2024-12-15 大人と子どものアドベント合同礼拝説教
「マリアの賛歌」
ルカ1:46〜56
木村一充牧師
イエス・キリストの母となったマリアはどのような女性だったのでしょうか。彼女はガリラヤのナザレという村で生まれ育った少女でした。ナザレという地名は、旧約聖書に一度も登場しない名前です。おそらく、さびしい村、寒村であったことでしょう。彼女はこの時14,5歳だったと思われます。当時のユダヤ社会では、子どもの結婚相手は親同士が決めるということが通常でした。あいだに仲人のような人が入ることもありました。いずれにしても、子どもの時に結婚相手が決められることが多かったのです。マタイによる福音書によると、夫となる相手ヨセフは「いいなずけ」であったと記されています。いいなずけと呼ばれるのは、正式な夫婦関係が始まっていたということです。ただし、まだ同居生活は始まっていません。婚約を交わしてから、1年程度あとに結婚式が行われ、そこから同居生活が始まったといいます。ところが、そのようなマリアの前に、突然天使ガブリエルが現れ、次の言葉を言い放つのです。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」天使が語った言葉の意味がどういうことか、マリアには分かりませんでした。天使は続けて言います。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」それは、身に覚えのない神の御子の懐妊の知らせでした。まだ中学生か高校生くらいの年代の女の子に、あなたは神の御子の母親となるのですよ、という神さまからの御告げがくだったのです。マリアは驚いたことでしょう。同時に、ひどく困惑し、戸惑ったことであろうと思います。以前の口語訳では、このときのマリアの思いを「マリアはひどく胸騒ぎがした」と訳していましたが、この訳はよくありません。胸騒ぎがするとは「不吉なことがおこるのではないかという恐れや不安の中で、心が騒ぐこと」という意味です。そうではありません。ここは「混乱した」と訳すべきです。どういうことなのか、天使の言っていることの意味が分からず、思い乱れて気持ちの整理がつかなかったということです。彼女は、天使にむかって言います「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」そんなことはありっこないと、彼女は応えたのです。しかし、この34節の文章はもう一つ別な翻訳が可能です。その翻訳とは「どうすれば、そのことがおこりうるのですか」という訳し方です。この訳だと、マリアは、人間の常識や人間世界ではありえないことだけれど、神さまの力によればあり得るかもしれないと考えていたことを示唆します。なぜなら、彼女の親戚のエリサベトおばさんも、すでに老女と言ってよい年齢であるにもかかわらず、身ごもって妊娠6ヶ月になっていたからです。マリアの言葉を聞いて天使は言います。「神にできないことは何一つない」これに応えて、マリアは「お言葉通り、この身に成りますように」と答えるのです。まったく身に覚えのない神の子の懐妊の出来事、それは彼女にとってまさに「青天の霹靂」ともいうべき出来事でした。しかし、私たちも人生の歩みの中ではときにこういうことが起こるのです。それまで思っても見なかった事態の中に放り込まれるという経験です。マリアにとって、この事件は自分の人生はもちろん、命まで左右されるような大きな出来事でした。しかし、彼女は神の言葉に全面的に服従します。創世記3章で、エデンの園で蛇に誘惑されたエバが「決して食べてはいけない」と命じられた木の実を食べるという罪を犯しました。それ以来、人間はエデンの園から追放され、神から離れた生活を続けていました。しかし、このエバの犯した過ちは、マリアによって贖われたのではないでしょうか。イエス・キリストの母となったこの女性は、その意味で世界史を転換させたのであります。
さきほど子どもたちが朗読してくれた本日の聖書は、そのマリアがバプテスマのヨハネの母となるエリサベトの家を訪問したとき、マリアが歌った歌の歌詞が書かれているところです。マリアは、自分に身に起こったことの報告を兼ねて、エリサベトの家に挨拶に行きました。すると、このマリアの挨拶の言葉を聞いて、エリサベトのお腹の子が喜んでおどったというのです。エリサベトは、マリアとお腹の中の子どもであるイエスのことも祝福しました。マリアも同じようにエリサベトのことをお祝いしたことでしょう。エルサレムとナザレ、祭司の妻と大工の妻、老女と少女、生れも育ちも年齢も大きくかけ離れた両極端とも言える二人が、ここで救い主の誕生という出来事を前にして、一つになって喜んでいます。これがクリスマスの喜びではないでしょうか。考えてみれば、あのベツレヘムの馬屋の中もそうでした。幼子イエスの誕生の出来事を知らされ、そこに集ってきた人たちは誰だったでしょうか。まず、羊飼いです。東方の博士たちもやってきました。宿屋の主人も集ったかもしれません。そして、動物たちがいました。飼い葉桶の周りに集まった人たちとは、そのまま現代の教会の姿を指し示しています。身分や職業や国籍の違いなどを超えて、動物たちも含めて、救い主の誕生、すなわちクリスマスの出来事を喜んでいるのです。
エリサベトは最後に言います。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんとさいわいでしょう」このエリサベトの言葉を受けて、マリアが歌い始めた賛歌が本日の御言葉(みことば)です。マリア賛歌と呼ばれるこの歌は、ラテン語でマグニフィカートと呼ばれます。マグニチュードという地震の大きさを表す言葉は、このマグニフィカートと同じ語源からきています。マリアはこう歌います。「わたしの魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます」原語の「あがめる」(メガルノー;ギ)とは「大きくする」という意味です。メガという言葉は大きいという意味です。何を大きくするのでしょうか。それは、神さまを大きくするのです。ところが、このマリアの姿勢に反して、現代は神を忘れ、神の被造物である人間のほうが神より大きくなろうとする時代です。メガトンという単位は、人間や都市を破壊する爆弾の破壊力の大きさを表す言葉になっていますね。神さまを大きくすべきなのに、兵器、爆弾の殺傷能力を大きくしようとしている。それは、本当に悲しいことです。私たちは、マリアのこの賛歌を真剣に受け止めなければなりません。ここで「わたしの魂は主をあがめ」となっていて、「わたしは主をあがめる」となっていないことにも注意したのです。「わたし」ではなく、「わたしの心」が神をあがめる。そうせずにはいられなくなっている。宗教改革者のルターは、この箇所を説き明かして「マリアの心が、神への愛と賛美の喜びの中で浮き上がって動いている」と表現しています。続いてマリアは、自分自身を「身分の低い主のはしため」と呼んでいます。はしためとは女奴隷という意味です。創世記に登場するハガルという女性がそうでした。彼女は、アブラハムの妻サラのために主人アブラハムの息子であるイシュマエルを産んだ女性です。そのようにマリアは、夫ヨセフの子どもを宿す前に、神さまの子どもを身ごもり出産するのです。これほどの大変な使命を負わされた彼女が、自分を小さくして、逆に神さまを大きくするのです。同じ48節で「身分の低い、このはしため」とありますが、「身分の低い」と訳された原語の意味は社会的な階級や身分が低いというよりも、むしろ「神の前に低くされている」と受身形で表現されています。神さまの前にマリアは砕かれた存在になっているのです。実は同じ言葉が、マタイによる福音書11章のイエスさまの言葉にも登場します。「疲れた者、重荷を負う者はわたしのもとに来なさい。わたしは柔和で謙遜な者だから」という御言葉(みことば)ですが、この「謙遜な」という言葉と語幹が同じです。ルカは動詞、マタイは形容詞です。イエスというお方も、その母と同様に、神の前に徹底的に謙遜なものとして立っていたことが分かります。以上の点を総合してみて、マリアはどのような少女だったでしょうか。3つ挙げられると思います。第一に、マリアは神の言葉に従った人、御言葉(みことば)に従順な人でした。第二に、マリアは神さまの前に自分を低くし、逆に神さまを大きくした謙遜な人でした。そして第三に、彼女は神を喜び、神を賛美した人でした。昨日の午後にはオルガンコンサートがあり、たくさんの方が参加してくださいましたが、オルガン演奏だけでなく「証し」が素晴らしかったです。感動して泣きだす人もいるくらいでした。よい演奏はよき信仰者であるところから来るということを、改めて心に刻み付けられたコンサートでした。
このマリア賛歌ですが、51節から一転して社会的立場の逆転を訴える詩になっています。読んでみます。「主はその腕で力を振るい、/ 思い上がる者を打ち散らし、/ 権力ある者をその座から引き降ろし、/ 身分の低い者を高く上げ、/ 飢えた人を良い物で満たし、/ 富める者を空腹のまま追い返されます。」そう歌われます。ある人は、この部分を「革命の歌」と呼びました。ここでは神によって起こされる革命が予言されているというのです。しかし、マリアは社会革命の実現を望んだのではありません。そうではなく、やがてこの世にお出でになる救い主、キリストがどのようなお方であるかを預言したのです。それはイエスという救い主の登場によって逆転がおこるということです。イエス・キリストは、自分を大きくし、おごり高ぶるものを打ち砕き、逆に貧しい人、身分の低い人、虐げられているものに光を当て、むしろその人たちにこそ先に神の国に招かれているのだと語られました。そのような人たちに真っ先に神の祝福が訪れると説かれたのです。その意味における革命です。マリアの賛歌は、私たちに「生き方の革命」を促しています。すなわち、神を神として拝むことをせず、自分を人生の王さまにしていたこれまでの生き方を止めて、イエス・キリストに玉座に座って頂くのです。私たちの人生の王は、このお方だと認めるのです。そのことが起こらない限り、たとえ地上の国家にいくら革命がおきようとも、王さまが変わるだけで、別の新たな対立、争い、流血が起きることでしょう。フランス革命しかり、ロシア革命しかり、神の前に謙遜になること、神に砕かれることなしに、いくら革命によって支配者の首を挿げ替えたところで、根本的な問題解決にはつながらないというべきです。
さらに注意したいのですが、マリアは51節以下の「革命の歌」で表現される出来事を、未来形では表現せず、驚くべきことにすべて過去形で表現しています。この過去形は、今月の第1週に読んだイザヤ書9章と同じように、預言者的過去と呼ばれる表現法と同じです。終わりの時、未来に起こるであろうことが、マリアの歌ではすでに起こったものとして表現されているのです。私たちの祈りもこうでありたいのです。「何事でもあなたがたが祈り求めるものは、すでにかなえられたものと信じなさい」とイエスはおっしゃいました。今、私たちが住む世界は混乱を極めています。わが国もアメリカも、ウクライナもパレスチナも、これから先何が起こるか、私どもには予測さえできません。そのような時代のなかで、私たちは変わることのないもの、確かなものを見つめたいのです。それは、この世界に神の言葉が必要だということです。そのような混沌とした時代に、まことの救い主が来てくださることが必要なのです。ここにクリスマスの意味があるのです。
お祈りいたします。