栗ヶ沢バプテスト教会

2024-11-10 子ども祝福礼拝説教

子どものようになる

マタイ1815

木村一充牧師

 

 本日の礼拝は、「子ども祝福礼拝」と銘打ってささげられる礼拝です。さきほど、教会につながる子どもたちに前に出てきてもらいましいた。そこで、子どもたちの健やかな成長を祈り、教会全体で子どもたちとそのご家族の上に神さまの祝福があるように祈りました。教会に子どもたちが与えられていること、その存在そのものが、教会にとって大きな恵みであり喜びであります。子どもたちには未来があり、可能性があります。そのことを教会全体で分かち合い、子どもたちから元気をもらうのです。それによって、教会も成長するのではないでしょうか。

 創世記の21章をよむと、アブラハムとサラとの間にイサクという男の子が与えられたことが書かれています。この時、アブラハム100歳、サラ90歳でした。通常では考えられないような「超高齢出産」の条件のもとでイサクが生まれたのです。それは、神さまが起こされた奇跡でした。かつて、主なる神はアブラハムに次のように語られています。すなわち「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。」イサクの誕生は、この約束の言葉が成就した出来事でした。こうして与えられたイサクは、やがて成長し、乳離れする年齢になります。(2歳前後でしょうか)創世記に21章によると、「アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた。」と書かれています。その日は、召使いを含めた家中の者がみな仕事することを止めて、イサクの成長感謝の祝宴の席についたと思われます。わが国で言えば、七五三のお祝いに当たるでしょうか。しかし、この時のアブラハムの祝い方は七五三どころではありません。一族郎党全員が集まり、イサクの乳離れを総出で祝ったのです。本日の子ども祝福式は、それと同じくらい嬉しい喜びの出来事であります。

 旧約聖書の詩編1273節に、次のような御言葉(みことば)があります。「見よ、子らは主からいただく嗣業。/ 胎の実りは報い。」子どもは、神さまから授かったものであり、「報い」(reward; 英)であると聖書は言います。子どもは、親の所有物ではありません。そうではなく、神さまから頂いた賜物であり、親は、神の賜物であるその子のよき管理者として、その子が神の御心(みこころ)に従って育つように力を注ぐのです。次の世代を担う子どもたちを、神の御旨(みむね)に適うように育てるということは、各家庭と同様に、教会に託された大切な働きであります。私は、さまざまな理由で、実の親の手では育てられないという困難な事情をかかえた子どもたちの里親となって、4人の子どもたちを夫婦で引き取り、その全員を育て上げる働きをしてきた一組の夫婦を知っています。その夫婦は前任教会の教会員で、お父さんはアメリカ人の宣教師の方です。4人の子どもたちは、男の子が二人、女の子が二人ですが、全員実の親が違います。けれども、彼らは家族、また兄弟として助け合いながら、全員明るく、たくましく生きています。一番上のお姉さんは、TCU(東京キリスト教大学)に入学し、勉強とアルバイトをしながら将来のために研鑚を積んでいます。(もう、卒業されたかもしれません)今から10年余り前、ご家族が墨田区に住んでいたとき、一度家族全員で日曜礼拝に出席されたことがありました。その日は、午後から教会の大掃除が予定されていたのですが、4人の子どもたち全員が教会に残り、一所懸命大掃除を手伝ってくれました。私は、その姿を見ながら、神さまによって結ばれた家族の子どもたちは素晴らしいと思わされました。神さまから与えられた子どもたちを、神さまが喜ばれるように育てるということは、やりがいのある仕事であります。

 本日お読み頂いた聖書の箇所は、マタイによる福音書181節以下です。ここでは、弟子たちがイエスのところにやってきて、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねる場面が記されています。天の国とありますが、この言葉は他の福音書では神の国と書かれています。そこは、神さまが完全なかたちで支配しておられるところです。しかし、弟子たちは、その神の国に地上の国家にあるのと同じような序列を持ち込みました。イエスがメシアとして王となり、地上のあらゆる権威、権力を従わせて王的な支配を始められる時、いったい自分たちの中でだれが一番の弟子となるか、という話題を弟子たちは、すでに何度か議論していたようです。しかし、このような質問を投げかけることを見ても、弟子たちは天の国がどのようなところかが全然分かっていませんでした。もし、人が何かの権力や野望の達成、人々からの称賛や名誉を、天の国において勝ち取ろうとするならば、それは完全に的を外していると言うべきです。なぜなら、天の国とは神さまが完全なかたちで支配されているところであり、そこに集う民は自分を捨て去り、自分を富ませるのではなく、神と奉仕するために自分をささげる者として召されているからです。人が、自分自身こそが最も大事だと考えている間は、人は天の国に背を向けています。天の国に入れられるために、人は方向転換をして、それまでの考え方の反対の方向に行かねばならないのです。3節にある「心を入れ替える」とは、翻って生きるということです。

 では、ここでイエスが言われる「子どものようになる」とはどういう意味でしょうか。主イエスはここで明らかに、子ども、幼児の中に神の国の民にふさわしい者としての美しい特色を認めておられます。それは何でしょうか。イエスは、ここで子どもの持つ大きな特徴を見いだしておられます。それは次のことです。すなわち、第一に、子どもは誰かに依存して生きている、ということです。自分に親などはいらない、自分は一人で生きてゆくのだ、と考える子どもは滅多にいません。生活の糧を得ることから始めて、子どもは誰かに依存して生きています。自分を愛してくれる人、自分を受け容れてくれる人、そして、やがて社会で独り立ちできるように、必要な教育を施してくれる人が子どもには必要です。これらすべてに、共通することは誰かの助けを借りなければ、子どもは成長することができないのです。実は、このことは信仰の世界においても全く同じです。もし、私たちが、自分が今こうして生きている背後には神さまの守りと助けがあるという事実を忘れるならば、人は傲慢になってしまうのではないでしょうか。今月のはじめ112日の土曜日に、Nさんの1周年記念会がおこなわれました。その記念会で、私はNさんがバプテスマを受けた時の信仰告白を、皆さんの前でお読みしました。Nさんは1999年の4月、脳卒中で倒れ、一時は命も危ぶまれるほどでしたが、その後回復して、外出さえできるようになりました。担当医師によると、脳出血が奇跡的に脳幹の手前で止まり、奇跡的に命が守られたというのです。そのことは、人間のわざではありません。この時、ご長男は留学先のアメリカでクリスチャンになっていましたが、通っていたアメリカの教会では、教会をあげてNさんの無事を祈る祈りがささげられたそうです。Nさんは、その事実を後で知って、涙が止まらなかったそうです。そして、神さまを受け容れ、元気になったら教会に行こうと決意して、その年の暮れにバプテスマを受けられました。

 第二の特徴は、背丈をとってもそうですが、子どもは神の前に小さく低い者であるということです。ちなみに、本日の箇所の1節に「だれが一番偉いのでしょうか」とある、「偉い」と訳されているもとのギリシャ語は「大きい」という意味をもつ形容詞が使われています。地上の世界では、もっと大きくなろう、もっとお金持ちになろう、もっと広い領土を持とう、という考えのもと、激しい生存競争がおこなわれています。ロシアとウクライナの戦争も、この領土をめぐる戦いにほかなりません。しかし、そのような考え方では神の国に入ることはできないというのです。自分を大きくするための生き方は、奪い取る生き方です。一方、神の国に入るとは、自分ではなく神さまを大きくし、子どものように自分を低く小さくする生き方です。そのことによって、社会的に弱く小さくされた存在と連帯し、これらの人々のことを大切にしながら、全体の幸せを考えて行動するのです。

 主イエスが語られた神の国とは、自分の力に頼み、自分で自分のことを救おうとするのではなく、神の支配の中に自分を投げ入れ、すべてを委ねる生き方へと方向転換することを説く(とく)メッセージでした。救いを神の側に置きなさい、神を中心にして生きなさいというメッセージでした。幼子にはそれが出来るというのです。子どものように、神の国を受け入れる者になりましょう。神さまは、そのように低く小さくされた者を、大きく祝福し、恵みと祝福を豊かにお与えになるのです。

お祈りいたします。