栗ヶ沢バプテスト教会

2024-09-15主日礼拝説教

燃えさかる炉でも

ダニエル書 31927

木村一充牧師

 

 この朝お読み頂いたダニエル書は、旧約聖書の預言書の中でも最も新しい時代、具体的には紀元前3世紀から2世紀にかけて書かれた書物です。それは、パレスチナがセレウコス朝シリアの支配下におかれ、シリア王アンティオコス王の下にあった時でした。その時代にエルサレムは荒廃し、ユダヤ教徒に対する厳しい迫害がなされました。具体的に申しますと、エルサレムの神殿にはゼウスの像が置かれ、王は、ユダヤ人にこれを拝むように求めました。このようなシリア王による偶像礼拝の強要に反抗して、ユダヤ人たちは立ち上がり、反シリア戦争を起こします。それがマカベア戦争と呼ばれる戦争でした。ダニエル書は、このマカベア戦争の後半に書かれた書物であると見られています。

 このダニエル書の構成は、大きく二つの部分に分けることができます。第一部は、1章から6章まででバビロニア王ネブカドネザルが、ユダヤ人の少年ダニエルを教育、訓練し、王の従者として登用した時の物語です。第二部は7章から14章までで、そこにはダニエルの見た幻が書かれています。ダニエル書のもっとも大きな特徴である、彼が目にする終わりの時の幻は、いわゆる黙示文学と呼ばれる文学類型に属する記述方法で書かれ、新約聖書の最後にあるヨハネ黙示録にも、大きな影響を与えています。ただし、本日お読み頂いた箇所は、後半の幻の部分ではなく、前半3章の半ばに記される記事でして、そこにはダニエルの3人の友人が燃える炉の中に投げ入れられる場面が描かれます。なぜ、このようなことになったのでしょうか。ここに至るまでの経緯をすこし丁寧に見てまいりましょう。

 バビロンの王ネブカドネザルは、南王国ユダの最後の王ヨアキムの時代にエルサレムに攻め入り、これを包囲してヨアキムを捕えました。こうして、ユダは滅ばされ、大勢のユダヤ人が捕囚の民となってバビロンの地に連れて行かれます。バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。ネブカドネザルは、捕らえ移したユダヤ人の少年で、宮廷で仕えることのできる特に能力の高い者を選び、言葉を習わせ、文書を読ませました。その中にダニエルがいたのです。ダニエルの名が知られるようになったのは、ネブカドネザル王が見た夢を解き明かしたからです。今、CS分級では創世記のヨセフ物語を学んでいますが、ヨセフもエジプトの地に奴隷として売られながら、ファラオが見た夢の意味を説き明かしたことで、王の信用と評価を得て、宰相となって活躍します。ダニエルもそうだったのです。このとき、ネブカドネザルが夢の中で見たものは、頭が金、胸と両腕が銀、腹と腿は青銅、すねは鉄、足の一部は鉄、一部は粘土という大変グロテスクな像でありました。それは、何を意味しているのか。ダニエルは、王が夢の中で見たこの像の意味を説き明かします。ネブカドネザルは、これを聞いて感心し、ダニエルを高い位につけました。そこで、ダニエルは王に願って自分の友人であるシャドラク、メシャク、アベド・ネゴの3人をバビロンの行政官として登用するように願い出ます。それが、王によって聞かれました。この3人がダニエルを補佐してくれることを期待しての申し出でありました。

 ところが、本日の箇所の少し前、3章の8節をみてください。「さて、このとき何人かのカルデア人がユダヤ人を中傷しようとして進み出て」とあります。中傷すると訳されるヘブル語は本来「肉を食いちぎる」という激しい意味をもつ言葉です。相手をひどく傷つけようとして、ということです。カルデア人とは生粋のバビロン人のことです。バビロンは巨大な帝国になりましたが、もともとはカルデア人の国でした。ところが、帝国が大きくなり、外国人の数が増えてきて、たとえばダニエルのようなユダヤ人が重要な職務に就くことができている状況が、彼らには面白くなかったに違いありません。さらに、彼らユダヤ人はネブカドネザル王が「ひれ伏して拝め」と命じていた金の像を拝むことを、全然しないことにも腹を立てていたと思われます。

 ところで、この金の像は一体どのような像だったのでしょうか。少し前の31節に、それが書かれています。「ネブカドネツァル王は一つの金の像を造った。高さは六十アンマ、幅は六アンマで、これをバビロン州のドラという平野に建てた。」とあります。1アンマとは大人が肘を立てた時の指先までの高さで、45センチくらいです。60アンマだと27メートルになりますね。幅は6アンマ、つまり2.7メートルです。ちなみに奈良の大仏の高さはおよそ15メートルといいます。それをも大きく超える高さでした。ちなみに、マンションの1階あたりの床から天井までの高さは約3メートルといいますから、およそ9階建てのマンションに相当するほど背の高い像だったわけです。ここで60アンマとか6アンマで使われる数字の6ですが、6とは人間を表す数字です。いっぽう7は完全数で神を表します。七週の祭り、七つの教会などと言われます。6はソロモン王が立てた神殿を説明する言葉の中に出てきます。列王記上10(1:14))に「1年間にソロモンのところに納められた金の重さは、666タラントであった(ソロモンの歳入は金六百六十六キカルであった)」とあります。いくら栄華を極めたソロモンが、富と権力を持っていたとしても、所詮それは人間の栄光にしか過ぎず、完全な神の栄光に比べると、取るに足りないということを言おうとしているのです。

 このように考えるとき、本日のダニエル書で、ダニエルの友人であるシャドラク、メシャク、アベド・ネゴの3人の行政官たちが、この金の像にひざまずくことをしなかった理由が分かります。彼らは、イスラエルの神、ヤハウェこそ主であると信じ告白するユダヤ人であり、人間や人間が作ったものを拝むことはしなかったということです。ネブカドネザル王が金の像を作ったのは、自分自身の栄光を現わすためであり、この像を拝むことは、すなわち王自身を拝むことでした。しかし、ダニエルの3人の友人たちは、この王の命令に対して、毅然としてこれを退けています。(このやりとりは週報の巻頭言に、引用しています)314節を読んでください。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、お前たちがわたしの神に仕えず、わたしの建てた金の像を拝まないというのは本当か。今、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえると同時にひれ伏し、わたしの建てた金の像を拝むつもりでいるなら、それでよい。もしも拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか。」ネブカドネザル王としては、最大の寛容を示し、彼らにもう一度チャンスを与えたつもりだったのでしょう。ところが、彼らはいいます「たとえ、そうでなくても(つまり自分たちの命が主によって救われなくても)、わたしたちは王さまの神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも決していたしません」これを聞いて、ネブカドネザルは激怒し、顔つきも変わり、炉の温度をいつもの七倍の熱さにするように命じたというのです。

 イエス・キリストを信じる信仰に生きる者は、ときにその信仰の故に困難に遭い、また嫌な思いをすることがあります。しかし、主イエスはあの山上の説教でおっしゃっています。「義に飢え渇く人々は、幸いである、/ その人たちは満たされる。」先週の水曜日の祈祷会に、数週間ぶりに男性の方がお見えになりました。日曜礼拝にもお見えになったことがある方です。使徒言行録から、私たちは主の復活の証人です、というペトロの言葉を学んだのですが、奨励のあとで次のようなコメントをされました。「自分の友人のクリスチャンが通っている職場では、社員が朝礼で「君が代」の斉唱をさせられるという。どう考えたらよいでしょうか」私は、その場では答えを申しませんでした。しかし、その歌を歌うことが自分の信仰にそぐわないのであれば、他の職場を選んだらよいと思います。恐らく、私ならそうします。仕事はほかにもきっとあるでしょう。しかし、聖書の神さまはただ一つです。このあと、同じ使徒言行録4章でペトロは言っています「この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては天下の誰にも与えられていないからである」(口語訳)

 ダニエルの友人3人は、このときどのような形でネブカドネザル王から下された命令、または誘惑を退けることができたのでしょうか。4つ読み取ることができます。第一は、「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。」と言って、会話を打ち切ったということです。余計なことを言うと、足もとを掬われます。第二は「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。」と言って、神を信じたことです。第三は、彼らは自分の思うことをはっきりと言い切ったということです。「わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」と言っています。みなさんはどうでしょうか。たとえば、自分が心を込めて真剣に結婚を申し込んだ相手から、言葉を濁されたり、あいまいな言い方をされたら、その方と本当に一緒になろうと思いますか。あいまいな言い方をするとサタンに機会を与えることを悟らねばなりません。そして最後四番めです。彼らは、自分たちの信仰を貫くことで命を失うことになっても、それを覚悟したということです。

マカベア戦争では、多くのユダヤ人が自分たちの信仰を貫くために立ち上がりました。エルサレムの神殿に、豚の肉がささげられ、ギリシャの偶像の神々の像が飾られ、それを拝めと言われました。信仰深いユダヤ人たちは、それに耐えられませんでした。そうして、武器を持って命を懸けて戦ったのです。このような信仰に生きる時、たとえ相手が巨大な帝国の王であろうとも、恐れたじろぐことはありません。イスラエル最大の預言者と言われるイザヤも、次のように言っています。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。/ あなたはわたしのもの。/ わたしはあなたの名を呼ぶ。/ 水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。/ 大河の中を通っても、あなたは押し流されない。/ 火の中を歩いても、焼かれず/ 炎はあなたに燃えつかない。」(イザヤ431以下)昨日、敬愛するSさんを主の御許(みもと)に送る告別式を営みましたが、神と共にある人生は、このSさんのご生涯のように、平安で何一つ恐れることのない生涯になるのではないでしょうか。実際、このイザヤの予言通りのことが起こるのです。

 炉の中に投げ込まれた3人が、その後どうなったか。次のページを見て下さい。「あの三人の男は、縛ったまま炉に投げ込んだはずではなかったか。」「だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」何と、炉の中には神のみ子、キリストが一緒に入ってくださっているとダニエル書は言うのです。思わず、王さまは叫びました。

シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、いと高き神に仕える人々よ、出てきなさい」すると、3人は出てきました。火はその体を損なうことなく、髪の毛も衣服もそのままで、火の臭いすらなかったと聖書は証言します。神さまは、ご自分を信じる者を救い、その命を守られ、燃え盛る火の中をくぐり抜けさせるような仕方で、その人生を導かれます。ダニエル書は、このような信仰者の勝利をとく預言書であります。

お祈りいたします。