2025-01-05主日礼拝説教
「先駆者ヨハネの登場」
マタイ3:7-12
木村一充牧師
新しい年、2025年がスタートしました。皆さま、明けましておめでとうございます。今年一年が、良い年となりますよう心よりお祈りいたします。本日は今年最初の日曜日でありますが、その礼拝の聖書箇所としてマタイによる福音書3章7節以下を選びました。洗礼者ヨハネの宣教活動の内容を書き表している箇所で、この箇所はこのあとの教会学校で学ぶ箇所のすぐ前の部分になります。ここに登場するバプテスマのヨハネでありますが、父親の名はザカリア、母親の名はエリザベトといいました。ルカによる福音書によると、このエリザベトはイエスの母マリアの親類であったと記されています。ですから、バプテスマのヨハネは、イエスとも親類関係であったということになります。ヨハネは、「主の道を整え、その道をまっすぐにする」ためにイエスに先駆けて、神が遣わした預言者、すなわち先駆者でありました。このヨハネの洗礼運動は、ユダヤ全土にわたって人々の知るところとなり、その活動場所であったユダの荒野にエルサレムだけでなく、ユダヤ全土、さらにヨルダン川沿いの地方から人々がぞくぞくとやってきて、罪を告白し、彼からバプテスマを受けたとあります。大貫隆という新約学者は、ヨハネの洗礼運動はイエスの神の国運動よりも多くの人に知られ、規模としてもずっと大きかったのではないかと述べています。何よりも、イエス本人がこのヨハネの運動に加わり、ヨハネの弟子となって彼からバプテスマを受けているのです。バプテスマのヨハネの洗礼運動の影響力は、それほどに大きかったのであります。
なぜ、ヨハネの洗礼運動は、それほど大きなインパクトを当時のユダヤの社会に及ぼしたのでしょうか。ヨハネの洗礼運動がどのような点でイエスの先駆けとなったのかを考えてみたいと思います。その第一は、ヨハネが罪の悔い改めを真実に説いたということです。ヨハネの時代の祭司たちは、その多くが大土地所有者で経済的にも裕福な家系に生まれた貴族層の人たちでした。サドカイ派と呼ばれる議員たちは、祭司ザドクの血筋をひくレビ族の出身者で、ユダヤ人たちから一目置かれる家柄出身でありました。当然、食べるものや身に着けるものも贅沢になりがちです。ところが、ヨハネはそのような生活をしている指導者が説く罪の悔い改めなど、生ぬるいと考えたのです。彼は、当時の指導者たちへの抗議の意味を込めて、その衣食住のすべての面で、自らを厳しい環境のもとに置きました。まず、彼は荒野に住みつき、そこで生活をしました。荒野とは、岩場と砂地が大部分という乾いた地であり、道路は石地が多く、舗装どころか整地すらされておらず、ほこりと泥で雨の日はそこが泥の川となるという厳しい条件のもとにある場所です。彼は、その道をサンダルで歩きました。足の指のあいだを通した紐で、足と皮の底を結び付けるという簡単な履物です。次に、彼は衣服としてらくだの毛で織った衣を身にまといました。腰には、それを締める皮の帯をつけたとあります。これは、列王記に出て来る預言者エリアの服装と同じでありました。非常に簡素な衣装であって、このことからもヨハネが贅沢な生活を排除したことが読み取れます。さらに、その食べ物にもメッセージがありました。それは、イナゴと野蜜だったといいます。みなさん、イナゴを食べたことがありますか。イナゴとはバッタより小さめの動物で、律法で食べることが許されていましたが、とても貧しい人が食べるものでした。あるいは、このイナゴはイナゴマメのことであると解釈する学者もいます。あの放蕩息子のたとえで、弟が飢饉のさなかに身を寄せた農夫の家で食べた豚のエサですね。野蜜とはハチミツのことですが、樹液の一種ではないかと取る人もいます。いずれにせよ、バプテスマのヨハネは、衣食住すべてにおいてたいへん質素な生活をしたということです。ヨハネは、生活がそのままメッセージになったのです。だから、人々は、ヨハネが説く悔い改めのメッセージに耳を傾けざるを得なかったのです。
ヨハネの運動が、当時の社会に大きなインパクトを与えた第二の理由は、全身を水で沈める罪の赦しのバプテスマを、彼がユダヤ人にも要求したということです。ここで注意すべきは、それまでバプテスマ式は、ユダヤ人以外の外国人、つまり異邦人だけに求められたユダヤ教への改宗の儀式だったということです。異邦人がユダヤ教徒になる時に、3つのことが求められました。第一は割礼を受けることです。第二は、犠牲の動物をささげることです。清い動物の血を祭壇にそそいで、罪の赦しのしるしとしたのです。そして、第三がバプテスマを受けることでした。全身を水で清めるという儀式は、列王記下5章に描かれるシリア王のナアマンという人が、重い皮膚病から癒されるために、七度(たび)ヨルダン川に身を沈めたという記事が示すように、ユダヤ人も知っていたことでした。しかし、ヨハネのバプテスマの新しい点は、もともと異邦人だけが受けるはずのバプテスマを、ユダヤ人にも求めたということです。ヨハネは本日の聖書で語っています。「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。」と。当時のユダヤ人たちは、自分たちが神に選ばれた民、ユダヤ民族の一員であり、そのことが救いに与かるための決定的な条件だと考えていました。逆に言えば、ユダヤ人として選ばれた民の一員でありさえずれば、自動的に救いに与かることができると考えたのです。しかし、ヨハネはそうではありませんでした。ユダヤ人であれ異邦人であれ、救いに与かるためには、すべての者がバプテスマを受けなければならないと教えたのです。これは、衝撃的なことでした。これら二つの理由で、ヨハネの洗礼運動は、敬虔なユダヤ人の指導者たちにも広く受け入れられました。本日の箇所で、ヨハネのもとに、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢洗礼を受けるためにやってきたとありますが、この事実がイエスの神の国運動とは大きく違っているところです。イエスのガリラヤでの運動に、ファリサイ派やサドカイ派の人々が感化を受けて、その教えに従うことはありませんでした。
ところが、これだけ大きな影響力を及ぼしたヨハネの洗礼運動でありながら、ヨハネが領主ヘロデに捕えられると、イエスはその後継者となってその運動を推し進めることなく、ユダの荒野を後にして故郷のガリラヤに帰ってしまいます。そして、そこで神の国の福音を語り告げるようになるのです。なぜ、イエスはヨハネのあとを継いで、洗礼運動を行わなかったのでしょうか。それは、おそらく「救い」に対する根本的な理解の違い、神学の違いがあったからだと思われます。ヨハネの場合、斧が木の根元に置かれているのです。実を結ばない者は、切り倒され、火に投げ込まれると言われます。つまり、悔い改めないものは根絶やしにされ、また焼き尽くされてしまう。しかし、イエスはそのような教えを説くことはありませんでした。むしろ、この方は神の祝福からもっとも遠いとみられた病人や障がい者、徴税人や遊女などの罪人こそ、まっさきに神の国に招かれているというメッセージを、福音として告げ知らせたのです。ヨハネは神の裁きを説き、イエスは無条件の赦しと神からの招きを説いたと言えるかもしれません。そこには、北風と太陽ほどの違いがあります。一方、生涯を通して罪人と共に歩み、罪人の側に身を置いて生きたという点で、イエスはヨハネをお手本にしていたと言えるでしょう。
洗礼者ヨハネは、以上のような意味で間違いなく先駆者であります。私たちの栗ヶ沢教会は、今年度は宣教開始から55周年、教会組織から50年という節目の年であります。先駆者として初代牧師鍛治田武先生、二代目牧師松見俊先生などの先駆者が就任され、良き働きをなして教会の土台を築き上げてくださいました。これらの先生方の働きへの感謝と敬意の念を払うことなしに、教会の働きを継承してゆくことは出来ないというべきであります。とくに、初代牧師としての働きをされた鍛治田先生は根木内小学校のPTA会長となり、地元や地域の方々と幅広いネットワークを構築するなかで、教会学校や地域の人との交流を中心とした教会形成につとめられました。多い時には100人を超える子どもたちが教会学校に集ったといいます。そのため、日曜日には牧師館のすべての部屋を分級室として解放したこと、そのために先生の子どもたちが、日曜日のために部屋を片付け、教会のトイレ掃除をおこなったことが、40周年記念誌に書かれておりました。今から55年前というと1970年ですが、ちょうど大阪万博が開催された年ですね。その年の8月、開拓伝道2年目の夏に旧会堂が建設されたといいます。屋根に十字架をかかげた教会で、現在千葉銀行のある坂道の上から北側に向かって立つと、辺りに何も立っていない中で、旧会堂がくっきりと見えたというのです。そのような草創期の時を経て、教会は今日まで福音を語り伝えてきました。2025年のこの年も、このような先駆者の皆さまの働きに感謝しつつ、主の業に励みたいと思います。初めてエルサレムに教会が設立した時から2000年の時が流れていますが、教会の働きはいつの時代も変わりません。使徒言行録は28章で終わっていますが、この時のパウロのローマでの宣教の記事を受けて、私たちの教会も、いま使徒言行録29章を生きているのです。今年も、その29章の歩みに新たな1ページを書き加えてまいります。先駆者たちの働きに感謝しつつ、今の時代にできることを私たちも精一杯やりとげたいと思うのであります。
お祈りいたします。