2024-11-24 世界祈祷週間礼拝説教
「信仰のない私を」
マルコ9:14〜24
木村一充牧師
今朝の礼拝は、世界バプテスト祈祷週間を覚えてささげる礼拝であります。この世界祈祷週間は、中国伝道に生涯をささげた宣教師、ロティ・ムーンの信仰を受け継ぎ、バプテスト女性連合の働きとして1931年から始められた世界伝道を推進するための活動です。その期間は、毎年11月の最後の日曜日から、12月の最初の日曜日までと決められています。この間、世界伝道の働きとともに国内伝道のために祈り、またささげる8日間とするのです。ちょうど全国壮年連合が、バプテスト連盟の3つの神学校と神学生支援のために、毎年6月下旬に神学校週間を定めて、神学校献金を呼びかけるように、バプテスト女性連合は、世界伝道をよびかけ、カンボジアで働く宣教師や、国際ミッションボランティアとして、短い期間世界の各地に出かけて教会の働きに仕える人々を支援するための献金を呼びかけるのです。このように、世界宣教と国内宣教の働きを覚えながら、クリスマス前の1週間を、祈りをもって過ごすのであります。
その世界祈祷週間の礼拝の朝に与えられた聖書箇所は、マルコによる福音書9章14節以下です。ここには、悪霊に取り憑かれ、しばしば引きつけ(てんかん)の発作を起こして苦しむ息子をかかえる一人の父親の姿が描かれています。今の時代なら、このような発作を抑える薬もあるわけですが、イエスの時代には、そのような医学的知識もなく、有効な治療法も見つかっていませんでした。人々は、このような発作は、本人が汚れた霊に取り憑かれた結果として起こっているのだと考え、病気の治療法よりも、むしろ悪霊を追い出す手段のほうをより真剣に追い求めました。本日の箇所を読むと、父親は、イエスがペトロを含む3人の弟子たちを連れて山に登り、まだ帰ってこないうちに、残された9人の弟子たちのもとにやって来て、息子の発作を癒してほしいと願ったことが読みとれます。藁をもすがる思いだったことでしょう。ところが、これを聞いた弟子たちが、イエスが他の箇所でしばしばされたように「悪しき霊よ、この子から出て行け」といくら命じても、この子の発作はやみませんでした。子どもは口から泡を出し、体を硬直させて、何度も倒れるばかりでした。弟子たちの癒しのわざは、何の力にもならなかったのです。しかも、間が悪いことに、この弟子たちの一連の様子をイエスの敵対者であった律法学者たちが横で見ていました。それ見たことか。お前たちが信じて、これまでさかんに人々に伝えてきた教えはニセモノではないのか。そのように、弟子たちのことを非難し、攻撃しました。弟子たちはこれに反論します。それを大勢の群衆が取り囲み、人だかりができるという状態で、辺りは騒然としていました。このような時に、主イエスが山を降りて弟子たちのところに戻ってこられたのであります。
これを見た群衆の一人が言いました。「先生、息子を弟子たちの傍に連れてきて、この子から汚れた霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした」これを聞いてイエスは言われます。19節です「なんと信仰のない時代なのか。」この時、 子どもに取り憑いた悪霊の働きをイエスは一切問題にしません。逆に弟子たちの不信仰を問題にするのであります。なぜでしょうか。実は、この事柄が書かれる前に、すでに起きていたことがあります。マルコ6章の13節をみてください。(71pです)12弟子が、イエスによって派遣される箇所です。12人が出かけて行きます。そこで、13節が続きます。「そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。」6章ではちゃんと、悪霊を追い出しているのです。ところが、本日の9章になるとそれができなくなっています。なぜなのか。以下は私の推測です。弟子たちは、イエスから派遣されて伝道を始めた当初は、イエスが教えられた通りに懸命に、全身全霊をもって祈り、癒しのわざを行ったのです。しかし、そうするうちにこの癒しのわざが自分の力によるものだと思うようになったのではないでしょうか。いつの間にか、自分の力に頼り、イエスの名による癒しのわざができなくなってしまう。以前のような純粋な祈りができなくなり、独りよがりの祈りになってしまう。何回かの癒しを成功させることで、いつの間にか天狗になり、本来あるべき祈りの姿、すなわち、自分を低くし、神のみ名だけを高くするという心砕けた祈りができなくなっていたのではないでしょうか。しかも困ったことは、そのことを当の弟子たち自身も分かっていなかったということです。先ほどの朗読の中ではお読み頂きませんでしたが、9章の28節(下の段落です)をみてください。弟子たちが家に入られたイエスに「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねています。弟子たち自身も、わかっていなかったのです。イエスは、この問いに答えて次のように言われます。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」 この言葉は、あなたたちは祈ることなしに悪霊を追い出そうとしたのだ、という意味です。あるいは、別の読み方もできる。あなたがたは祈ったかもしれない。しかし、その祈りは本当の祈りではなかったのだ、ということです。これはたいへん厳しいお言葉です。イエスというたいへんすぐれた教師のもとで、四六時中行動を共にし、その教えを傍らで日々耳にしていた弟子たちでさえ、いつの間にか正しく祈ることができなくなっていたということを、私たちは自分に関係ない他人事だととらえて読み飛ばすわけにはまいりません。ほんのわずかの慢心によって、私たちは不信仰に陥るのです。そのことを認め、私たちの祈りや信仰のわざがニセモノにならないよう注意したいのであります。
山川千秋というひと昔前のニュースキャスターがおりました。テレビでニュース解説をしていた方で重い病(ガン)にかかり、お亡くなりになった人です。奥さまが先に信仰に導かれ、その祈りの支えもあって病床で洗礼を受けました。後に夫妻の名前で「死は終わりではない」という本を出版しました。前任教会で、今も書籍棚に置かれている書物です。この本に書かれている内容で、私自身忘れることのできない一つのエピソードがあります。それはこういうことです。私も知らなかったのですが、この方はかつらをつけていたといいます。テレビに映っている姿は、髪の毛がふさふさでした。けれども、それはかつらであって、それを外すのは寝ている時だけでした。子どもにも髪の毛のない自分の頭を見せたことはないというのです。まだ外に出るだけの体力があるころ、東京の都心に地下鉄に乗って出かけました。駅の改札を抜け、階段をあがってタクシーを拾おうとしたときです。いきなり強い風が吹いてきて、かつらが飛んでしまったのです。10メートルも先に飛んでしまいました。夢中になって追いかけてそれを拾い、急いで頭につけて、タクシーに乗り込んだというのです。そのことを山川さんはあとで振り返っています。あの時は、とても恥ずかしかった。けれどもそれは神のご計画ではないかと思ったといいます。もし、これが他人だったら、自分は滑稽でしようがなかっただろう。お腹をかかえて笑ったかもしれない。しかし、それは自分のことだった。テレビというのは、人に虚栄心と妬みを教えるものだ。自分はその世界でずっと生きてきた。しかし、今の自分は神の前に立ち、人前で取り繕うのをやめ、妬みや虚栄心も引き裂かれて、裸になって生き、また死ぬことを学んでいる。自分は、今回の体験を通して何よりもそのことを思わされたと、書いているのです。これは、テレビという世界に生きている人だけの話だ。自分には関係ないことだと、私はとても言えません。特に、牧師という立場で、人から見られ、評価され、いい意味でも悪い意味でも話題にされる人間が、どれほど、人目を気にしながら生きていることでしょうか。だから、何か人に悪く言われると落ち込み、逆に褒められると有頂天になり、天狗になる。しばしば、カメレオンのようにみんなによい顔をし、自分を守るために八方美人になろうとする。まことに自己中心で始末が悪い存在、それが牧師であるということもあるのです。主イエスは、ここで弟子たちの不信仰を問題にされます。しかしそれは、ひとり弟子たちだけの事柄ではありません。けれども、その不信仰を我慢してくださるとイエスは言われるのです。
人々は、息子をイエスのところに連れてきました。すると、20節に霊はイエスを見ると再び息子を引きつけさせたと書かれています。もし、私がこの時の父親であればこう思います。「この人の癒しで、本当に息子の病気が治るだろうか。さきほどのお弟子たちと同様、治らないかもしれない」しかも、この子の発作は幼い時からずっと起き続けているといいます。半分諦めるような思いで、父親はイエスにこう願いました「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」これまで何人もの医者を訪ね、祈祷師を頼み、まじないもしてもらったことでしょう。しかし、そのたびに絶望を味わってきた。そのような経験の中で、「もし、おできになるなら」ということは無理のないことであり、逆に謙虚な言葉だったかもしれません。ここでもし、この子が治らなかったら、イエスが人前で恥をかくことになるという配慮さえあったかもしれないのです。しかし、イエスは言われます。「『できれば』と言うか。」つまり、条件を付けるつもりかということです。私たちの信仰生活は、条件つきだらけです。もしも、神さまがこちらの道を開いてくれたらそうしよう。でも、どうせ祈っても聞かれないから、自分は保険をかける意味で、今の歩みを続けよう。神さま、もしよかったら私を違う道へと導いてください。でもどっちでもいいですよ。そんな態度です。しかし、イエスは言われます。「できれば」と言うのか。「できれば」と言うなと言われるのです。なぜ、「できれば」と私たちは言いたがるのでしょうか。それは、自分が傷つきたくないからです。自分のすべてを神の側に明け渡して、安全地帯をなくしてしまう。そんな自分になることが怖いのです。しかし、神を信じるとは、それまで頼っていた自分の力によらず、神にすべてを明け渡すことではないでしょうか。保険付きの生き方をやめて、神の側にすべてを委ねるのです。神の前に降伏することです。その意味で、不信仰な自分の外に出ることです。イエスは、そのことを父親に求めました。
「信じる者には何でもできる。」というイエスの言葉を聞いて、父親はそれまでの自分の外に出ることを告白しました。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と。先ほど、わたしどもを憐れんでくださいと、複数形で願い求めていた言葉が、ここで単数形に変わっています。癒しが息子の問題ではなくなっていた。自分自身の問題になっていたのです。この言葉を聞いて、イエスは霊を叱り、息子から出るようにお命じになりました。息子は、いったん死んだようになりましたが、イエスが手を取って起こされると、立ち上がったといいます。新しい命への復活がおこったわけです。本日の癒し物語を通して言われていること、それは私たちは救いを求める時でさえ、自分の力に頼り、自分を守ろうとしているということです。イエスにすべてを明け渡し、神が存分に働いてくださるように自分を小さくしましょう。「信じます。不信仰なわたしをお助けください」とは、私たちの告白の言葉であります。
お祈りいたします。