2024-10-13主日礼拝説教
「優しさと愛の律法」
レビ記19:9〜14
木村一充牧師
本日は旧約聖書のレビ記19章から、御言葉(みことば)を分かち合いたいと思います。レビ記という名前は、旧約聖書をギリシャ語訳である70人訳聖書、あるいはラテン語訳聖書の題名から由来した言葉で、もとのヘブライ語では文頭の言葉をとって「ヴァ・イクラ」と呼ばれます。これは、「そして、呼び寄せ」という意味です。「そして、主はモーセを呼び出され」とは、読者に本書に記される内容が、すぐ前の出エジプト記に続けて、神がモーセに語られた言葉であるということを意識づけようとしています。ゆえに、このレビ記はモーセ五書の3番目に置かれます。ちなみに、ドイツ語圏では、レビ記は「第3モーセ」と呼ばれ、レビ記とは書かれないこともあります。レビ記を主日礼拝の聖書箇所として選ぶことは、私自身も珍しいことですが、実はこのレビ記に記されたさまざまな規定は、今日のユダヤ教の律法(トーラー)の中心部分を占めており、トーラーの大部分の戒めは、このレビ記から来たものが多いのです。たとえば、モーセ五書の先頭に位置する創世記のことを思い出してください。そこには、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフという族長たちの物語が、相当のページ数を使って書かれていました。創世記に律法の規定が書かれているところはめったにありません。民数記も同様です。そう考えてみると、さまざまな礼拝に関する規定を書き留めるレビ記こそ、今日のユダヤの律法の原型となっている書物であると言えるのです。
新約聖書の福音書を読みますと、イエスがファリサイ派の人たちとさまざまな問題をめぐって論争したことが書かれています。ファリサイ派という名前は、もともと「ファリシーム」というヘブライ語から来た言葉で、「分離された者」という意味です。つまり、彼らは、ユダヤの律法のことがよく分からず平気で律法の規定を破る一般庶民と自分たちとは違う、自分たちは「特別に選び分かたれた者」だと考えたグループでした。特にイエスの時代には、律法の規定をめぐるラビ(ユダヤの教師)たちの解釈や議論が入り乱れ、律法の規定は、なんと613個にも細分化されていました。もう少し詳しく申し上げると、この613の神の命令には、「〜しなさい」と命じる肯定命令と「〜するな」という否定命令(禁止命令)とがありました。どちらが、多いと思いますか。お察しのように、禁止命令のほうが多いのです。「〜するな」と命じている律法は、一年間一日も休まず守る必要があるということで、365個あります。一方、「〜しなさい」という肯定命令は、残り248個です。これだけ沢山あると、どれが一番大事な律法なのかが分からなくなってきます。そこで、本日の週報の巻頭言に紹介しているようなことが起きるわけです。一人の律法学者がイエスの前に進み出て、「あらゆる律法の中で、どれが最も大事ですか」と尋ねるというお話です。仕事をしていてもそうです。あれもしなさい、これもしなさいと人に言われると、頭の中が混乱してくるものです。だから、優先順位をつけて、重要な仕事から先に片付けるよう、私たちは心掛けます。この時の、イエスの答えもそうでした。律法の中でもっとも大切な命令は、要約すれば二つだというのです。第一は「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」です。第二が、次の戒めです「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」です。神への愛と隣人への愛、つまり垂直方向への愛と水平方向への愛を実践することが、律法の教えの要(かなめ)であるとイエスはお答えになります。本日の聖書朗読ではお読み頂きませんでしたが、この第二の戒めは、今日の箇所の少し後、19章の18節に書かれています。下の段の18節の後半に「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」とありますね。本日の箇所は、主イエスが最も大切な戒めとして教えられた「隣人愛」の精神を、具体的な事例を通して教えている箇所です。
聖書はどのような書物でしょうか。それはこうです。神がどのようなお方であり、神がイスラエルの民を通してどのようにご自身を現わされたかが、聖書には書かれています。しかし、これには一つの特徴があります。それは、新約聖書・旧約聖書の両方ともに、それを貫いている精神は、隣人愛の精神であるということです。イスラエルの民は、かつてエジプトの地で400年あまり奴隷の民として仕えました。おそらく休みもなかったと思われます。出エジプト記の2章を見ると、「イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。」と記されています。つまり、イスラエルの民は、苦難の歴史を歩んできたのです。しかし、その苦難の地から脱出したあとで、彼らは同じような苦難を自分たちだけでなく、他の民にも決して繰り返して味わうことがないように、律法を生み出しました。それが、典型的に示されているのが、本日の9〜10節の言葉です。9節以下を読みましょう。「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。(少し飛ばして)これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。」パレスチナは、地理的にアジアとアフリカをつなぐ交通の要衝にあり、しかも、地中海に面していたために貿易や通商上も重要な場所でした。旅人や寄留者も沢山いました。そのような旅人のために、穀物やぶどうなどの果物の収穫の時期を迎えた時、全部収穫し尽くさずに、一部を貧しい人や寄留者(旅人)のために残しておきなさいと、聖書は言うのです。何と優しい神のご命令でしょうか。
ご存じのように、ルツ記という聖書の読み物は、母ナオミと同じように未亡人となったモアブの女ルツが、ナオミの故郷であるベツレヘムに付き添って帰り、そこでナオミの家を再興する(ふたたび興す)という物語です。このとき、ルツはナオミに「どうぞ、畑に行かせてください。…落ち穂を拾い集めたいのです」と申し出ています。このルツの言葉の裏付けになっているのが本日のレビ記の戒めです。彼らのように貧しい人が、何とか食べていくことができるように、神が憐れみをもって落ち穂を残してくださるのです。「ここは俺たちの土地だから、収穫できる物は全部取りつくして、誰にも取られないようにしよう」と考えるのではありません。そうではなく、かつてエジプトにいたころ、自分たちが寄留の民として辛い体験をしたから、今度は自分の土地が持てたら、収穫の一部は貧しい人のために残しておこうと考えるのです。優しいという漢字は、人偏(にんべん)に憂うという字が横についてできた漢字です。「うれう」とは「思い悩む、心配する」という意味です。これは、自分のことを思い悩むのではありません。他者のことで思い悩み、他者のことを心配するのです。それが優しさです。このような精神が長く社会の中で息づいていたヨーロッパでは、社会保障や福祉が他の地域よりもはるかに充実していることが知られています。特に北欧のスウェーデンやデンマークなどでは、高齢者や貧しい人に対する手厚い救済制度がととのっています。私は、このこともキリスト教精神と関係しているのではないかと考えます。
少し、脇道に逸れますが、北欧のデンマークという国の社会保障制度について、ここでご紹介します。デンマークでは、すべての高齢者が月額にして一人当たり9万円という最低生活保障年金を受け取れるばかりか、介護や医療サービスはすべて無料だといいます。持ち家がないという高齢者には、住宅手当が付与されます。高齢者だけでなく、大学生もまた、大学の学費がかからない上に、給付型の奨学金や住宅手当があるので、すこしアルバイトをするだけで、十分に勉強に打ち込めるというのです。我が国のように、大学生が学生時代に借り入れた奨学金を就職して、働き始めてから返金する。少なからずの大学生が、卒業時には少なくない借金を抱えているというような悲惨な現実が、多くのヨーロッパの国にはありません。社会的に弱い立場にある人のために、高い税負担も我慢しようという政府の呼びかけが、少しずつ受け入れられてきたのです。ちなみに、デンマークの消費税は25%だといいます。(我が国の食料品に対する税率8%のおよそ3倍ですね。)それに加えて、所得税が上乗せされるため、労働者たちは、ざっと収入の4割から5割を税金として納める格好になるといいます。それでも、税負担が重いから生活ができないというようなことにはなりません。受益と負担とをトータルに把握して、低所得者層には負担以上の受益があるように制度設計されているから、安心だというのです。振り返って我が国では、国会議員までが、いかに巧みに税金を逃れるかを考えているような始末で、デンマークとは程遠いと言わねばなりません。私たちも、聖書が説くように、自分の収穫を全部集めて、あとはペンペン草も生えないような仕方で全てを自分のものにするのではなく、その収穫も神から与えられたものと感謝して、社会的に弱い人・貧しい人のために分かち合えるものになりたいと思います。
11節から12節にかけては、十戒でも規定されている内容が重ねて書かれています。盗んだり、偽りを言ってはいけないということです。それに続けて、最後の14節で驚くような律法の命令が書かれています。読んでみましょう「耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。」耳の聞こえない人に、悪口を言ってもその人には聞こえません。しかし、聖書はそのような相手の弱みに付け込んで、相手を貶めるようなことをしてはならないと命じるのです。それに続く命令も同じです。目の見えない人の前に障害物を置いてはならないと言っています。その理由は次のとおりです。「あなたの神を畏れるためだ。わたしが主であるからだ。」あなたが、もしも私を信じ、またこの章の冒頭1節にあるように「聖なる者」となろうとするならば、そのような卑怯なことをしてはならないというのです。ここでいう「聖なる者」とは、「清く正しく汚れなき者」という意味ではありません。そうではなくて、神の民と呼ばれ、神の民としての規律に生きるものとされること、つまり、神によって召し出された者となることです。言い換えれば、神のものとされることです。そのような者となるために、神の言葉と戒めを大事にしなさい、とレビ記は言うのです。
使徒パウロが言うように、人は律法の行いによって義とされるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされます。しかし、律法そのものが無意味なもの、無駄なものでは決してありません。むしろ、律法が説く優しさと愛の精神が、イエス・キリストというお方において完成したのです。旧約聖書という球根があって、イエス・キリストという花が咲いたのです。旧約も大事です。そのことを覚えながら、旧約聖書を毛嫌いすることなく、イエス・キリストを指し示す備えの書として、肯定的に旧約聖書と向き合いたいと思います。
お祈りいたします。