栗ヶ沢バプテスト教会 2024-11-17 主日礼拝説教

神に従う人」詩編116

木村一充牧師

 この朝お読み頂いた聖書である旧約聖書の詩編は、ヘブル語の題名で「テヒリーム」と呼ばれ、元来は「賛美」または「賛美の書」という意味であります。詩編はその意味で「賛美歌集」であると言ってよいかもしれません。その名の通り、イスラエルの人々は、この詩編に旋律、すなわちメロディーをつけて礼拝や集会の中で歌いました。たとえば共観福音書の中で、受難週の木曜日に、主イエスと弟子たちが最後の食事をとったあの最後の晩餐の場面において、「一同は賛美の歌を歌ったのち、オリーブ山へと出かけた」という有名な御言葉(みことば)があります。この「賛美の歌を歌ったのち」と書かれているのは、「詩編を吟じたのちに」という意味です。このように、詩編は礼拝や集会の場で賛美歌として用いられたのです。この詩編に記述される内容は、祈りや賛美、悔い改めやとりなし、さらに自らの信仰の告白など、実に多岐にわたっています。詩人は、自らの信仰生活の中で経験するさまざまな出来事を通して、自身の深い喜びや悲しみ、希望や恐れ、主への感謝や、逆に主への疑いや反発の言葉を、正直に包み隠さず言い表しています。それによって、自らの魂を神の前に放り投げているのです。

 詩編は全部で150編あり、新旧約の聖書の中で、もっとも多くのページ数が割かれている書物です。詩編はいくつかの詩が集められた歌集であって、何世紀にもわたって歌い継がれた詩歌集が一冊の書物にまとめられたと見られます。わが国には、奈良時代の末期に成立した万葉集という和歌集がありますが、それに似ています。万葉集には、天皇の歌も入っていますが、下級役人や農民、さらには防人の歌なども収録されていますね。ここには、全部でおよそ4500ほどの和歌が収められているといいます。桁数は違いますが、詩編もこれと似ています。たとえば、詩編には「ダビデの歌」というタイトルがついた詩があります。これは、詩編の中に、ダビデ王の名を借りて作られた詩集(いわば「ダビデ歌集」)があったことを意味しています。ところが、この朝お読み頂いた詩編1編には、タイトル(小見出し)がありません。このことから、この詩編1編は、他の詩編よりもあとに書かれた詩であって、詩編全体を要約する緒論的詩編として全体のまとめとして付け加えられた詩編である可能性が高いと、研究者たちは考えています。

 以上のことを前置きとして、本日の詩編の内容に入ってゆきます。詩人は、この詩編のなかですべての人に、二つの道が開かれていることを語っています。その二つの道とは、神に従う道と神に逆らう道です。そして、前者、すなわち神に従う道を選び取る人は幸いである、と宣言します。どのような人が幸いであるかを、詩人は1節において3つの否定的・消極的な表現で示していますが、これが詩人の一番言いたいことではありません。そうではなく、幸いであることの本当の根拠は2節にあります。そこで、1節を読みましょう。「いかに幸いなことか/ 神に逆らう者の計らいに従って歩まず/ 罪ある者の道にとどまらず/ 傲慢な者と共に座らず」とあります。ここでは、幸いな人とは、以下にある3つのことをしない人のことだと言っています。第一は「神に逆らう者の計らいに従わない」ということです。計らいとは「計画」や「誘い」と言う意味です。今、千葉県を含む関東一円で起こっている強盗・傷害事件がニュースで取り上げられています。いわゆる「闇バイト」で若者たちに募集をかけ、免許証のコピーを求め、あるいは携帯電話の番号をおさえた後に、犯罪の指示を与えて行動させる。もし、これを拒否したら先ほどの個人情報をもとに脅迫され、危険な目に遭わせるという卑劣な犯罪が流行っています。甘い言葉に釣られて、ついつい犯罪行為に巻き込まれたら、それから先の人生が台無しになってしまいます。そのような「神に逆らう者」のはかりごとに決して乗ってはなりません。何が正しくて、何が間違っているかを聖書の御言葉(みことば)から聞き取るのです。出エジプト記20章の十戒には「盗むな、殺すな、姦淫するな」という有名な言葉がありますね。詩人は、幸せになるために、神に逆らう者と一緒に歩むなと記すのです。

 第二は「罪ある者の道にとどまらない」ということです。そうは言っても、私たちは聖人君子ではありません。ときに間違い・過ちを犯してしまいます。私はスピード違反をしたことはほとんどありませんが、だいぶ前に東北自動車道を140キロで飛ばした時は、実に気持ちが良かったことを覚えています。その日は平日で、前にも後ろにも車がほとんど見えなかったので、ついつい調子に乗ってしまったのです。そのことが違反であることが分かっていても、罪を犯してしまう。それを、ある意味で快感に覚える一面があることも否定できません。しかし、仮に罪を犯すようなことがあっても、その道にとどまるなと詩人は言うのです。その罪の道から早く離れて、まっとうな道にもどりなさいと聖書は説くのです。サラリーマン時代に、は営業の仕事をしていました。私が勤めていた会社は、与えられた目標を何ヶ月か連続して達成すると、すぐに昇給、昇格という人事考課となって反映される、きわめて単純でわかりやすい会社でした。しかし、そうとなると何とかして目標を達成しようとして、よくないことをする人も出てくるのです。(詳しくは申しませんが、たとえば契約書の日付を変えるというようなことです)しかし、私はそのような「よくないこと」をしませんでした。ルール違反をして、ウソで塗り固められた結果を申告し、自分は得をしたとしても、会社は損をするわけです。さらに言えば、私が勤めていた会社は東証一部上場会社でした。株主に対する責任、会社の信用を毀損させない義務があります。「神さまが見ている」という感覚が、幸いなことに悪しき行為から私を守ってくれました。

 第三は、「傲慢な者と座らない」ということです。ここで詩人は、人間の罪がより深刻化するプロセスを3つの動詞を用いて表現しています。最初は「歩む」という行為です。二番目は「とどまる」つまり「立ち止まる」という行為です。そして三番目が「座る」という行為です。傲慢な者とは、神を神とも思わずに高ぶる者、自分こそ神だと居直る者のことです。そのような者の座にたちが座り込んでしまう、つまり、罪の生活になじんでしまうそのような生き方への警告の言葉がここに記されています。私たちが罪の深みにはまるのは、往々にして「はた目にはっきりと分かる仕方において」ではありません。目に見えて、日に日に罪の生活が加速されていくというのではない。他の人が気が付かないうちに徐々に、少しずつ罪に支配され、いつの間にかどっぷりとそこに浸かってしまうということが多いのです。ニュースでも、悲惨な事件を犯した犯人を知っている人が「まさか、あの人がこんな事件を起こすとは思ってもみなかった」とコメントするケースがあります。罪の持つ恐ろしい性格がそこにあります。私たちも、傲慢の者が座る座に、どっかりと腰を降ろさないよう心掛けたいものです。

 一方、続く2節には1節とは逆に、幸いな人がどのような人であるかが二つの肯定的・積極的な表現で示されています。第一は「主の教えを愛する」人です。愛するとは「大事にする」ということです。私はある婦人から、次のような愚痴を聞かされたことがありました。「先生、うちの主人は一度買ったものは、どんなにそれが古くなっても捨てないのです。断捨離どころではありません。主人の部屋はモノで溢れているのです。」私は応えました。「いいじゃないですか。あなたも決して捨てられることはないでしょうから」と。幸いな道は、神に逆らう者への否定的な対応という消極的な行為だけで貫けるものではありません。むしろ、主の教えを愛するという積極的行為によって貫くのです。人間は誘惑に負けやすいものです。その誘惑を断るには、誘惑以上に好きな良いものを持つ、つまり主の教えを愛することが必要ではないでしょうか。そのために、「その教えを昼も夜も口ずさむ」ことをしなさいと詩人は言います。口ずさむとは、主の教えを何度も口の中で唱えることで、教えを咀嚼し、行動の指針として定着させるという意味です。江戸時代、今の福島県にある会津藩には日新館という藩校がありました。のちの白虎隊もここで教わったという藩校です。ここでは武士の子弟に向けた「(じゅう)の掟」という教えがありました「一つ、年長者の言うことにそむいてはなりませぬ」「二つ、年長者にはお辞儀をせねばなりませぬ」一つ飛ばして「四つ、卑怯なふるまいをしてはなりませぬ」「五つ、弱い者をいじめてはなりませぬ」という具合に、全部で十個のやってはいけないことを教えたのです。その最後の言葉はこうです。「ならぬことはならぬものです」つまり、ダメなことはダメと言い切ったのです。教えに逆らう理屈など言うな、と教えたのです。幕末期の会津藩が,戊辰戦争で江戸幕府を支えるため、明治政府と戦った背景には、このような武士道をとく教えがありました。かつて、会津藩の子どもたちはこの「什の教え」を昼も夜も口ずさんだに違いありません。私たちも同様に、幸いな人生を歩むために主の教えを口ずさみなさいと詩人は言うのです。そのことを心がけようではありませんか。続く3節で、その人は「流れのほとりに植えられた木」だと言われます。雨の少ないパレスチナでは、種を蒔かれて芽吹き、成長して立派な葉をつけた植物が、夏の日照り・暑さで枯れてしまうことが珍しくありませんでした。しかし、水路のほとりに植えられた木は、そのような時も青々と葉を茂らせ、豊かな実を結ばせることができます。神を信じこれに従う者の人生は、その生涯をとして見るとき、そのように実り豊かな人生であると詩人は言うのです。

 しかし、次の4節で、これとは正反対の文章がつづられます。「神に逆らう者はそうではない。/ 彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。3節の「木」と言う言葉はヘブル語では「エーツ」といいます。一方、この4節の「もみ殻」はヘブル語で「モーツ」といいます。詩人は、ここで「語呂合わせ」のように二つの言葉を用いてそれを対比し、似たような発音をする言葉でありながら、人が人生の収支決算を迎えた時、どれだけ、その両者がかけ離れたものになっているかを説くのです。私たちは神によって造られたものです。その人生が、風に飛ばされるもみ殻のように軽く、むなしく、価値もない人生で終わってしまってはなりません。誰もがわかることですが、幸いな人生とは、もみ殻のような人生ではありません。しっかりと足を大地にすえ、神と親しく交わり、神の言葉を愛し、御言葉(みことば)によって生かされつつ、神を信じて歩む人生こそ、幸いな人生であると、詩人は宣言します。

 確かに、この世の営みで成功して富や地位、名誉を得ることは、一概に悪いことではありません。しかし、それ以上に、自分の人生が神さまに祝福され、守られ、自分の人生はこれでよかったと確信を持って死ねる。自分の人生を喜ぶことができる。それこそが幸いな人生ではないでしょうか。本日の詩編第1編は、そのような人生を歩むために、主の教えを愛し、これを口ずさむ者になりなさいと説くのです。

お祈りいたします。