2024-12-24 クリスマスイブ礼拝説教
「闇の中の光、心の目を開けよ」
Uコリント4:1-6
木村一充牧師
イエス・キリストの降誕の出来事は、夜の出来事でした。ルカによる福音書2章の8節以下によると、イエス・キリスト誕生の知らせを誰よりも早く聞いて、ベツレヘムの馬屋に真っ先に駆けつけた人は、その地方で夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちでした。羊飼いと言うと、私たちは牧歌的なイメージを抱きがちで、創世記に登場するアブラハムやイサク、ヤコブのように、ユダヤ人たちから一目置かれていた立派な仕事についていた人たちと思われるかもしれません。しかし、そうではありません。福音書記者ルカは、羊飼いたちを安息日を守ることの出来ない人、御言葉(みことば)から遠く離れた罪人として描いているのです。彼らが羊の所有者だったわけではありません。そうではなく、彼らは、一年で限られた期間だけ青草がはえるその季節に合わせて、雇い主が所有する羊を野外で育てるために雇われた季節労働者でした。生き物が相手の仕事ですから、休みはありません。動物の臭いのしみついた衣服を身にまとい、厳しい気候条件のなかで、野獣や盗人の難から羊を守り、日没後は羊たちを岩陰などで保護しながら、夜通し野宿することもしばしばでした。要するに、彼らは安息日ごとに礼拝をささげ、神の言葉に従うことをした信仰深い人たちの「対極」にいた人たちだったのです。羊飼いたちの心の中には、自分たちは神の言葉から遠く離れた罪人だという自覚があったことでしょう。彼らには経済的な余裕もありません。律法の教えを守り、信仰深く生きている人々にひけめを感じていた。そのような信仰深い人たちを恐れていたことでしょう。さらに、何よりも神さまを恐れていたに違いないのであります。ところが、その羊飼い、神から離れた罪人と見られていた彼らのもとに、クリスマスの夜、思いがけず主の天使が近づいてきたのです。それは、神の側からの接近です。それに続いて、主の栄光が彼らを巡り照らしたのです。まるで、この日の主役はあなたたちなのですよと言わんばかりに、クリスマスの光が真っ暗な野原にスポットライトのように彼らを巡り照らしました。彼らは驚いたに違いありません。天使たちは、第一声で語りました。「恐れるな!」と。「あなたたちは神を恐れているかも知れない。しかし、恐れなくていい。なぜなら、まさにあなた方のために、救い主がお生まれになったのだ」と告げました。
「恐れるな」と天使は語りました。ところで、皆さまにお聞きします。ふつう、皆さんは何を恐れるのでしょうか。日本語では怖い物の典型として「地震、雷、火事、親父」という言葉があります。そのうち前の3つは自然災害や事故、つまり命や財産をおびやかす思いがけない災いを表しています。つまり、予想外の災難を私たちは恐れるのです。しかし、神に選ばれた民であるイスラエルの民が恐れたことは、そのようなことではありませんでした。彼らがいちばん恐れたことは、神から捨てられること、別の言い方をすれば、神の祝福や恵みから外れてしまうことでした。彼らが一番恐れたこと、それは神の前に自分の罪がさらされ、その罪が神によって裁かれることだったのです。私はこの年になって、その意味がしみじみ分かるようになりました。人生の歩みの中で、私たちは人生の節目、転機となるような大きな出来事を経験します。それは、たとえばどの高校や大学に入るかという節目であり、就職や結婚もそうです。さらには、病気やケガ、思いがけぬ事故などもそれにあたるでしょう。それらは確かに自分の責任で選び取り、自分のせいで起きたことなのですが、しかし、それ以上に、自分の力を超えた外からの力が働いていることを思わされるのです。神の力があるから持ちこたえているのです。ある意味で、私たちは人生に対して無力なのではないでしょうか。神の守りがなければ、私たちの人生はまことに危なっかしく不安定で、自分が思った通りにうまく事が運ぶということのほうがむしろ珍しいのではないでしょうか。私事で恐縮ですが、私は先日文房具店で、来年2025年の手帳を買いました。その手帳の最後のメモ書きのページのところに、2025年の祈りの課題を書き込んだのです。順番に願い求めることを書いていって、今8個の祈りのテーマが書かれています。それらを見て、深く思わされることがあります。それは8個の願い求めのすべてが、自分の力で叶えられるものは一つもないということです。なぜ、私たちは祈るのか。それは私たちの人生は、自分の力でコントロールできるものではないからです。
羊飼いたちは、天使から「恐れるな」と言われました。神の言葉から遠く離れ、少しも信仰深い生活などできていなかった羊飼い、神を恐れることが当然であった彼らが「恐れなくていい」と言われたのはなぜでしょうか。それは、この夜救い主としてお生まれになったお方が、当時のユダヤの敬虔な宗教家たちがそうしたように、彼らの不信仰や彼らの神から離れた生活を責めたり、見下したりしないお方だからです。このお方が、すべての人の不信仰を赦し、すべての人を受け容れ救われるお方だからです。ここに、クリスマスの深い意味があります。全世界の救い主としてお生まれになったお方は、天上の高みから人間を見下ろすようなかたちで地上に来られたのではありません。イエス・キリストは、ベツレヘムの宿屋で客間からも締め出され、ゆりかごの用意もないままに、家畜小屋のまぐさ桶に寝かされる姿でお生まれになりました。神のみ子がもっとも低いところに降りてきてくださったのです。だからこそ、このお方は全世界の人にとって「大きな喜び」であります。クリスマスとはキリストのミサ、すなわちキリストを礼拝することです。私たちのために低くなられた方を拝み、私たちも身を低くするのであります。
今年一年を振り返るとき、まことに大変な一年であったことを思わされます。元日の能登半島沖の地震から始まり、現地の復興、復旧がなかなか進まない中で暑い夏が過ぎました。ウクライナもパレスチナも、戦争が終わるどころか、むしろ戦線は拡大し、終息の目途も未だたっていません。そのような中で、わが国では総選挙、またアメリカでは大統領選挙が行われました。時代が大きく変わろうとしていることはわかるのですが、しかしこの先どうなるのか、見通しが立ちません。まさに現代は、混迷の時代を迎えているのであります。先ほど、キリストの誕生を旧約の預言者イザヤの書9章が朗読されました。イザヤは、ここでキリストの誕生を「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」と表現しています。イザヤの時代、紀元前8世紀のパレスチナにも戦争があり、イスラエルの北王国が滅亡するという大変な出来事が起こりました。なぜ、世界が闇の中にあるのか、それは罪が人間の世界を支配し、人間が神のみ言葉から離れているからです。この世の利益を求め、妬みや競争心によって人を傷つけ、自己中心の思いに駆られ、自分さえよければ周りはどうなっても構わないと思っているからです。このエゴイズムの広がりによって、現代世界は、日本もアメリカも分断と格差がますますひどくなっていると思えて仕方ありません。このような時代だからこそ、人間と世界を正しく導く「神の言葉」が必要なのではないでしょうか。「闇の中を歩む民」のために、また「死の陰の地に住む人」のために、この世界を照らすまことの光が必要なのではないでしょうか。クリスマスは、このような人間「闇の中を歩む民」「死の陰の地に住む人」のために、訪れた神の憐れみの「光」であります。戦争や民族間の紛争で苦しむ人の上に、迫害や差別、また災害や苦難、重い病いで苦しんでいる人の上に、この憐みの光が届けられることが必要です。それによって問題が解決し、すべての人の心に深い喜びと平安が与えられるのです。
本日お読み頂いた聖書であるコリントの信徒への手紙二、4章4節で使徒パウロは偶像礼拝に染まったギリシャの町コリント教会に人たちにむけて、次のように語っています。「この世の神が、信じようとしない人々の目をくらまし、福音の光が見えないようにしたのです」と。私はパウロの眼力に驚かされます。なぜ、戦争が終わらないのか。なぜ差別やいがみ合い、凶悪な犯罪が終わらないのか。イエス・キリストによって示された神ではなく、この世の神が幅を利かせているからです。それは時にお金や名誉、地上の権力への欲望として、また時に自分だけがよければ人はどうでもいいというエゴイズムとして、私たちを支配します。しかし、このような神はすべての者を救うまことの神ではありません。私たちの心の目を開き、生きる上で何が一番大切なのか、どのお方が、まことの神であるかを悟る者になりましょう。クリスマスは、私たちを真実の神のもとに導く光の訪れの出来事です。
お祈りいたします。