栗ヶ沢バプテスト教会

2024-09-29主日礼拝説教

いつも喜んでいなさい

Tテサロニケ51222

木村一充牧師

 

 週報にも報告されていますが、先週の月曜日923日に、新小岩バプテスト教会で東ブロックの秋の集いがあり、当教会から8人の方が参加しました。私も妻と電車に乗って出かけましたが、対面のみのブロックの集会に参加するのは今回が初めてで、大いに刺激を受けました。昼食の時間、番号ごとにテーブルにわかれて集まったのですが、すぐ隣の席の婦人が「今回のブロックの集いで久しぶりの方にたくさん会えてうれしい」と挨拶されたのです。けれども、わたしにすれば大半の方が初対面です。着任3年で初めて東ブロックの対面の集まりに参加し、ブロックの皆さまと顔見知りになれ『千葉県のキリスト教伝道の始まりとこれから』という題でなされた講演会の中身でした。その中で山口先生は、千葉県は最初に宣教師たちがやってきて教会を建てた横浜や東京の築地(魚市場のあるところです)から見て、もっともアクセス、交通が便利な伝道先だったというのです。横浜で伝道していた宣教師や信徒たちが、船に乗って東京湾を横切り、木更津や君津で降り立って、千葉で伝道をおこなったという。とくに記憶に残ったのは、明治六年(1873年)キリシタン禁令の高札が撤去されたわずか2年後の1875年の暮れに、安川享という人が中心となって、「法典長老教会」が千葉県で最初のプロテスタントの教会として設立されたという事実でした。今の船橋法典の駅の近くですね。この法典長老教会は、新島襄によって設立された群馬県の安中教会、また植村正久が初代牧師となった飯田橋の富士見町教会よりも、さらに早く設立された教会です。そのことは、大きな驚きでした。千葉県は、関東では、神奈川に次いで二番目に伝道が進められた伝道先進県だったのですね。私の住んでいた埼玉県よりも、千葉県のほうがキリスト教伝道ではずっと先を行っていたことを知って、私は千葉県を見直しました。150年前の1974年、千葉県に教会は一つもありませんでした。その数0だったわけです。ところが、150年経った今、千葉県にはカトリックとプロテスタントの教会を合わせてざっと420の教会があるといいます。私どもの教会もその420の一つです。150年という歴史をかえりみながら、クリスチャンの数が少ないと嘆くのではなく、神のあわれみのゆえに今があることを感謝して、共に「主の戦い」を戦いましょうと述べて、山口先生は講演会を締められました。よい学びができたことを感謝しています。

 先日の講演会の話を受けて、千葉県の教会の歴史を少し話しましたが、この朝お読み頂いた聖書であるテサロニケの信徒への手紙一も、新約聖書の中でもっとも早い年代、すなわち最初期に書かれたパウロの直筆の書簡であると見られています。AD50年ごろに、この手紙は書かれました。最初の福音書と呼ばれるマルコ福音書より20年近く前の時代になります。使徒言行録の17章によると、ピりピの地で伝道していたパウロとシラスは獄に入れられますが、パウロがローマの市民権を持つ人物であったことが分かって、官憲は二人を牢から連れ出します。この二人が次に訪れた町がテサロニケでした。使徒言行録では、3回の安息日に渡ってユダヤ人の会堂で「イエスこそがまことのメシア、すなわちキリストである」と語ったと書かれていますが、おそらくテサロニケでの福音宣教は数ヵ月にわたって行われたものと見られます。しかし、多くのギリシャ人や有力な婦人たちがパウロの教えを信じ、次々とクリスチャンになる様子を見て、ユダヤ人は彼らに嫉妬、ねたみを抱きます。そこでならず者を巻き込んで暴動を起こし、パウロとシラスをかくまっていたヤソンという人の家を襲ったと使徒言行録には書かれています。せっかく、伝道がうまくいっていたのに、ユダヤ人たちに宣教活動を妨害され、世間を騒がせる活動をしている連中として、パウロたちをローマ当局に訴えたというのです。こうして、パウロとシラスは夜の闇にまぎれて、テサロニケから逃げるように次の伝道先に向かうことになりました。

 パウロは、今この手紙をコリントで書いています。短い滞在期間における教会生活であったにもかかわらず、テサロニケ教会とパウロとの関係は、驚くほど良い関係が保たれました。テサロニケの信徒たちが、喜んで福音を受け容れ、パウロたちをお手本とし、主に倣う者となった。その結果、マケドニアとアカイア州。すなわちギリシャの全土にいるすべての信者の模範となるまでになったとパウロは言うのです。(Tテサロニケ17)それだけでなく、テサロニケの信徒たちの信仰が評判となり、至る所で良い噂になっているために、もはや、何も付け加える必要はないほどだとパウロは書きます。(同18)ほんの数ヵ月しか福音宣教の仕事をしていない教会なのに、この教会の信徒はすべての教会の模範になっているとパウロは言います。どれだけ良い関係だったことか、と私は想像します。

 このテサロニケ教会のことが気になって仕方がなかったため、パウロは、コリントに向かう途中、アテネでテモテをテサロニケに派遣します。さまざまな苦難や迫害のもとにあるテサロニケ教会を励ますため、また教会の様子を知りたかったのでしょう。やがて、そのパウロのもとにテモテが帰ってきました。3章の6節以下にその結果が書かれています。6節を読みます「…また、あなたがたがいつも好意をもってわたしたちを覚えていてくれること、更に、わたしたちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっていることを知らせてくれました。」この知らせをパウロはどれほど嬉しく聞いたことでしょう。テサロニケ教会とパウロとの関係は、再会を互いに熱望し合う関係になっていたのです。みなさんにも、あの人ともう一度会いたいと思う方がおられることと思います。私も、たとえば前任教会に通っている次女から「○○さんがお父さんに会いたいと言ってたよ」というような連絡をもらうことがあります。そういう話を聞くと嬉しくなります。パウロとテサロニケ教会との関係は、そのような麗しい関係だったのですね。

 そこで本日の5章に入ってゆきます。本日のテサロニケの信徒への手紙一の中心となるテーマは、主が再び来られるということ、主の再臨が近いということでした。使徒言行録の1章に、40日に渡ってご自身を現わされた主イエスが、天に上げられる場面が描かれています。弟子たちは天に昇る主イエスの姿を呆然と見つめていました。すると、白い服を着た二人の天使がこう言います「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」初代教会の信徒たちは、この主の再臨を待ち望みながら、信仰生活を続けていました。特に、ギリシャの文化圏にあった教会の人たちは、ユダヤ教とギリシャの偶像の神という二つの宗教勢力のはざまで生きつつ、一方で政治的にはローマ帝国という強大な権力者の統治する政治支配のもとで生きていました。そのような初代教会の信徒たちにとって、主イエスがいつ再び来られるのかは大きな問題だったのです。5章の2節で「盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っている」はずだとパウロは書きます。しかし、その言葉が、この後変わります。4節です「主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。」とあります。ここをどう読めばよいのか。それは、こういうことでしょう。私たちは神我らと共にいます、という信仰を神さまから与えられている。だから、私たちのために死んで復活されたイエスを信じる信仰に生きる者は、目覚めていても、眠っていてもいつも主と共に生きているのだ。だから、主の来臨を恐れておじまどうことはないとパウロは言うのです。

 再び東ブロックの集いに戻りますが、一緒に参加した妻からある話を聞きました。新小岩バプテスト教会の二代目牧師である川口正雄先生(私の就任式の時に来ていただいた川口義夫先生のお父様です)が、新小岩の開拓伝道先であった茂原バプテスト教会に出向いていた時(2000年頃のことだといいます)教会からの帰りの車で事故に遭い、それが原因でしばらくしてお亡くなりになったというのです。また、ご夫人はその事故で大けがをされ、ずっと入院生活を続けられてきたといいます。それを聞いて私も驚きました。このような話は他にもあります。ある牧師先生の説教を読んでおりましたら、先週ある教会員の方が日曜礼拝に出席しようと自宅を出て、近くの停留所でバスを待っている間に倒れて亡くなるというアクシデントがあったということです。しかし、その牧師は言います。この教会員は、生活のすべてにおいて神さまを証しする生涯を送られた人生だったと。それゆえ、私たちは悟らねばなりません。私たちはいつも死と向き合いながら、死と隣り合わせで生きているということです。事故でなくなったから、神さまなどいないということではない。そうではなく、いつ召されてもいいように、毎日を「今日が一生」という覚悟で生きること、それが終末論的に生きるということではないでしょうか。

 そうして、パウロはテサロニケの信徒たちに次の有名な言葉を語ります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」(口語訳聖書)喜べることがあった時だけ、喜ぶのではありません。そうではなくいつも喜ぶのです。それは、どのような時にも主が共にいてくださるということを信じる信仰があるからこそ出来ることです。2番目は祈ることです。祈りとは神さまとの対話です。祈りによって、私たちは神さまとの関係を強くし、霊的に成長することが出来ます。赤ちゃんは言葉を話すことが出来ません。しかし、ある大学病院で、お母さんが赤ちゃんに話しかける時の赤ちゃんの脳波を調べてみたら、大人が会話するときと全く同じように、大脳が反応していることが分かりました。子どもだから聞いていないだろうと思ってはいけません。たぶん、赤ちゃんが健全に育つために、まわりで良い話をしたほうがよいはずです。私たちの信仰もそうです。信仰が順調に育つためには、神さまとの良い関係のもとで、よい会話をしなければいけないのです。そして、3番目です。「すべてのことについて感謝しなさい」です。感謝という言葉は、ギリシャ語で「恵み」という意味を同時にもつ言葉です。ですから、すべてのことに感謝することは、すべてを神の恵みと考えるということです。あれが足りない、これが足りないと、文句を言うのではなく、今これがあることは恵み、あのこともまた恵み、と恵みを数えるのです。「数えてみよ、主の恵み」という賛美歌があるではありませんか。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」パウロのこの言葉は、私たちが喜びに満ちた信仰生活をするためのキーワードであります。

お祈りいたします。