2024-10-27主日礼拝説教
「美しき足」
ローマ書10:14〜17
木村一充牧師
栗ヶ沢教会の皆さま、おはようございます。本日の日曜日はいつもと違って、このようにビデオ録画という形式で礼拝メッセージを語らせていただきます。私は、本日浜松バプテスト教会の礼拝に出席しております。浜松教会は午前10時半から礼拝が始まりますので、今は、礼拝前の打ち合わせの時間かもしれません。日曜日に皆さんのお顔を拝見することなく礼拝の御言葉(みことば)を語るという体験は、私にとって初めてのことです。昨年の夏、コロナで牧師館2階からメッセージを取り次いだ時は、Zoomで皆さんのお姿を見ることができたのです。かつて前任教会では、毎年秋に開催される日本バプテスト連盟の定期総会の時期に、水曜日の祈祷会に出られないということがありました。その時は、カセットテープにメッセージを録音して、テープで祈祷会出席の皆さまに御言葉(みことば)を分かち合ってもらいました。すると、こっちのほうがいいと言う方が出てきたのです。木村先生の顔を見ずに、メッセージを耳で聞く方が、より集中できて、心に沁みるというのです。今回のビデオ・メッセージをお聞きになって、同様にかえってよかったと言って頂ければ、私には望外の喜びであります。
この朝お読み頂いたローマの信徒への手紙は、使徒パウロが未だ訪問したことのないローマの教会の信徒たちに、自らの神学的自己紹介を兼ねて書き送った手紙です。とくに本日の10章では、イエスは主なりという告白を口に出して言えないユダヤ人たちを読者として想定しながら、自分の口でキリストを告白することの大切さをパウロが説きます。キリスト教信仰は、私たちが何かの努力や修行、精進のようなものを積み重ねることによって勝ち取るものではありません。そうではなく、上から与えられるものです。ところが、私たちの多くは、人が救われるためには、何かの資格、条件が必要だと思うのではないでしょうか。しかし、本日のお読み頂いた箇所の上の段にある6節、7節を見ていただくと、こう書かれています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、神に義とされるために、すべてを与えられる神を忘れて、自分の力で天にまで上って行こうと考えたり、人一倍苦労してどん底に落ちるような体験をしようとする必要はないということです。そうではない。神の言葉はあなたの近くにあるではないかとパウロは言うのです(8節)。けれども、語るべき言葉が自分のすぐ近くにある、容易に手に取ることができるのに、その言葉をなかなか口にすることができないという経験が、私たちにもあるのではないでしょうか。たとえば、だれかと喧嘩をして、仲たがいしてしまった時がそうです。これはまずい、謝ろう。仲直りしようと、心の中では思う。ところが、その言葉を語ることができない。そうしたほうが良いことが分かっているのに、それができない。自分の非を認め、謝罪して、相手に「ごめんなさい」と言えない。私たちのプライドや、いや相手も悪いではないか、という自己義認の思いや、自分が下手に出ることへの嫌悪感が、それを邪魔するのです。あれやこれやで、なかなか和解することができないのです。
ユダヤ人にとって、「イエスは主である」という言葉は彼らのすぐ近くにあったのではないでしょうか。ローマの信徒への手紙1章で、パウロはイエス・キリストは「肉によればダビデの子孫」だといいます。あなたがたはダビデ王をほめたたえているではないか。それなのになぜ、その末であるイエスはキリスであると言えないのかというのです。しかし、その言葉をユダヤ人は口にはしませんでした。すぐ近くにある言葉を取ることができない。だから、いつまでたってもユダヤ教はキリスト教と断絶したままです。
そこで、パウロは続けて言います。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」と。「公に言い表し」と訳されているもとのギリシャ語は、「同じ言葉を語る」という意味です。私たちのバプテスト教会では、信仰を決心してバプテスマを受ける人は、みな会衆の前で信仰告白の文章を読み、教会員の皆さまの賛同の挙手をもらってから、バプテスマ式に臨みます。なぜ、そうするのか。それは、教会の仲間が「この人の信じているものが、聞いている私たちと同じだ」ということを確かめるためです。赤ちゃんは一人では大きくなりません。お母さんや家族の力を借り、近所の人、同じ保育園の仲間たちと暮らす中で、少しずつ成長します。バプテスマを受ける人もそれと同じです。教会という信仰者の群れ、信仰の友、仲間たちに守られて、霊的に成長するのです。私のことで恐縮ですが、私は1978年9月24日にバプテスマを受けました。そのバプテスマ式で、水槽の中に立ち、まさに全身が沈められるというその時、松村秀一先生が耳元でこう尋ねてこられました。「イエスさまを信じますね」びっくりしました。イエスさまを信じますと告白したばかりなのに、もう一度尋ねてきたのです。これはもうイエスというお方から絶対に離れるわけにはいかないな、と思いました。パウロは、ここで口で公に言い表し心で信じるなら、救われると書いています。口と心の一致を説いているのです。なぜ、口と心の一致によって救われると書いたのでしょうか。それは、私どもの間で、しばしば口と心がバラバラになることがあるからではないでしょうか。あるいは、こういうこともあるかもしれません。バプテスマを受けた当初は、心は燃えていた。しかし、教会生活を続けるうちに、口と心が分離してしまうような厳しい体験をすることがあるのです。だからこそ、私たちはみ言葉御言葉(みことば)にしがみつかねばなりません。この御言葉(みことば)こそ私たちと神さまを結びつける固き帯だからです。
そこで、本日お読み頂いた14節以下に移ります。すぐ前の13節でパウロは「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」というヨエル書のみ言葉御言葉(みことば)を引用しつつ、これに続けて、その主の名を語り告げる人、宣べ伝える者がいなければ、どうしてそれを信じる者が起こされるだろうかと書きます。信仰は聞くことによって始まるというのです。それはそうでしょう。パウロの時代に、聖書を読んで学ぶという習慣は一般の人にはありませんでした。そもそも、聖書(旧約聖書のことですが)自体の数がきわめて少なく、かつ大変高価でしたから、庶民には手の届かない代物だった。だから、耳で聞くしかなかったのです。この聞く力が、ユダヤ人は他の民族に比べて卓越していました。ユダヤのシナゴーグは、子どもたちに御言葉(みことば)を話して聞かせる教育をおこなっていたのです。そのような文脈の中で、15節で「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」という括弧つきの言葉が登場します。この言葉は、もともとはイザヤ書52章7節から引用した言葉です。イザヤ書52章7節では次のように書かれています。「いかに美しいことか/ 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。/ 彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/ 救いを告げ/ あなたの神は王となられた、と/ シオンに向かって呼ばわる。」 イザヤはここで「足が美しい」と言います。これは、私ども日本人の感覚ではわかりにくい言葉です。普通、私たちは美しい景色とか、美しい顔とか言います。しかし、聖書は足が美しいと言う。それは違和感を覚えさせる表現ではないでしょうか。なぜなら、石地や砂地の多いパレスチナの山々を行き巡ることはたやすいことではなく、むしろ危険なことでありました。しかも、人々は粗末な履物しか履いていなかったため、足元は泥やほこりで汚れ、しばしば傷つき、出血することも珍しくなかったのです。ところが、イザヤはそのような伝道者の足が美しいと言います。それはどういうことでしょうか。かつて、大井教会で牧師をされていた大谷恵護先生は、ある日の礼拝で本日の箇所から説教されたとき、こう話されたそうです「妻のレニーの足を見てください。彼女の足はとてもきれいです」と。私は、とてもそのようなことは言えません。しかし、ここでパウロが語ろうとしているのは、足の見栄え、外見の良さではありません。そうではなく、良い知らせを何とかして早く伝えようと急いでいるその足、その足がメッセージを伝えると、人々の間に喜び、平和、歓喜の声があがる、そのような伝令の足の動き、運動に美しさがあると言っているのです。
人が何を美しいと感じるかは、民族や文化、さらにはその人が暮らす地域によっても違いがあることでしょう。日本人は自然と一体となるような静寂さ、幽玄とよばれる世界に美を見出しました。ギリシャ人は幾何学的な美しさに心惹かれ、パルテノン神殿の柱は黄金比率を用いて建てられているといいます。しかし、へブルの人たちは、単に見た目がきれいなものを美しいとは考えなかったのです。そうではなく、神によってもたらされる行為、運動のなかに美を見たのです。「神のなさることは、すべてその時にかなって美しい」というコヘレト書の言葉がありますが、その言葉のとおりです。神のなさる行為の中に美を見ているのです。
足が美しいと言われるもう一つの理由は、キリスト教の真理が頭の中で考えだされた真理ではなく、持ち運ばれなければならないものだからです。それは、運ばれる真理です。ギリシャ哲学や数学のように、頭で考えだされ、ほかの人が論理的に証明できるような真理ではありません。客観的な、眺められた真理ではなく、その真理のもとで生きる人の実存がかかっている真理、動いている真理です。まさに、良きおとずれであり、それを聞くと嬉しくなるような知らせ、Good Newsとしての真理です。私は、ある時テレビ番組で、一人の心臓外科医の方がインタビューに答えている場面を見ました。それまで、手の施しようのなかった心臓疾患に対して、新たな手術の方法が見つかったというのです。しかも、その方法を用いれば、従来よりずっと安全で患者の負担も軽くなり、かかる費用も小さくて済むといいます。その医師は、顔を輝かせ、にこにこしながら言いました。「これから、ご紹介する心臓手術のやり方は、私ども心臓外科医にとって、メッセージです。メッセージですから、それを聞くと嬉しくなります」それを聞くと嬉しくなる、教会で語られる御言葉(みことば)が、そのようなよき音信、福音として聞かれることを強く願います。
お祈りいたします。