2024-12-29 主日礼拝説教
「光の子として生きよ」
エフェソ5:1-14
木村一充牧師
本日は、2024年最後の日曜日であります。今年も残すところ、今日を含めてあと3日となりました。一年を振り返ってみて、皆さまそれぞれに忘れられない体験や出来事があったことであろうと思います。年の瀬の忙しい時期に、私どもはそれぞれのやるべきこと、課題をいったん傍らに置いて、こうして神さまを礼拝するために教会に集っております。この朝は、まず本日の聖書の箇所からしばし離れて、信仰生活における中断ということの意味を考えてみたいと思います。すでに報道されたことですが、先週12月26日に日本航空という会社において外部通信のためのネットワーク機器に対するサイバー攻撃があり、利用客の手荷物などをあずかるシステムに不具合が発生、JALの運行に大幅な遅れが生じるというアクシデントが発生しました。これによって、国内線と国際線合わせて71便に少なくとも30分以上、最大で4時間の遅れが生じたと報道されました。出発が4時間遅れたのは、羽田発ロンドン行きの国際線だったといいます。空港で4時間も足止めをくらうことを余儀なくされた人たちは、さぞや大変な思いをされたことでしょう。たとえば、翌日までにどうしても片付けなければならない案件を抱えていた人、取引先との重要な会議の予定が入っていた人は、それを順延または変更・キャンセルしなければならない。このような思いがけない事故で、やらねばならない営みを中断されることによって、大げさな言い方をすれば、私たちの運命や将来まで大きく左右される結果にもなりかねません。私たちは、このような「中断」を受け入れることができるでしょうか。
けれども、よくよく考えてみますとキリスト者と呼ばれる人は、この「中断される人生」を特別な仕方ですでに生きている人ではないでしょうか。日曜日ごとの礼拝に出席するということが、まさにそのことであります。日曜日を過ごす信仰生活において、キリスト者はそれまでの日常生活の営みを断ち切り、いわば人生を中断して、礼拝の中へと入ってゆきます。時には、そのことが苦痛に思えることもあります。日々の仕事や課題、責任や義務が私たちを拘束している。それを断ち切って、礼拝を選び取ることが甚だつらいということが、牧師においてさえあるのです。たとえば、久しぶりに大切な家族との出会いが年末年始にできる。一緒に温泉にでも入ってゆっくりしたいと思う。ところが、そこに日曜日がやってくるのです。牧師だけではありません。信徒の方もそうです。仕事が大忙しで、休んでいるような場合ではない。いま、まさしく佳境に入っている。今のこの時を逃しては間に合わない。そのような時に、礼拝の日を迎えそれを中断させられるという、無念の思いをもって教会に足を運んだことのある人は少なくないと思われるのです。しかし、キリスト者の人生が、この「人生の小さな中断」の連続であるとするならば、なぜ私たちは、そのような信仰生活をあえて選び取っているのでしょうか。日曜日ごとの人生の中断において、私たちキリスト者は何を学び、何を知らされているのでしょうか。それは、私どもの人生の中心は、結局は自分自身ではないということです。自分の人生の主人は自分自身ではなく、神こそがわが人生の主であるということを、私たちは礼拝を通して表しているのです。別な言い方をすれば、人生におけるこの日曜日ごとの中断を選び取ることによって、私たちは「神こそが私たちの人生の主だ」と言い切っているのです。
イスラエルの民は、かつてエジプトで奴隷の民としてファラオのもとに支配されていたとき、自分たちの信仰のままに「主こそ、われわれの神である」と告白することができませんでした。ファラオが主だと言わされたのです。このお方を礼拝するための時間(安息日)を持つことも許されませんでした。400年にわたって来る日も来る日も休みなしに働かされたのであります。そのような奴隷の民が、モーセに率いられてエジプトから脱出した時に、彼らが何よりも求めたことが、神を神とするための時間を持つということでした。彼らにとって安息日の定め(第4戒)は、決して強制されるべき定めではありませんでした。むしろ、かつて自分たちがエジプトの地で扱われていたような人間を牛馬のように酷使する支配体制ではなく、人間が本当の意味で人間らしく生きることを保証する制度としてこの安息日が与えられたのです。この日には動物たちも休ませるようにしました。安息日は、人間が本当の意味で人間らしく生きるための再生(recreate)の日、神と交わる喜びの日であると、彼らはシナイ契約において宣言したのであります。
そう考えると、私たちが日曜ごとにそれぞれの人生を中断することを選び取ることには確かな理由があることが分かります。たとえ、日々の仕事がどれほど私たちを夢中にさせ、どれほど素晴らしくやりがいのある仕事であるとしても、それをただ繰り返すだけの生活、中断のない人生には、本当の意味で人を慰め、生かし、その人の人生を救う力はないということです。このことは、厳しく認識されなければなりません。先週の祈祷会で、学校時代の同窓会のことが話題になりました。その方は、こう言われます。同窓会に出席する男性と女性の様子を見ていると、60代を境にして、男性と女性の元気度が逆転する。それまで、男性たちが同窓会では会社・職場での立場、働きぶりについて、意気揚々と自慢げに語り、女性は黙ってそれを聞くという状態であった。ところが、60代半ばを過ぎると今度は女性たちが元気になり、会全体をリードしておしゃべりになる。それに対して、男性のほうは仕事を止めると同時に肩書を失い、無口になってゆく。口を開いても自分たちの病気のことや亡くなった友人たちの話をするくらいで、内容が暗いと。木村先生は是非そのような同窓会に出て、彼らに神さまの話をしてあげてください、と言われました。それが現実なのかもしれません。ここで、私たちは次のことを悟るのです。それは、私たちの人生を日曜ごとに中断せしめ、ご自身のもとに呼び集めたもう神は、そのことによって私たちの人生を慰め、意味を与え、完成をもたらしてくださるお方であるということです。さらに申せば、この小さな中断を繰り返し経験することによって、私どもは自分たちの地上の生における決定的に大きな中断(死のことです)をも、神の支配のもとにある出来事として、従容としてこれを受け入れることができるのではないでしょうか。中断される人生は、神の支配の外にあるのではありません。そうではなく、中断される人生こそ人間の生の実相であり、神によるこの中断において、主こそ私たちの人生のまことの支配者であり、われわれを真実に慰め、また救うことができるお方であることを知るのであります。
そこで、以上のことを前置きとして本日のエフェソの信徒への手紙5章1節以下を読んでまいります。ここでパウロはエフェソの教会の信徒たちに大きく二つの勧告の言葉を語っています。その一つ目は、1節に記されます。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。」ここで「倣う」と訳されるギリシャ語には、パントマイムの語源になっている「ミメーシス」という言葉が使われています。模倣するということです。私たちが、何かの業に熟達しようと思ったら、まず先生の真似をすることから始めます。音楽や絵の世界でも同じです。室町時代の能楽師であった世阿弥という人は、その本の中で、能楽の道を志して弟子となった者は「即・離・破」という3つのプロセスをたどるべきだと説きました。即とは、師匠の傍にピタリと張り付いて、師匠の芸をひたすら真似るという段階です。次は「離」です。これは、師匠の芸を離れて、自分なりの創意・工夫を加えていく段階です。そして、最後が「破」です。これは、師匠の芸を破り、師匠を超えてゆく段階です。ただ、世阿弥が説くように、私たちは神を超えることはできません。ですから、パウロは「倣いなさい」といいます。キリストがご自分を神にささげたように、あなたがたも自分を神にささげて神に喜ばれるものになりなさいと勧告するのです。具体的には「イエス・キリストが示されたようなすべての人に対する犠牲的な愛をもって人を愛し、神がなされたように愛をもって人を赦す者となりなさい」ということです。キリストの教会は、先に信仰を与えられた者たちが、ただ自分たちを喜ばすために立っているのではありません。そうではなく、他者の救いのために他者に仕えるため、すなわち他者に奉仕するために立っているのであります。新しい年、2025年の私たちの教会も新しい人を喜んで迎える教会になりたいと思います。
二つ目は、8節に記される勧告です。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」あなたがたは以前には暗闇であった、とは本当の意味の救いを知らなかったという意味です。救いを知るまでの私たちは、この世の業、暗闇の業に感化されていました。具体的には「むなしい言葉に惑わされ」(6節)、不従順な者の「仲間に引き入れられて」いました(7節)。これはいつの時代も同じではないでしょうか。現代社会でも、虚しい言葉や偽りの言葉、とりわけ人の不安や欲望に付け込み、それによって人々を罪の道にいざなう邪悪な情報が巷(ちまた)に溢れています。そのような宣伝やアルバイトの募集広告にのって若者たちが犯罪に巻き込まれるという事態が、いまのわが国で発生しています。このような現代社会の中で、私たちは「何が主に喜ばれるか」を正しく判別しなければなりません。ゆえに、「光の子として歩みなさい」とパウロはいいます。ここで「光」とはどのような役割を果たすのでしょうか。第一に、光は暗闇を照らし、人々に正しい道や方向を指し示す導き手となるということです。旧約聖書の詩編119編105節に「あなたの御言葉は、わたしの道の光/ わたしの歩みを照らす灯。」という御言葉(みことば)があります。キリスト者にとって、神の言葉こそ光であり、私たちを正しい道に導いてくれるのであります。第二に、光は正しい物と悪い物を判別する能力を与えてくれます。パウロの時代、西南アジアの市場では、市場にある店舗に窓を設けることなく、囲いを巡らせた暗い台の上に商品が並べられました。そこで衣服や金物を販売した。客は品物を買う時は、表にそれを持って出て、太陽にかざして見分けたといいます。光は、商品の欠陥を見極める手段になったのです。キリスト者もおなじです。すべての物事を、キリストの光に照らして、是非を判別したいのであります。三つ目は光には浄化作用があるということです(14節)。私は知らなかったのですが、日光を浴びることで免疫力の向上、生活習慣病の予防、うつ病の改善、骨密度の維持向上、睡眠の質の向上など、いくつもの効果があるといいます。キリストの光にも癒しの効果があるのです。人の罪をあばき、これを責め立てることだけがキリスト者のつとめではない。そうではなく、人を慰め、励まし、癒す働きがキリスト者に出来るし、またそれが求められているのです。「光の子として歩みなさい」本日のエフェソ書の言葉に押し出され、新しい年もキリストの光に照らされて、光の子として歩みたいと思うのであります。
お祈りいたします。