栗ヶ沢バプテスト教会

2024-12-01 主日礼拝説教

 

「救い主誕生の預言」

イザヤ書 91-6

木村一充牧師

 

 12月になりました。本日は待降節第1週の日曜日であります。説教講壇の左手には、アドベントリースが飾られ、この朝1本目のローソクが灯されています。週報の巻頭言にも書きましたように、アドベント(待降節)とは、イエス・キリストのご降誕を待ち望むクリスマス前の4週間のことを指します。その間、ほとんどの教会でクリスマスリースが飾られ、ローソクを1本ずつ灯しながら週を重ね、最後の4週目の日曜日をクリスマス礼拝としてお祝いするのです。4本のローソクには、それぞれの意味があると言われます。1本目は平和の(ともしび)2本目は希望の(ともしび)3本目は喜びの(ともしび)、そして最後の4本目が愛の(ともしび)であります。これによると本日は1本目の平和の(ともしび)を点火したことになります。

 この朝、司式者にお読み頂いた聖書の箇所は、イザヤ書91節以下であります。この箇所は、旧約の預言者イザヤが、イエス・キリストが生まれる700年ほど前に、やがて来られるメシア、油注がれた王である救い主が、どのようなお方であるかを預言したところです。イザヤが預言者として召命を受けたのはイスラエルがオリエントの大国アッシリアによって侵略を受け、北王国が攻め滅ばされようとしている、まさにその時でありました。そのような危機の時代において、イスラエルの民は、神にのみ聞き従い、信仰に固く立たねばなりませんでした。人間の力に頼ってはならなかったのです。ところが、イスラエルの民はどのような行動をとったか、それが今日の箇所の直前の8章の19節以下に書かれています。彼らは、口寄せや霊媒に伺いを立てたのです。つまり、霊に憑かれた祈祷師まがいの人の言うことを、真剣に聞こうとしたのです。それと反対に、聖書の教えや証しの書を見ては「こんなものにまじないの力はない」と言って、それを無視しました。そのように人々が神を無視して生きる中で戦争が起きたのです。それが、紀元前734年に起きたシリア・エフライム戦争と呼ばれる戦争でした。これにより、アッシリア王ティグラト・ピレセルの攻撃を受けて北王国は滅ばされ、やがて首都のあるサマリヤは陥落します。イザヤは、北王国の滅亡は、イスラエルが神の言葉に聞こうとしなかったことに対する神の罰だと考えたのです。

 本日の9章には、このような悲劇を経験したイスラエルの民にむけて、それでもなお神が約束される希望のしるしを語ろうとするイザヤの預言が語られています。本日の9章のすぐ前に記されている数行は、以前の口語訳聖書では9章の中に組み入れられていた文章でした。9章と文脈上のつながりが深いため、9章の一部と見なされたのです。読んでみましょう。「先に/ ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが

後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた/ 異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。」ゼブルンやナフタリとは、イスラエルの12部族のうち、ガリラヤ湖に近い北イスラエル地方を受け継いだ部族の領地でした。ところが、そこがアッシリアの攻撃によって真っ先に攻略され、大勢のユダヤ人がアッシリアの捕虜となりました。代わりに、アッシリアの住民が移住してきて、ここに住むようになった。その結果、この地域は異邦人のガリラヤと揶揄されるようになったのです。しかし、この異邦人のガリラヤが神の栄光を受け、光り輝く時代が来るとイザヤは預言します。そして、1節が続きます。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/ 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」このような闇、すなわち苦難の中を歩んできたイスラエルの民に大きな光が輝く出来事、それがクリスマスの預言でありました。イザヤの預言の背後には戦争とそこで傷ついた民がいたのです。「光が輝いた」と過去形で表現されていますが、これは「預言者的な過去形」と呼ばれる文学手法です。預言者は、やがて起きるであろう出来事の成就を確信し、その確信に基づいて将来のことをすでに起きてしまったことのように語るのです。3節を読みましょう。「彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭/ あなたはミディアンの日のように/ 折ってくださった。」軛(くびき)とは、牛や馬を御する際に、首などをそこにはめこんで、耕作や荷物運びをさせる棒状の道具のことです。転じて、自由を奪うものという意味に使われるようになりました。敵国による支配のもとにあったイスラエルの民は、(くびき)を負わされた状態、つまり自由を奪われた状態でした。ところが、そのような軛や杖や鞭(これらは、捕虜となったイスラエルの民を牛馬のように酷使した時の道具で、「あなた」つまり来たるべきメシアがミディアンの日のように折ってくださった」と言うのです。ここにも「預言者的過去形」が使われています。現実をみると、人びとはなお軛(くびき)のもとにあります。しかし、それは取り払われるというのです。「ミディアンの日のように」というのは、士師記7章に描かれるギデオンの物語からの引用です。かつて士師の時代、ミディアン人がイスラエル領に襲い掛かり、イスラエルの脅威となった期間がありました。そのとき、ギデオンが召され、指導者として立たされました。ギデオンのもとにはミディアン人と戦うために大勢の民が集って来ましたが、神は集まってきた民を家に帰せとギデオンに言われます。この言葉を受けて、21千人が帰り、1万人が残りました。しかし、神はさらに「民はまだ多すぎる」と語られ、彼らを水辺に導きます。そこで、犬のように舌で水を舐める者、膝をついてかがんで水を飲む者を追加で帰しました。結果的に「水を手にすくってすすった者300人」だけが陣営に残ります。彼らが、ミディアン人と戦うことになりました。しかし、その夜の戦いは、結局神ご自身が戦われたのです。300人は、ただ角笛を吹いて叫んだだけだったといいます。こうして、ミディアン人は敗走しました。その時のように、メシアが到来するその日、軛からの解放、虐げる者からの解放が起こるとイザヤは預言するのです。クリスマスとは、自由を奪われ、さまざまな抑圧と困難のもとにある人々を真実に開放してくださる救い主が到来する日のことだと預言者は言うのです。

 クリスマスと言えば、子どもたちにとっては、サンタにプレゼントをもらい、ケーキを食べてお祝いする楽しい年末行事かもしれません。もちろん、子どもたちにとって楽しい日でもあります。しかし、旧約聖書によれば、それは戦争という悲惨な体験、平和な社会の喪失、人間の罪と正義の崩壊、そのようなカオス(混沌)の中で苦しむ人々に対する、神の救いの出来事なのです。考えてみれば「闇の中を歩む民」とは、イザヤの時代にだけいたのではありません。新約聖書の時代にもいました。それから2000年たった現代もいます。今なお、戦火が収まることのないウクライナの民がそうです。イスラエルとハマスとの争いにより各地に戦争が飛び火しているパレスチナの人々がそうです。時代を超え、民族を超えて「死の陰の谷に住む人」が次々と現れ、虐げる者の鞭に苦しむ人々が起こされているのではないでしょうか。それは、外国の話だと片付けるわけにはまいりません。わが国においても、ひと昔前にはなかったような凶悪な事件や犯罪が報道されています。ある意味でだれもが、闇の中を歩み、死の陰の地に住む者となりうるのです。そのような人々の上に、クリスマスは訪れ、解放と平和を与え、深い喜びと楽しみを与えるのです。

 イザヤはこのような戦争を収束させ、平和と喜びをもたらす王の到来を預言します。しかも、その王は「みどりご」、つまり赤子の姿をとってこの世にお生まれになるというのです。このメシアの名として、4つの名前が挙げられています。第一は「驚くべき指導者」です。英語では「wonderful counselor」と訳されます。わが国にもさまざまなカウンセラーと名乗る人がいますが、(私の偏見かもしれません)残念ながらこの人たちは相談には乗ってくれても、問題の解決は、与えてくれないように思えます。しかし、このお方は問題の解決を与えてくださるのです。第二は「力ある神」という名前です。「mighty God」です。ナポレオンというトランプのゲームでは、オールマイティであるスペードのエースが力を発揮します。キリストは、スペードのエースのようなお方だというのです。第三は「永遠の父」です。赤子の姿でこの世に来られたのに、その名は父だというのです。皆さんにとって父親とはどのような人でしょうか。答えは明らかです。家族を守る存在です。そのようにイスラエルの民を、父親のような配慮をもって守ってくださるというのです。そして、第四は「平和の君」です。「Prince of peace」と訳されます。この世のどこに平和があるでしょうか。20世紀は戦争の世紀と呼ばれました。ところが、21世紀になった今も戦争がくり返されています。人間の罪がそれをさせるのです。この地上に全き平和を実現するためには、たちは、自分の中にある罪に打ち勝たねばなりません。平和はお金で買うことはできません。私たちが罪に勝利することです。そのためには、イエス・キリストを信じ、神と和解することが必要です。

 人間には、だれでも罪と死の力が働いています。たとえ、表立った争いということにならなくても、心の中は憎しみや敵意で満ちているということがあるのです。そのような罪の力にキリストは勝利してくださいました。この世界と私自身の平和のためにキリストがお生まれになったことを認めつつ、この方を王としてお迎えしたいのであります。

 

お祈りいたします。