2024-12-22 クリスマス礼拝説教
「飼い葉桶のイエス」
ルカ2: 1〜7
木村一充牧師
アドベント第4週の日曜日を迎えました。講壇のリースの4本のローソクすべてに火が灯され、本日はクリスマス礼拝として、多くの方と主イエス・キリストのご降誕をお祝いする恵みの時を分かち合っています。ご挨拶が必要です。皆さま、クリスマスおめでとうございます。このクリスマス礼拝の朝、与えられた聖書の箇所は、ルカによる福音書2章1節〜7節であります。ここには、当時のローマ皇帝であったアウグストゥスによって、帝国の全土におよぶ人口調査が行われたことが記されています。イエス・キリストがお生まれになったころ(一般に、紀元0年と言われますが、それより前だったと見る人もいます)のパレスチナは、ローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国は、世界史において初めてヨーロッパ、アジア、アフリカの3つの大陸にまたがる広大な領域を支配下におさめ、一人の君主のもとで多民族を統治するということを実現した巨大な帝国(empire)でした。この大帝国の建設にむけて、とくに力を発揮した人物が、本日のアウグストゥスというローマ帝国の初代皇帝でした。アウグストゥスという名前は、「崇高なる者」という意味を持つ称号(肩書)であります。彼のもともとの名はオクタビアヌスといいました。しかし、いつの間にか肩書が名前の代わりに使われるようになり、福音書の著者ルカの時代には、称号で呼ばれることが一般的になっていたのです。それは、ちょうどキリストという言葉が「油注がれた王」という意味をもつ称号(title)であるのに、いつの間にかイエスその人を指す言葉として使われるようになったのと同様であります。このアウグストゥスによって、それまで帝国の各地で起きていた戦争がすべて平定され、「ローマの平和」と呼ばれる時代がもたらされました。アウグストゥスは、支配下の住民から救い主と呼ばれ、あたかも神であるかのように崇められたのです。ルカは、賢帝として知られるこの皇帝アウグストゥスと、神の子としてこの世に来られ、ベツレヘムの馬屋でお生まれになったイエスとを、明らかに対比して描いています。皇帝アウグストゥスの支配は、人びとから持っている物を力ずくで奪い取る支配でした。しかし、神の御子であるイエス・キリストのご支配は、人々に豊かに与え、また人々に仕えることによって成立する支配です。そこには180度の違い、まさしく「逆転」があります。そうしてアウグストゥスの存在は忘れ去られ、その誕生日を知る人など誰もいませんが、逆にイエス・キリストの名前は全世界に響き渡り、その誕生日は2000年経った今もこのように世界中で祝われているのであります。
本日の箇所は、マリアの夫であり、ダビデの血筋をひくヨセフが、この人口調査の勅令に従って、身重であった妻のマリアを連れて、本籍地であるベツレヘムに登録をするために上った場面を描いています。キリストの降誕劇で必ず登場するベツレヘムの宿屋が出てくる場面です。ヨセフにとってベツレヘムは本籍地ですから、そこには本家があったことでしょう。人口登録をするいうことは、その本家のもとに足を運んで、本家の家長に、家族や資産状況を申告するということです。すなわち「うちの家には、何歳以上の男子が何人、子どもが何人、羊や山羊が何頭おります」というふうに申し出て、その数字が本家の家長を通じてローマの総督に伝えられ、住民台帳に記録されるわけです。ところで、このような人口登録はあくまでも事務手続きであって、わざわざ妻を引き連れて行かねばならない話ではありません。それなのに、なぜヨセフは出産が間近という身重の妻を引き連れて、わざわざ彼女と一緒にナザレからベツレヘムまで、直線距離にして120キロ、旅路で申せば、少なくとも1週間はかかる困難な旅を決行したのでしょうか。なぜ、彼はマリアの出産を手伝ってくれる家族のだれかにまかせて、一人で旅に出るということをしなかったのでしょうか。その理由はおそらく次の通りです。もしも、自分が留守にしている間にマリアが出産したとしたら、誰も彼女の出産の手助けをしてくれる人が誰もいなかったから。ヨセフの家だけではありません。マリアの実家でさえ、嫁入り前の娘であるマリアがヨセフのあずかり知らぬうちに身ごもったという事実を、とても受け入れることができなかったのではないか。間違いなく、ヨセフとマリアは、ナザレの村で人びとから白い目で見られ、肩身の狭い思いをしてきたのでしょう。マリアは姦通の罪を犯した女、またヨセフはそのようなマリアを妻として迎えた非常識な男だと。しきたりや因習に縛られ、かつ冷たい世間の目が注がれるこのユダヤ人の村で、彼らの出産を喜び祝ってくれる人、さらには、その出産に立ち会い、世話をしてくれるような人はいなかった。だから、ヨセフは身重のマリアをベツレヘムに連れてゆかざるを得なかった。要するに、ナザレの村にこの聖家族の居場所はなかったのです。
一方、彼らが困難な旅を承知でやってきたベツレヘム、ヨセフの本籍地であり、彼の本家があるこの町はどうだったか。宿屋はどこも満員であったと聖書には書いていません。じつは、人類学的な見地からいうと、セム語を話す部族の人々、すなわちヘブライ語やアラム語、アラビア語を話す部族の人たちは、他の部族と比べると、格別に部族の仲間を大切にするという特徴があるといいます。たとえば、一族の誰かが他の部族の者から侮辱を受けたような場合、一族をあげてその仕返しをするほどに強い結束力があったというのです。ですから、もしも部族の中で、誰かの家で新しい命を授かり、子どもが生まれるというような場合、親戚一同で大喜びをするのが普通でした。ところが、ヨセフはその親戚の家の敷居をまたぐということすらできていません。せっかくの本籍地の町、本家がある町なのに、ヨセフとマリアは驚くほどに孤立しているのです。私は本日の説教を準備する中で、この事に気付かされて悲しくなりました。マリアとの結婚、さらには最初の子の出産が、親戚の人々から少しも受け入れられていなかったということです。本日お読み頂いた2章7節の文章を読みます。「初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」そう記されますが、後半の原文に「泊まる」という意味の言葉はありません。「宿屋には、彼らの場所がなかった」と書かれているのです。しかし、この聖家族にとって、場所がなかったのは何もこの宿屋だけではありません。ナザレもそう、ベツレヘムもそうです。要するに、彼らはゆく先々で場所を持つことができなかったのです。厳しい言い方をすれば、イエス・キリストは、ご誕生の時からまさにホームレスとしてお生まれになったということです。しかし、この事実こそが、本日の箇所が伝えようとするクリスマスメッセージであると私は思います。イエスというお方は、生きる上での場所を持たないような人の悲しみを知っておられる。そのような人に、場所を提供することをご自身の生涯の目的としてお生まれになり、そして死んでゆかれたのです。
私はお聞きしたいのです。皆さんはいかがですか。皆さん方には本当の意味において「場所」がありますか。自分の居場所だけではありません。そこには他者を受け入れる場所も含まれます。数年におよぶコロナ感染症の蔓延とその対応に追われる過程で、現代のわが国においては、人々の間で分断や格差がますます進行し、人々の心が冷え、これまでにない犯罪や痛ましい事件が頻発しているように思われます。先日は、15歳の男の子が、闇バイトに応募して警察に補導されるというニュースが報道されました。クリスマス会に必要なプレゼントを買うお金がなかったからだといいます。しかし、私たちはこの知らせを他人事で済ませることはできません。子どもの犯罪は、大人のそれをまねただけのことだからです。先日ある雑誌を読む機会がありました。ある若い女優さんのインタビューが載っていました。彼女は、子どものころとても貧しい家庭で育ったそうです。次のような体験を打ち明けていました。ちょうどこの季節です。彼女のお兄ちゃんが友だちの家で催されたクリスマスパーティーに誘われ、プレゼントを持ってくるように言われました。そこで、お兄ちゃんは大事にしていたビー玉を袋に詰めて持っていきました。すると、友だちから「こんなのいらない」と言って突き返されました。お兄ちゃんは泣きながら袋を持って家に帰ってきたそうです。私たちの心の中もそうです。きらびやかなもの、お金を受け入れる場所はあっても、相手の立場や相手の思いを受け入れる場所はないのではないでしょうか。
しかし、私は申し上げたいのです。イエス・キリストこそ私たちの場所だということです。私たちの本当の居場所は、このベツレヘムの馬屋でお生まれになり、布にくるまれて眠る飼い葉桶のイエスというお方の前であります。そこは、まさしく礼拝の場所です。全世界の救い主としてお生まれになったこのお方は、このとき宿屋の客間からも締め出され、ゆりかごの用意もないままに、家畜小屋のまぐさ桶の中に寝かされました。弱く小さく無防備な赤子の姿で、他の人の助けなしには生きてゆけないその姿は、そのまま私ども人間の姿を映し出しています。神が人となるというクリスマスの出来事は、全能全知であり、永遠であり、すべてのものをその御手の内に統べ治めておられる力ある方が、低く小さくなられ、弱さや破れのある罪ある人間の姿になられたということです。しかも、人間は死を免れることができません。しかし、そのようになられたのです。それは、神が栄光ある立場を捨てて人間の立場に立たれたということです。そこに大きな喜びと感謝があります。だから、礼拝せずにはいられないのです。
なぜ、神はそのような冒険をされたのでしょうか。理由はひとつです。そのことを通して、神が人の世の悲しみや嘆き、何よりも人間の罪と連帯し、その罪を赦し贖うことで、すべての人をまことの救いへと導くためです。救いとは何でしょうか。食べる物や着る物が与えられ、安心して眠る場所があればそれで救いが済む、つまり救済されるという人もいることでしょう。しかし、聖書はそれでは不十分だというのです。魂が救われなければ、人は本当の意味で救われたことにはならない。逆に、その救いがあれば、食べる物や着る物に多少の不足があっても問題にはならない。救いとはそういうものではないでしょうか。そのために、人間には罪の赦しが必要です。罪から解き放たれなければ、人間は本当の意味で救われたことにならないのです。飼い葉桶に生まれたこのお方は、やがて十字架につけられて死んでゆかれます。しかし、その死は決して無駄ではありませんでした。神が人となり罪人の姿をとって、私たちに代わって死んでくださったのです。その貴い代価により、私たちは罪の支配から解き放たれ、その罪が赦されたのです。ローマの信徒の手紙3章で、使徒パウロはこう説いています「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」と。飼い葉桶の木も、十字架の木も、同じ素材で作られています。この方のご誕生の場面が、遠くこの方の死の場面を指し示しているのです。この方は、すべての人を救うために死ぬことを目的としてこの世にお生まれになりました。しかし、飼い葉桶に生まれ、十字架で死なれたこのお方こそ、私たちを本当の意味で救うことのできるお方であります。本日の聖書は、そのことを示しているのです。
お祈りいたします。