栗ヶ沢バプテスト教会

2024-11-03 召天者記念礼拝説教

天の故郷を思う

へブル書111316

木村一充牧師

 

 本日の礼拝は、召天者記念礼拝と銘打って捧げられる礼拝です。当教会で先に御国に召された方々を覚え、在りし日を偲び、またこれらの方々の魂が天国にあって憩うことを祈りつつ、ご親族の皆さまをお迎えして、故人を想起するための礼拝をささげるのであります。お手元の週報に、当教会の召天者のお名前を記した一覧表が折り込まれていますが、ここに挙げられている方々のほとんどの方と、私はお会いしていません。しかし、これらの方々が、当教会の一員として、あるいは教会員のご家族として長きにわたって教会を支えてくださったことを思う時、心からの感謝とお礼を申し上げたいのであります。まことにありがとうございました。同時に一方で、が当教会に着任し、私自身が葬儀において司式をつとめさせて頂いた方もおられます。今も心に残っている葬儀です。私どもの教会でともに信仰生活を送ったお一人お一人を、心を込めて御国にお送りする葬儀のわざは教会における最も大切な働きでの一つであります。

 旧約聖書の創世記によりますと、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」と書かれています。人間は土から造られた。それゆえ、やがていつかは土に帰ることになる。それは、すべての人に当てはまる厳しい現実です。人間は有限なものであり、何百年も生きることは出来ません。しかし、誤解を恐れずに申し上げれば、人の命に限りがあることは、逆に神さまによって定められた摂理ではないかとも思うのです。命に限りがあることによって、人間はおのれの限界を知り、神の前に謙虚なものとなることができます。さらに、神さまから与えられたその限りある命を大切にして、一所懸命生きようと努めることになります。命に限りがあることは私ども人間に、いかに生きるかという問いを投げかけてくれているのす。その意味で、召天者記念礼拝において、先に召された方のこと思い起こすことは、実は、残された私たちがどう生きるかという問題と真剣に向き合うことでもあります。

 ヨハネによる福音書11章を読むと、主イエスがラザロという病人の家を訪問した時、マルタとマリアの姉妹たちはイエスの到着が余りにも遅れたことを責めて、次のように言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」つまり、イエスが、驚くべき御業をおこなう人であることに最後の望みを抱いて待っていた。ところが、弟の最後の時にあなたは間に合わなかった。結局、あなたは弟ラザロに対して、何もして下さらなかった、そう言ってイエスを責めたのです。しかし、そもそも、イエスはラザロが瀕死の床に伏しており、一刻も早くイエスに来てほしいと、申し出た使いの言葉を聞いてこう言っています。「この病気は死で終わるものではない。たちの生の行き先、人生の行き着くゴールは、死ではないと言っているのです。しかし、世の多くの人は人の人生は死でもって終わる。死ねば無となるのであり、何も残らない。ただ虚無のみ。私たちの人生のゴールは無であると思っているのではないでしょうか。だから、命あっての物種であり、死んで花実が咲くものかと考えるのです。

 しかし、聖書はそうではないというのです。それは、イエスご自身が、十字架上で死なれたあと3日目に墓を突き破って、弟子たちの前に姿を現わしてくださったからです。イエスご自身が復活され、今も生きておられるのです。私たちは、その復活の命・永遠の命を頂き、神によって覚えられる命に生きるのです。地上の生を走り終えると、今度は天に引き上げられる。そこで主と共に生き、神を礼拝するのです。神さまは地上の生を終えた私たちに「天の住まい」、「天にある故郷」を用意してくださるのです。

 そこで本日の聖書、ヘブライ人への手紙11章を読みましょう。すぐ前の段落には、信仰をもって死んでいったイスラエルの信仰の父祖、族長たちの名前が挙げられています。創世記に登場するこれらの人々(アブラハム、イサク、ヤコブ)は、みな牧羊者、すなわち遊牧民でありました。草を求めて土地から土地へと移り住み、天幕、つまりテントを張って仮住まいした人たちです。もともとはカルデアのウル、つまりメソポタミア地方の出身ですが、そこからアラム・ナハライム、すなわちシリア北部に移り住み、そうしてパレスチナにやってきました。距離にして1000キロを優に超える、長い旅になります。これらの地域は、年間を通して雨が少なく、草がそれほど生えません。従って、羊や牛、山羊を育てるために、草を求めて移動したのです。決まったところに定住するのではなく、移動して暮らすのです。彼らは寄留者としての生涯を送りました。そんな彼らの放牧生活を支えたものは、何だっだのでしょうか。それが、信仰でした。信仰とは、神の言葉に従って生きること、未だ目に見えていないものを、実際に起こると信じて行動することです。アブラハムの人生は、この神の言葉に従うことによって切り開かれた人生でした。創世記12章によると、主なる神はアブラハムに次のような言葉を語りかけています。「あなたは生まれ故郷/ 父の家を離れて/ わたしが示す地に行きなさい。/ わたしはあなたを大いなる国民にし/ あなたを祝福し、あなたの名を高める/

祝福の源となるように。」「父の家を離れる」ということは、自分を育ててくれた家族と別れて、全く知らない場所で暮らし始めるということです。それは、アブラハムにとって安全な場所、家族の協力を得て安心して暮らせる場所を、捨てるということでした。私事で恐縮ですが、は大学を卒業してそのまま西南学院大学神学部に学士入学というかたちで、入学しました。それまで九州には一度も行ったことがなく、親戚や知人もいません。不安で一杯でした。しかし、福岡に行け、という神さまのご命令に従ったのです。アブラハムもそうでした。アブラハムはゆく先々で、主のために祭壇を築きました。礼拝をささげて、その都度神の御声(みこえ)を聞こうとしたわけです。旅の途中で飢饉に遭い、エジプトに避難したこともありました。アブラハムが選んだ場所を神さまが祝福すると言われたのは、それよりもっとあと、15章になってからのことです。アブラハムは、行く先々で神を礼拝する生活を重ねながら、神の言葉に聞き従ったのです。

 このように、信仰とは目に見えるものに依り頼むのではなく、目に見えないものを信じて自分を賭けることです。神が語られる言葉を、その通りになると信じて行動することです。私たちも目に見えるものに心を奪われ、それに振り回されて、神の言葉を聞くことをおろそかにすることが無いように心がけたいのです。目に見える現実は、心が暗くなるようなことばかりです。世界の各地で戦争が続いています。わが国では、先日総選挙が行われました。今週は、アメリカで大統領選挙がおこなわれます。いったい、この国と世界の行く先はどうなるのか、今は先行きの見えない、不透明な時代なのではないでしょうか。しかし、地上の事柄に一喜一憂してもはじまりません。イスラエルの父祖たちと同じく、先行きの見えない中で、しかし神の言葉にしがみついて生くのです。彼らは天国を仰ぎ見ることによって、たゆむことなく前進し、信仰者としての人生を全うしました。彼らのとって地上の生は仮住まいであり、本当の故郷は天にあると彼らは信じていました。天国こそが本当の都であったのです。

 本日の午後には、教会の墓地で墓前礼拝がおこなわれます。人口減少にあるわが国では、親族がもはやその故郷に一人もいなくなり、お墓を維持できなくなるという話を聞きます。墓じまいという言葉も耳にするようになりました。しかし、教会はそのようなことはありません。しかし、もっと踏み込んで申せば、私たちの故郷は地上にあるのではありません。天に故郷があるのです。地震や洪水による土石流や火山噴火などの天変地異があろうとも、びくともしない天の故郷(ふるさと)、そこが私たちの帰るところです。墓所は、たしかにお骨を治める場所ではありますが、私たちが住まう場所ではありません。私たちの住まいは天にあるのです。アブラハム、イサク、ヤコブはその天国をはるかに仰ぎ見ながら、喜びの声を上げ、地上では寄留者として歩みました。そこに希望があったのです。信仰に生きる者にとって、死は決して恐ろしいものではありません。むしろ、天国に住まう第二の命の始まりです。本日の召天者記念の礼拝を通して、「死は決して終わりではない」ということを深く心に刻みたいと思うのであります。

 

お祈りいたします。