬を作られていました。立派なゴシック風の会堂が建設され、その窓はきらびやかなステンドグラスで飾られていました。しかし、キリストの教会に本当に必要なものはそのようなものでしょうか。いや、ただ一つのものがあれば十分ではないでしょうか。それは「イエス・キリストの名」です。本日の礼拝もそうです。私たちは、イエス・キリストの名によってこの場に集められています。祈る時も、イエス・キリストの名によって祈る。教会のあらゆる活動は、イエス・キリストの名によっておこなわれます。すなわち、教会を教会たらしめる決定的な要件は、私たちがこの名前を第一にするということです。ある人は言うかもしれません。「金や銀がなくて、この世で何ができるか」と。たしかに金銀がなければ教会を運営することは大変です。しかし、それ以上に、もし私たちの足腰が立たなければ、私たちは何もできないのではないでしょうか。金銀があっても、足腰がぐらついている人がいます。いや金銀のことで思い患うことで、かえって足腰が立たなくなっているのです。本日のペトロが言うように「わたしが持っているものをあなたにあげよう」と、わたしたちが言えるかどうか。それが、ここで問われているのです。先日、ある信徒の方からお便りをいただきました。近況報告も兼ねた残暑見舞いのお葉書です。その文章の最後のほうは、次のような内容でした。自分もいつか80代になり、体のあちこちにひずみや痛みがでてきた。最近は、週に何度かクリニックに通い、理学療法のお世話になっているような状態だと。しかし、最後にこの人はいいます「これから、増々イエス様に依存する生活になりますから、むしろ安心です」と。

 こうして、ペトロの次の言葉が言い放たれます。「ナザレ人、イエス・キリストの名によって歩きなさい」生まれつき足の不自由なこの男にすれば、自分の足で立って歩くというようなことは考えたことがなかったと思います。自分にはできっこないと思っていた。しかし、節をお読みください「そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。」とあります。私は思います。この時、この男の右の手を取って立ち上がらせたのはペトロでなく、イエス・キリストその人であったのだと。私は月に左足の手術をしましたから、立ち上がるということがどれほど大変かを知っています。すっかりやせ衰え、細くなっていた二つの足に力を入れ、右手を引きあげてくれるその人に、体全体を任せながら、彼は起き上がろうとしました。すると、できたのです。それまで考えてもみなかった、全く諦めていた、自分の足で立って歩くということができたのです。どれだけ嬉しかったことでしょうか。これからは、もう物乞いをすることも要りません。自分の足で立って働く事ができます。それは、一時的な金銭を得ることよりもはるかに価値のあることでした。彼は、新しい人生を歩み出したのです。

 そして、足やくるぶしがしっかりして歩き出した彼が、最初に行った場所はどこだったでしょうか。読んでの通りです。神殿の境内に入ったのです。それまで、彼が置かれていた「美しい門」と呼ばれる門は、エルサレム神殿にある3つの門の中でも一番きれいだったと言われます。しかし、どれほどそれが見栄えがよくとも彼の目には、それは灰色にしか見えなかったことでしょう。でも今は違う。彼は、その門をくぐり抜けて神殿の中、礼拝する場所に入ることができているのです。彼はこれまで大勢のユダヤの同胞の民が、この神殿の庭に入る光景を見てきたことでしょう。彼らが神を礼拝し、祝福と恵みを受けてそこから帰ってゆく姿を羨ましく眺めていた違いありません。しかし、今、それまで礼拝には一度も参加できなかった自分が癒され、神の民に加えられ、神を賛美することができているのです。彼は、それまでの人生に絶望し、このような障がいを持って生まれてきた運命を呪い、場合によっては神を恨んだかもしれない。しかし、今は神さまを賛美し、境内を自由に歩き回ったり踊ったりしてほめ歌を歌っているのです。すばらしことですね。この男に起こったこと、それはペトロとヨハネの二人から聞かされた「イエス・キリストの名」を信じ、これに賭けたことで、彼に新しい命、新生の命が与えられたということでした。死者のよみがえり・復活という出来事は、私たちの地上の生が終わる時だけ問題となる事柄ではありません。そうではなく、私たちの身近な所で今、この時に起こりうる出来事なのです。私たちの罪が赦され、肉体が癒されるという体験は、まぎれもなく私たちを新たに造り変えてくれます。先日も、ある方から言われました。「木村先生も足が治って、いよいよこれからはフル回転で頑張れますね」と。そのような励まし(プレッシャー)を頂きました。この意味で、この男が立ちあがって歩み始める、という事件は間違いなく「復活のしるし」であります。この人のこれからの人生は、「イエス・キリストは今も生きておられる」ということを証しする人生、復活の証人としての人生になるのです。

 さて、神殿でこの様子を見ていたユダヤ人たちは驚きました。彼らは、この男が神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと知って、一体何がこの人の身に起こったのだろうと思いました。彼らは、キリストを拒否したユダヤ人たちです。その彼らが、この様子を見て「我を忘れるほど驚いた」と10節には書かれています。ここには英語の「エクスタシー」(恍惚状態になる)の語源になる言葉が使われています。キリストと出会って癒される、あるいは新しい命を得ることは「エクスタシー」、うっとりするような体験であると本日の聖書は証言しています。この出来事は決して他人事ではありません。私たちの身近な所で、いや私たちの中で起こり得る出来事なのです。

お祈りいたします。